人の心と行動

未読・半読・一読の本 6 (19/06/10)

「様々なる意匠」を思い出す

ここ最近,某市がした公文書非開示処分についてその取消し,及び文書の開示を求めて提訴した行政訴訟の準備書面を書いていて時間がとられ,併行してあれやこれやの本に目を通しているものの,記事の投稿はできなかった。

そういうあれやこれやの中で「人類が永遠に続くのではないとしたら」(著者:加藤典洋)(Amazonにリンク)を読んでいで,ふと「様々なる意匠」という言葉が頭をよぎった。

小林秀雄の本はとっくに処分していたので,Kindle本で探すと,「Xへの手紙・私小説論」(著者:小林秀雄)(Amazonにリンク)に収録されていることがわかったので早速購入して読んでみた。このようなことができるので,Kindle本(電子書籍)はたまらない(青空文庫には,収録されていないようだった)。

「様々なる意匠」は,率直にいって今読み直すと無内容というしかない「文芸批評」だが,その「表現」レベル‐レトリック‐は今も新鮮で卓越している(末尾で紹介しよう)。内容と関係なく表現だけで人を圧倒できる領域が確かに存在する(ただ,「様々なる意匠」が世にもてはやされたのは,当時の「マルクス主義文学」に異を唱えたという,文脈的な意義も大きい)。

ところで「様々なる意匠」を読んでいて改めて思ったのだが,小林秀雄がこれを書いた当時,「知識人」が知的作業の対象とするのは,「文芸」がほとんどだったということである。自然科学もあったろうがその存在はわずかであり,社会,人文,哲学等々に係る言語表現は,「文芸」が扱っていたといえるのではないか。

マルクス主義は,今考えても,経済思想,政治思想として,当時,もっとも「科学」に近かったといえるであろう(ミクロ,マクロの経済学が確立されるのはずっと後である)。「文芸」しか知らなかった知識人にとって,「社会科学」と称するマルクス主義が登場したのだから,圧倒されたのも無理からぬものがある。それは,1960年代まで続いたような気がする。それももう5,60年も前の話だ。

思想とそれがもたらすことのある害悪

上述したように,私が,「様々なる意匠」という言葉を思い出したのは,「人類が永遠に続くのではないとしたら」(著者:加藤典洋)(Amazonにリンク)を読んでいた時のことである。加藤さんの「思想」は,「様々なる意匠」だなあと思ったのである。

思想というのは多義的だが,ある問題について多面的に十分に調査された資料に基づく論理的な言説(≒科学)が成立していない(あるいは成立しづらい)問題について,ある恣意的な観点と様々な抽象度から,ある資料をつなげ,ある「未熟な言説」を提示することだとしよう。

これは決して「思想」の悪口ではなく,科学が成立していない(しづらい)(古くて)新しい問題について,新しい方法,新しいとらえ方,要は,仮説を提示し,新しい行動を促すという意味で,価値あることであるが,害悪がもたらされることもある。

「思想」の内容によっては(場合によっては「思想」ともいえないような「価値観」であることもあるだろう),その「思想」こそ真実だとし,それを奉じる(実質は単なる錦の御旗にすることも多い)小集団が集団全体を「制圧」しようとする行動の中で,暴力,脅迫,威迫等々がなされることがある。小集団側は「制圧」を目的とすることについて自覚的であるのに対し,残余の多数派は往々にして「善意」である。

マルクス主義は,「思想」を奉じる小集団による集団全体の制圧が悲惨なものになることに洞察を欠き,当然のように悲惨な歴史を生んだ(マルクスの政治的言辞がその素地である気もする)。

この「思想」を奉じる小集団による集団全体の制圧という現象は,実は,史上広くみられるところであり,現代日本でも,政治運動,労働運動,宗教,任意の集団等を問わず,依然として広くみられる。次のような本がある。

  1. 「暴君:新左翼・松崎明に支配されたJR秘史」(著者:牧 久)(Amazonにリンク
  2. 「オウム真理教事件とは何だったのか? 麻原彰晃の正体と封印された闇社会」(著者:一橋 文哉)(Amazonにリンク

ⅰはマルクス主義労働運動についてだが,保守的な立場から対立勢力に暴力をふるい,相手方を蹴落とす労働運動が展開された塩路一郎の日産の労働組合も同様である。

またわが国では,宗教勢力が政治過程,地域社会に進出し,大きな力をもつことが多い。戦前の我が国も,全体としてそうだったととらえることもできよう。もっとも世界の政治は,キリスト教とイスラム教が支配していると考えれば,特異ではないのかもしれない。

オウム真理教もそうだが,かつて宗教団体の「勧誘」の問題が大きな批判を浴びたことから,行動は自重され,問題は沈静化していたと思う。しかし,私の印象だが,最近,某宗派が,政権党になったということから,公私の組織,集団に浸透し,宗教問題というより,実利的な問題について力をふるおうとすることが,私の経験する領域でも起こっている。

「人類が永遠に続くのではないとしたら」を読む

話が横にそれてしまったが,「人類が永遠に続くのではないとしたら」(著者:加藤典洋)(Amazonにリンク)は,豊かさを目指す経済派と,環境,資源の限界を唱える経済派が,相互に無関心であることを「現代社会の理論-情報化・消費化社会の現在と未来」(著者:見田宗介)(Amazonにリンク)を媒介にして,相互浸透させようとする試みのようだ。

「ようだ」というのは,この本は典型的な「思想書」だなあと思いを致したそこから「思想」に関心が移動し,先に進んでいないからである。上述した,論理的な言説(≒科学)が成立していない(あるいは成立しづらい)問題について,ある恣意的な観点と様々な抽象度から,ある資料をつなげてある「未熟な言説」を提示することこそ,まさにこの本の評価にふさわしい。加藤さんは,保険とは何か,原子力の危険性は何か,福島の回復にどれだけの費用がかかるか等について素人として手探りを進め,それを「現代社会の理論-情報化・消費化社会の現在と未来」に落とし込むことは,思想家にしかできない。ここから先には,柄谷行人,吉本隆明が待ち受けているらしい。小林秀雄の舞台は,「文芸」だったが,現代の思想の舞台は,人間の滅亡にまで及ぶ。

次のような本も関係する。

  • 「現代社会はどこに向かうか‐高原の見晴らしを切り開くこと」(著者:見田宗介)(Amazonにリンク
  • 「ポスト資本主義-科学・人間・社会の未来」(著者:広井良典)(Amazonにリンク
  • 「ポストキャピタリズム-資本主義以後の世界」(著者:ポール・メイソン)(Amazonにリンク
  • 「デジタルエコノミーはいかにして道を誤るか-労働力余剰と人類の富 」(著者:ライアン エイヴェント)(Amazonにリンク

ビジネス・フレームワークを学ぶ

次は,ビジネスだ。

先日,Project  DSの会合の「ビジネスモデルキャンパス」を使ったワークショップに参加した。何が行われるか知らずに参加したのだが,若い人と酒も飲まずに話したのは久しぶりだ。

いずれにせよビジネスで自立するには,体力も知力も感性も必要だ。「ビジネス・フレームワーク」については,次の2冊の本が参考になる

  • 「ビジネス・フレームワーク図鑑すぐ使える問題解決・アイデア発想ツール70」(著者:株式会社アンド)(Amazonにリンク
  • 「ビジネス・フレームワークの落とし穴」(著者:山田 英夫)(Amazonにリンク

デジタルについては,まだ次の本を検討していない。

  • 「デジタル ビジネスモデル 次世代企業になるための6つの問い」(著者:ピーター・ウェイル, ステファニー・L・ウォーナー他)(Amazonにリンク

このビジネスの前に目の前にあるPC・IT環境を整えたいと思ったのだが,ここでは更にその前の話となる「ネットカルマ 邪悪なバーチャル世界からの脱出」(著者:佐々木 閑)(Amazonにリンク)の出来栄えを吟味したい。

ネットという苦界から,仏教は救いとなるか。

地方自治を適正化する

ビジネスは,他人からいかに自分の活動(商品提供)の対価としてお金をもらうかという問題だが,そのような意識なく,天からお金が降ってくることを前提に活動するのが,中央政府,地方政府である。

政府のことを考えるとそのあまりの醜態に冷静ではいられなくなるが,ここでは最近入手した地方政府について考えるツールを書き留めておこう。

  • 「情報公開事務ハンドブック」(著者:松村 享)(Amazonにリンク
  • 「地方自治法講義」(著者:今井照)(Amazonにリンク
  • 「指定管理者制度のすべて  度詳解と実務の手引」(著者:成田頼明)(Amazonにリンク
  • 「自治体議員が知っておくべき新地方公会計の基礎知識 ~財政マネジメントで人口減少時代を生き抜くために~」(著者:宮澤 正泰)(Amazonにリンク
  • 「実践必携地方議会・議員の手引」(著者:本橋謙治,鵜沼信二)(Amazonにリンク
  • 「地方議会を再生する」(著者:相川俊英)(Amazonにリンク
  • 「地方創生大全」(著者:木下 斉)(Amazonにリンク
  • 「地方創生の正体―なぜ地域政策は失敗するのか」(著者:山下祐介,金井利之)(Amazonにリンク
  • 「地方自治論」(著者:北村亘,青木栄一,平野淳一)(Amazonにリンク
  • 「自治体訴訟事件事例ハンドブック」(著者:特別区人事・厚生事務組合法務部)(Amazonにリンク
  • 「はじめての自治体法務テキスト」(著者:森 幸二)(Amazonにリンク
  • 「事例から学ぶ 実践!自治体法務・入門講座」(著者:吉田勉)(Amazonにリンク
  • 「第3次改訂 法政執務の基礎知識-法令理解、条例の制定・改正の基礎能力の向上-」
    (著者:大島 稔彦)(Amazonにリンク
  • 「改訂版 政策法務の基礎知識 立法能力・訟務能力の向上にむけて」(著者:幸田 雅治)(Amazonにリンク
  • 「自治体政策法務講義」(著者:礒崎 初仁)(Amazonにリンク
  • 「自治体環境行政法」(著者:北村 喜宣)(Amazonにリンク
  • 「まちづくり条例の実態と理論-都市計画法制の補完から自治の手だてへ」(著者:内海 麻利)(Amazonにリンク
  • 「行政法講座1・2」(著者:櫻井敬子)(Amazonにリンク
  • 「行政紛争処理マニュアル」(著者:岩本 安昭)(Amazonにリンク
  • 「法律家のための行政手続ハンドブック 類型別行政事件の解決指針」(著者:山下清兵衛)

高齢者の法律問題

依然として「高齢者の法律問題」という記事は作成できていないが,その中には,健康管理も含まれる。

「スロージョギングで人生が変わる」を読む」という記事を作成したが,日々の調子が悪いとか,時間がとりにくい場合は,もう少し別の簡易なアクセスが必要だ。その場合,「姿勢」はどうだろう。実はいま私はあまり体調がよくないが,それはほとんど事務所で座って作業しているからのような気がする。姿勢を考えたい。姿勢もどうもというひとは,指ヨガとスクワットはどうだろう。

それと,高齢者になるとあれこれ医療情報に左右されてしまうが,目の前の医療情報に飛びつくのは,往々にして賢明ではない。危険な医療が行われたのは,決して昔のこととではないことについて,次の本の記述を読んでみるのがよい。

  • 「世にも危険な医療の世界史」(著者:リディア・ケイン, ネイト・ピーダーセン)(Amazonにリンク

法とルール論

弁護士である私の最大の関心事は,今,原則なくその場しのぎでつぎはぎを重ねて複雑化し(批判を恐れ,原則を定立せずに最初から必要以上に場合分けして無意味に複雑にしたものもある),崩壊一歩手前にあるものも含む法というルールがどうあるべきか,立法はどうあるべきかということであり,それはルールの科学的な探求,研究に基づくとは思うものの,その作業をどう進めればいいかは暗中模索であった(「法とルールの基礎理論」,「「ルールを守る心」を読む」,「「SIMPLE RULES」を読む」)。

これについて,前々から,ゲームをデザインする上でルールは極めて重要であるから,「ゲーム」の研究者がゲームという世界における,ルールの機能を科学的に探求しているのではないかという思いがあった。

今回,「Rules of Play: Game Design Fundamentals (The MIT Press)」 by Katie Salen Tekinbas,Eric Zimmerman(Amazonにリンク)を翻訳した「ルールズ・オブ・プレイ‐ゲームデザインの基礎」(著者:ケイティ・サレン, エリック・ジマーマン)(4分冊になっている。Amazonにリンク)があるのを見つけた。

内容は,「核となる概念」,「ルール」,「遊び」,「文化」の4ユニットに分かれ,「ルール」」を,「構成のルール」,「操作のルール」,「暗黙のルール」の3つの水準に分け, . 創発システムとしてのゲーム,不確かさのシステムとしてのゲーム,情報理論システムとしてのゲーム,情報システムとしてのゲーム,サイバネティックシステムとしてのゲーム,ゲーム理論システムとしてのゲーム,対立のシステムとしてのゲーム,ルールを破るということという順序で考察は進む。

今のデジタルゲームは,ルールを自然言語で記述しないという問題はあるものの,とてもも参考になりそうである。今後取り組みたい。

本書が参考として挙げる本も魅力的に思える。ここでは2書あげよう。その後は備忘のための関連図書だ。

  • 「文法的人間―Information,entropy,language,and life (1984)」(著者:J.キャンベル)(Amazonにリンク
  • 「複雑性とパラドックス-なぜ世界は予測できないのか?」(著者:ジョン・L. キャスティ)(Amazonにリンク
  • 「Legal analysis by David S. Romantz,Kathleen Elliott Vinson」(Amazonにリンク
  • 「The legal analyst by Ward Farnsworth」(Amazonにリンク
  • 「Artificial intelligence and legal analytics by Kevin D. Ashley」(Amazonにリンク
  • 「遠藤雅伸のゲームデザイン講義実況講義」(著者:株式会社モバイル&ゲームスタジオ)(Amazonにリンク
  • 「ゲームデザイン」(著者:渡辺訓章)(Amazonにリンク

「様々なる意匠」のさわり

「様々な意匠」からさわりの部分を抜き出してみよう。

「吾々にとって幸福な事か不幸な事か知らないが,世に一つとして簡単に片付く問題はない。劣悪を指嗾しない如何なる崇高な言葉もなく,崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない。而も,若し言葉がその人心眩惑の魔術を捨てたら恐らく影に過ぎまい。私は,ここで問題を提出したり解決したり仕様とは思わぬ。「自分の嗜好に従って人を評するのは容易な事だ」と,人は言う。然し,尺度に従って人を評する事も等しく苦もない業である。常に生き生きとした嗜好を有し,常に溌剌たる尺度を持つという事だけが容易ではないのである」。

「批評の対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つの事でない。批評とは 竟 に己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!」。

「私は「プロレタリヤの為に芸術せよ」という言葉を好かないし,「芸術の為に芸術せよ」という言葉も好かない。こういう言葉は修辞として様々な陰翳を含むであろうが,竟に何物も語らないからである」。

「人はこの世に動かされつつこの世を捨てる事は出来ない,この世を捨てようと希う事は出来ない。世捨て人とは世を捨てた人ではない,世が捨てた人である」。

「人は芸術というものを対象化して眺める時,或る表象の喚起するある感動として考えるか,或る感動を喚起する或る表象として考えるか二途しかない」。

「人間は生涯を通じて半分は子供である。では子供を大人とするあとの半分は何か?人はこれを論理と称するのである。つまり言葉の実践的公共性に,論理の公共性を附加する事によって子供は大人となる」。

いかにも魅力的な言説である。冒頭で記した「今読み直すと無内容というしかない「文芸批評」だが,その「表現」レベルーレトリックーは今も新鮮で卓越している。内容と関係なく表現だけで人を圧倒できる領域が確かに存在する」ということが了解いただけるだろうか。

「このような魔境から距離を取ることを自立という。いや自立とは,精神が魔境を球状に構成することというべきだろう」というように,表現が自然に小林節に飲み込まれてしまうが,飲み込まれないように距離を取れることが自立であることは間違いない。

 

 

人の心と行動

深層日本論-ヤマト少数民族という視座

「深層日本論 ヤマト少数民族という視座」(著者:工藤 隆)(Amazonにリンク)の著者の工藤さんは旧知の人で,若いころは古代に舞台をとった「黄泉帰り」等の演劇の上演活動をしていたが,その後,上代口承文芸の研究をして大東文化大学の先生をしていたようだ,Wikipediaを見ると,古事記,古代歌謡,神話,大嘗祭等に関する本を多く書いており,この本はそれらの集大成ということかもしれない。

この本は,日本文化の基層を「アニミズム・シャーマニズム・神話世界性とムラ社会性・島国文化性」とし,その世界が文字で確認できる歌垣としての記紀歌謡・万葉歌と,工藤さんが辛くも実地調査できた中国雲南省の少数民族らの歌垣との共通性を紹介する。そして中国漢民族との対比でのヤマト(少数民)族が(一方で,アイヌ民族,沖縄民族を吸収し),「国家」を形成し,白村江の敗戦,明治維新,敗戦の3つの文明開化において基層と表層の2重構造を乗り切ってきたとする。

神話,神道等の世界を嫌う人も多いから,工藤さんは,慎重に概念規定をした上で,上述した観点等を踏まえ,政治,社会を含む,日本文化論を展開する。記紀歌謡,万葉集で挑む文化論だから,「敗戦と原発事故」を論じ,「日本文化のなにを誇り,なにを制御するか」は,いささか背伸びした議論にも感じるが,しかし不快さは感じない。ただし,「伊勢神宮論」や「大嘗祭論」は,私にはあまり興味がわかない。特に,後者の「サカツコの復活が望まれる」はどうなんだろう。

このように,話を現代に持ってくるのはどうかということの他に,文字で確認できる記紀歌謡・万葉集が出発点とし,それはどのように形成されたのというそれ以前の話がなくていささか気持ちが悪い。これについては,「「問題解決と創造」を予習する」であげた「日本文化」の項目の,「ヒト 異端のサルの1億年」(著者:島泰三)(Amazonにリンク)が3万年前以降繰り返されたホモサピエンスの日本列島への流入,諸地域に分散する,人種と言語の近親性を挙げている。それと本書の間,縄文時代,弥生時代,古墳時代を埋めることが必要だろう。とりあえずKindle本で,次のような本がある。ゆっくり目を通していこう(その後は,「漢文の素養~誰が日本文化をつくったのか?~」(著者:加藤徹)(Amazonにリンク)に続く)。

  1. 「日本人の起源 人類誕生から縄文・弥生へ (講談社学術文庫) 」(著者:中橋孝博)
  2. 「海の向こうから見た倭国 (講談社現代新書)」(著者:高田貫太)
  3. 「弥生時代の歴史 (講談社現代新書) 」(著者:藤尾慎一郎)
  4. 「縄文時代の歴史 (講談社現代新書) 」(著者:山田康弘)

ⅰを少し読んだが,そういえば日本の考古学会は大変だたなあということを思い出した。

文化論とは

ところで工藤さんは「日本人は日本人論,日本文化論がとても好きだ。その多くは,日本人あるいは日本文化は世界でも特殊な存在だという認識が前提として置かれている。実のところ,私もそう思っている。ではいつ,どのような理由でそのような特殊性を得たのか。その特殊性が現在もあるとすればなぜなのか。本書はこうした疑問に対して「ヤマト少数民族」という視点を導入することで、大きな回答を示そうという試みである」とするのだが,文化論は,何を論じているのか,そのような対象が実在するのかという,反省的観点が必須である。そうしないと単なる酒場の与太話になってしまう。

ただ私は「文化」を,「ある集団の,ある場での,環境(地理)と歴史によって形成された言動のパターンや特徴」と定義するので,集団,場の抽象度や限定された具体的な内容がしかkりしていれば,ある種の議論は可能だと思っている。ただ「日本人は…だ」というような抽象度が高い無限定な言説はがほとんど意味がない。

仏教には何の意味があるのか

ところで日本文化論というとき,私は記紀,万葉より,仏教論に親しみを感じてきた。ただ,空,中観,密教,唯識と,面白いといえば面白いが,最近は,一体,何の意味があるのだろうという思いが強く遠ざかっていた(そういえば,「仏教は本当に意味があるのか」(著者:竹村牧男)という本があったことを思い出したが,これは事務所移動時に「寄贈」している)。

ただそれでも仏教書には時おり目を通していたが,最近,「別冊NHK100分de名著 集中講義 大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した」(著者:佐々木 閑)(Amazonにリンク)を読んで,改めて,仏教はせいぜいこんなもんだが,それはそれですごいなあと思い返している(佐々木さんは,2年前の年賀状で,「我が国には,視点は大分違いますが「真理の探究 仏教と宇宙物理学の対話」という本があります。超弦物理学の大栗さんと仏教学の佐々木さんの対談で,題名を見ると?ですが,科学対科学を侵犯しない仏教との対話とでもいうべきもので、内容は意外にまっとうで面白い」として紹介していた)。

その佐々木さんに,昨日,「ネットカルマ 邪悪なバーチャル世界からの脱出 (角川新書) 」(著者:佐々木 閑) (Amazonにリンク)という本があることを発見したので早速購入した。私もネットが「邪悪なバーチャル世界」であると思っているので,佐々木さんはここで本当に仏教を活かせているか,少し読み込んで紹介しよう。

 

本の森,社会と世界

「人間をお休みしてヤギになってみた結果」(著者:トーマス トウェイツ)(Amazonにリンク

若きデザイナー(無職?)の果敢な挑戦

著者のトーマス トウェイツは,「気になっていたこと」でも引用した「ゼロからトースターを作ってみた結果 」(Amazonにリンク)を書いた,目の付け所が極めて優れている,イギリスの若き(あまり忙しそうではない)デザイナーである。

今回は,ヤギの骨格を模した装置を装着して移動し,草を食べてみた「結果」を本にした。最初は心配事や,人間でいることの痛みから解放されることを目指し,象になることを志したが,象は大きすぎて首が短く鼻が長いので,そのような装置を作成しても,人間の力だけでは操作が不可能なこと,常時草を食べていなければならないこと,しかも象は「道徳」を理解するらしく「人間」から離れるという目的にそぐわないこと,等からこれは断念し,哲学的考察,シャーマンの「アドバイス」,ドラッグ経験等を経てヤギになってみることにしたということだそうだ。

ヤギというと,私は牧歌的にメ~となく動物という印象だったが,Wikipediaでは「高くて狭い場所、特に山岳地帯の岩場等を好む種が多く、人間がロッククライミングをしないと登れないような急な崖においても、ヤギは登ることができる。古くから人類に親しまれている家畜ではあるが、人馴れしていない個体は見知らぬ者を見ると攻撃してくることがあり、その際の突進の力は強力なものである」と紹介されている。そういえば横浜のどこかの動物園で,高いところに駆け登るヤギを見かけたことを思い出した。

著者は,ヤギになるからには,ギャロップをし,草を食べ,アルプス越えをしようと計画する。動物になるということでいえば,「「動物になって生きてみた」を読む」を紹介したことがあるが,そちらは本当に動物目線で生きてみようとする訳の分からなさがあって迫力満点だったが,「人間をお休みしてヤギになってみた結果」は,出発点が「心配事や,人間でいることの痛みから解放される」といっても,そういってみているだけで,デザイナーとしてのしゃれた試みに見受けられる。

各章の内容

本書の「第1章 魂」には,ヤギになってみようとするまでの経緯が書いてあって,入り組んでいて読みにくいのだが,ヤギになることを決めた後の「第2章 思考」以下(第3章 体,第4章 内臓,第5章 ヤギの暮らし)は,抱腹絶倒の面白さがある。

例えば,第2章では,ヤギ行動学のエキスパート、アラン・マックエリゴット博士と次のような話をする。

「なぜ君はヤギになりたいんだ?」,「ええと,実はシャーマンに会いに行きまして,彼女が僕にヤギになれと言うんですよ~」, 「へえ,なるほどね」。一瞬の沈黙の後、彼は続けた。「なぜシャーマンに会いに行ったんだ?」,「実は,象になろうと思って行き詰まっちゃいましして」,「そりゃそうだろうね」,「敢えて質問するけれど、なぜ象になりたかったんだ?」 「ああ、象ね……。えっと,人間の存在とその考えの詰まった世界を重く感じちゃったんです。つまり,動物になった方がラクじゃん? って考えたんですよ。動物になれば悩みもなくなるんじゃないかって。いわゆる、人間特有の悩みっていうやつですが。ヤギは悩んだりするのかな?って思って」 「悩むね,実のところ、,自身はそれを〝悩む〟とは言わないけどね。不安になる……つまりストレスを感じるということだろう」。

その他,人間がヤギになる装置をつけてギャロップしようとすると鎖骨が折れる話,どちら(性別)のヤギになりたいのかという話,死んだヤギの解剖を手伝い動物は管とその付属機関であると認識したこと,草を食べて動物の消化器官内の液を自分の大腸に移植し,あるいは外部装置に入れて草を消化して食べようとして止められた話等々(まだまだあるので,気が向いたら追加しよう)。

ギャロップをすること,草を食べてみることも,テクノロジーを研究して乗り越えようとするが,うまくいかず,結局,実行したことは,体力を要する装置を動かし,短い期間ヤギと過ごし(一頭に気に入られた),アルプス越えをするという,体力勝負が前面に出た根性物語に近くなっている。その意味では,ウルトラマラソンやトレラン(「BORN TO RUN 走るために生まれた―ウルトラランナーVS人類最強の走る民族」(著者:クリストファー・マクドゥーガル )(Amazonにリンク),冒険譚(「人間はどこまで耐えられるのか」(著者:フランセス・アッシュクロフト)(Amazonにリンク)を読む面白さがある。

ただこれらの試みは,人間と動物を別物としているわけではない。人間を動物の一亜種としてとらえ,動物になることで動物である人間をよりよくとらえようとしているのである。しかしイギリス人は,面白いことを考え,実行するなあ。これが「文化」だろうね。