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読んでいない本について語る本_を読む

目次

読んでいない本について堂々と語る方法_への道標

書誌

短い紹介と大目次

400字の紹介文

本を語るためにはまずそれを読んでいなければならない――読書文化におけるこの疑いようのない前提を、本書は根底から覆す知的挑発の書である。
著者はまず、「読んだ/読んでいない」という単純な二元論を大胆に解体する。「ざっと目を通した本」「人から聞いた本」「読んだが忘れてしまった本」といった未読の多様なグラデーションを示し、読書という行為そのものが本質的に曖昧であることを暴き出す。この認識に立てば、真の教養とは個々のテクストを踏破することではなく、それら全てが織りなす関係性の地図とも言うべき〈共有図書館〉の中で、ある一冊が占める「位置」を把握する、より高次の知的能力であると著者は主張する。
ここにおいて、読んでいない本について語る行為は、もはや知的な偽善ではなく、自己の内面から創造される〈内なる書物〉を紡ぎ出す解放的な創造行為へと昇華される。本書は読書をめぐる積年の罪悪感から我々を解き放ち、知識との格闘を自己発見という創造の旅路へと変える一冊である。

大目次

  • I 未読の諸段階(「読んでいない」にも色々あって・・・・・・)
    • 1 ぜんぜん読んだことのない本
    • 2 ざっと読んだ(流し読みをした)ことがある本
    • 3 人から聞いたことがある本
    • 4 読んだことはあるが忘れてしまった本
  • Ⅱ どんな状況でコメントするのか
    • 1 大勢の人の前で
    • 2 教師の面前で
    • 3 作家を前にして
    • 4 愛する人の前で
  • Ⅲ心がまえ
    • 1 気後れしない
    • 2 自分の考えを押しつける
    • 3 本をでっち上げる
    • 4 自分自身について語る
  • 結び
  • 訳者あとがき

一口コメント

この題名に耐えられるか?ここが問題だ。

読んでいない本について堂々と語る方法_要約と詳細目次(資料)

要旨

本書は、読んでいない本について語る行為が単に可能であるだけでなく、知的かつ創造的な活動であることを論じる。ピエール・バイヤールは、「読んだ」と「読んでいない」の境界は曖昧であり、流し読み、人から聞く、読んだが忘れるといった多様な関わり方すべてがテクストとの接触の一形態であると主張する。
本書の核心的概念は以下の通りである:

  • 共有図書館(Shared Library): 真の教養とは、個々の本の内容を記憶することではなく、ある文化における書物全体の体系の中で、特定の本がどのような位置を占めるかを把握する能力である。
  • 内なる図書館(Inner Library)と内なる書物(Inner Book): 読書は、個人の経験や価値観によって形成された主観的な書物の集合体(内なる図書館)と、新しいテクストを解釈するための無意識の物語的枠組み(内なる書物)を通して行われる。
  • ヴァーチャル図書館(Virtual Library)と幻影としての書物(Phantom Book): 書物についての会話は現実のテクストそのものを対象とするのではなく、参加者の解釈や言説によって絶えず変容する流動的な「幻影としての書物」を対象とする。この会話が交わされる社会的空間が「ヴァーチャル図書館」である。
    これらの概念に基づき、本書は読んでいない本について語る際の心理的障壁(罪悪感や気後れ)を取り除き、その状況を自己表現と創造の機会として積極的に活用するための戦略を提示する。最終的に本書は、受動的な読書から脱却し、自らがテクストの創造者となることの重要性を説き、教育における書物の脱神聖化を提唱する。

I. 未読の諸段階

第I部では、「読んでいない」という状態が単一ではなく、多様な段階を持つことを論じる。テクストとの接触は「読んだ」か「読んでいない」かの二者択一ではなく、その中間に位置するさまざまな形態をとる。

1. ぜんぜん読んだことのない本(〈未〉)

  • 中心的主張: ある本について語るために、その本を実際に開く必要はない。重要なのは、ムージルの小説『特性のない男』に登場する図書館司書のように、書物全体の体系におけるその本の位置、すなわち「全体の見晴し」を把握することである。
  • 主要概念:
  • 共有図書館(Shared Library): ある文化の方向性を決める重要書の全体。真の教養とは、この体系内での個々の書物の関係性を理解することであり、個別の細部を記憶することではない。
  • 位置関係の優位: 本の内容よりも他の書物との関係性(外部)が重要である。たとえば、ジョイスの『ユリシーズ』を読んでいなくても、『オデュッセイア』の焼き直しであることや「意識の流れ」という手法を知っていれば、他の作品との関係で位置づけて語ることが可能になる。
  • 結論: 本を読まないことは単なる欠如ではなく、膨大な書物の海に呑み込まれないための能動的な戦略になりうる。

2. ざっと読んだ(流し読みをした)ことがある本(〈流〉)

  • 中心的主張: 通読することは稀であり、多くの場合、我々は流し読みをしている。ポール・ヴァレリーの例が示すように、流し読みは本質を捉える上で効果的な方法であり、時には通読が弊害となることさえある。
  • 事例分析(ポール・ヴァレリー):
  • ヴァレリーはプルーストの作品をほとんど読まずに追悼文を書き、その中で「彼の本はどこを開いてもかまわない」と述べ、自身の「読まなさ」をプルースト作品の本質に根ざした批評的態度として正当化した。
  • アナトール・フランスの演説では、読書過多が独創性を奪う危険性が示唆される。
  • 結論: ヴァレリーの姿勢は、批評家が作品の「観念」や普遍的法則を捉えるためには、個々のテクストの細部に迷い込まないことが重要だという考えに基づく。これは流し読みという日常的行為に理論的根拠を与える。

3. 人から聞いたことがある本(〈聞〉)

  • 中心的主張: 他人の言説を通じて、本を直接手に取らずにその内容を正確に知ることができる。書物はそれ自体としてだけでなく、それを取り巻く言説の総体によっても存在する。
  • 事例分析(ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』):
  • 主人公ウィリアムは、アリストテレスの『詩学』第二部とされる幻の書物を直接読むことなく、他の修道僧のメモや事件に対する反応を手がかりにその内容を再構成する。
  • この書物は、登場人物の不安や価値観を投影する器となる。
  • 主要概念:
  • 遮蔽幕としての書物(Screen Book): 我々が話題にする書物は、客観的な「現実の」書物ではなく、個人の記憶や無意識の価値観によって再編成・捏造された主観的な代替物である。

4. 読んだことはあるが忘れてしまった本(〈忘〉)

  • 中心的主張: 読書は忘却と不可分である。読んだ内容は時間とともに失われ、やがて「読んでいない」状態と大差がなくなる。この「脱-読書」のプロセスは、読書自体の概念を揺るがす。
  • 事例分析(モンテーニュ『エセー』):
  • モンテーニュは記憶力の欠如を嘆き、読んだ本の内容だけでなく、読んだという事実さえ忘れることがあった。彼は読んだ本の末尾に感想を書き留めることで忘却に対処しようとした。
  • 自分が書いた内容さえ忘れることがあり、他人が自分の文章を引用しても気づかないことがあった。これは読書が自己同一性を揺るがす可能性を示唆する。
  • 結論: 読書とは知識を得ることと同時に失うことであり、自己の内にある忘却と向き合うことでもある。我々が記憶しているのは、均質な書物内容ではなく、個人的な幻想によって歪められた断片の集合である。

II. どんな状況でコメントするのか

第II部では、読んでいない本について語らざるを得なくなる具体的な社会的状況を分析する。これらは単なる知識の欠如の問題ではなく、対人関係や権力構造、個人のアイデンティティが関わる複雑なコミュニケーションの場である。

1. 大勢の人の前で

  • 事例分析(グレアム・グリーン『第三の男』):
  • 主人公ロロ・マーティンズは、高名な作家ベンジャミン・デクスターと間違えられ、自分が書いたことも読んだこともない作品について講演する羽目になる。
  • 聴衆の質問(ヴァージニア・ウルフやジェイムズ・ジョイスについて)と、マーティンズの知識(西部劇作家ゼイン・グレイ)とがかみ合わず、「耳の聞こえない者どうしの対話」が生じる。
  • 主要概念:
  • 内なる図書館(Inner Library): 個人の人格形成に影響を与えた書物(忘れられたものや想像上のものを含む)の主観的な集合体。マーティンズと聴衆の対話が成立しないのは、両者の「内なる図書館」が根本的に異なるためである。
  • 結論: 書物についての会話は単一の本をめぐるものではなく、個人のアイデンティティと結びついた「内なる図書館」どうしの衝突や交渉の場となる。

2. 教師の面前で

  • 事例分析(ローラ・ボハナンとティヴ族):
  • 人類学者ボハナンがティヴ族に『ハムレット』を語ったところ、ティヴ族はガートルードの早すぎる再婚を当然とみなし、亡霊の存在を信じないなど、自らの文化的世界観で物語を解釈し、ボハナンの説明を次々に修正する。
  • 主要概念:
  • 内なる書物(Inner Book): 新たなテクストに出会う際に、その読解の仕方を方向づける神話的・個人的な表象の総体。ティヴ族は『ハムレット』を自分たちの「内なる書物」に適合するよう読み替えている。
  • 結論: 我々はテクストを直接受容するのではなく、常に自らの「内なる書物」というフィルターを通して解釈・再構成する。したがって、断片的な情報があれば、この「内なる書物」に基づいて意見を表明することが可能である。

3. 作家を前にして

  • 事例分析(ピエール・シニアック『フェルディノー・セリーヌ』):
  • 主人公ドシャンは、自分が書いたはずの小説が別の内容に書き換えられてしまったという設定で、テレビ番組で著者としてコメントしなければならない。彼は自分が読んでいない本の「著者」として振る舞う。
  • この状況は、作家と読者の間に生じる認識のズレを極端に示している。作家自身でさえ、読者が語る自作の解釈と自分の意図との乖離に違和感を覚えることがある。
  • 結論: 作家を前にして読んでいない本について語る場合、最も安全な戦略は作品を褒め、細部には立ち入らないことである。詳細なコメントは、作家と読者の「内なる書物」の溝を露呈し、作者を不安にさせるだけである。

4. 愛する人の前で

  • 事例分析(映画『グラウンドホッグ・デイ』):
  • 主人公フィルは同じ一日を繰り返す中で、思いを寄せる女性リタを誘惑するために彼女の好む詩を学び、完璧に暗唱してみせる。
  • これは、繰り返しと試行錯誤によってのみ達成される、二人の「内なる書物」の完全な一致という幻想を描く。
  • 結論: 現実の非連続的な時間の中では、二人の内的宇宙を完全に一致させることは不可能である。書物を介したコミュニケーションは常に不完全で誤解をはらんだ断片的なものとなる。

III. 心がまえ

最終部では、読んでいない本について語るための具体的な心構えと実践的方法を提示する。これらは書物と自己の関係を根本的に捉え直し、創造的な行為へと転化することを目的とする。

1. 気後れしない

  • 中心的主張: 読んでいないことへの罪悪感や恥の感情から自分を解放することが第一歩である。書物に関するコミュニケーション空間は本質的に曖昧さに基づいている。
  • 事例分析(デイヴィッド・ロッジ『交換教授』『小さな世界』):
  • 大学教師たちが、他人が読んでいるが自分は読んでいない有名な本を告白し合う「屈辱」というゲームは、教養の欠落を意図的にさらけ出す。
  • ある教授が『ハムレット』を読んでいないと告白したことで、ゲームの暗黙のルール(曖昧さの維持)が破られ、彼は共同体から排除される。
  • 主要概念:
  • ヴァーチャル図書館(Virtual Library): 書物について語り合う、イメージと合意に基づく社会的・遊戯的空間。この空間では、知識の正確さよりもコミュニケーションの円滑さが優先される。
  • 結論: 欠陥なき教養という幻想を捨て、教養が不連続な断片から成ることを受け入れれば、気後れせずに議論に参加できる。

2. 自分の考えを押しつける

  • 中心的主張: 書物は固定された対象ではなく、言説や社会的コンテクストによって価値や内容が変化する流動的なものである。この可変性を利用して、自身の観点を積極的に主張すべきである。
  • 事例分析(バルザック『幻滅』):
  • ジャーナリストのルストーは、本を開きもせずに書評を書き、著者の社会的地位や出版人との関係といった本の内容以外の要因に基づいて、同じ本を称賛することも酷評することも可能だと示す。
  • 主人公リュシアンの詩集は、彼が無名のうちは紙屑同然だったが、彼がジャーナリストとして力を持つと読まれないまま高値で評価される。
  • 結論: 書物は言説状況の中で常に変化する。このダイナミズムを理解すれば、他者の意見に惑わされず自信を持って解釈を主張できる。

3. 本をでっち上げる

  • 中心的主張: 書物に関する議論の対象は現実の書物ではなく、会話の中で立ち現れる潜在的で流動的な「幻影としての書物」である。したがって、自らもその創造に参加し、新たな物語を「でっち上げる」ことが許される。
  • 事例分析(夏目漱石『吾輩は猫である』):
  • 登場人物の美学者は、読んだことのない小説のヒロインが死ぬ場面を絶賛するが、実際にはそのヒロインは死なない。その記憶違いは読書行為の不確かさを示し、彼の「でっち上げ」は作品の潜在的可能性を探る創造的行為と見なせる。
  • 主要概念:
  • 幻影としての書物(Phantom Book): 議論の場で参加者の〈内なる書物〉や〈遮蔽幕としての書物〉が出会うことによって生まれる、流動的で捉えがたい共同創造物。
  • 結論: 未読書について語ることは、作品の潜在的なポリフォニーを尊重し、それを他者との関係を創造する口実として用いることで、創造的なフィクションの空間を開く行為となる。

4. 自分自身について語る

結論: 読んでいない本について語る際に重視すべきは作品の正確な再現ではなく、断片的な情報を手がかりにそれが自己の「内なる書物」とどう響き合うかを探ることである。これにより、読者は他人の言葉の重圧から解放され、自らが作家となる創造的プロセスの第一歩を踏み出せる。

中心的主張: 批評活動の究極の目的は作品そのものを語ることではなく、作品を口実に自分自身について語ることである。したがって、読んでいない本について語る状況は、自己発見と自己創造の絶好の機会となる。

事例分析(オスカー・ワイルド「芸術家としての批評家」):

ワイルドは、最高の批評とは「魂の声」であり「唯一の洗練された形式の自伝」であると主張した。彼は「批評しないといけない本は読まないことにしている。読んだら影響を受けてしまうからだ」と述べ、作品との距離を保つ重要性を説いた。

  • 目次
    • I 未読の諸段階(「読んでいない」にも色々あって・・・・・・)
      • 1 ぜんぜん読んだことのない本
      • 2 ざっと読んだ(流し読みをした)ことがある本
      • 3 人から聞いたことがある本
      • 4 読んだことはあるが忘れてしまった本
    • Ⅱ どんな状況でコメントするのか
      • 1 大勢の人の前で
      • 2 教師の面前で
      • 3 作家を前にして
      • 4 愛する人の前で
    • Ⅲ心がまえ
      • 1 気後れしない
      • 2 自分の考えを押しつける
      • 3 本をでっち上げる
      • 4 自分自身について語る
    • 結び
    • 訳者あとがき

Mのコメント(内容・方法及び意味・価値の批判的検討)

ここでは、対象となる本の言語空間がどのようなものか(記述の内容と方法は何か)、それは総体的な世界(言語世界)の中にどのように位置付けられるのか(意味・価値を持つのか)を、批判的思考をツールにして検討していきたいと思います。ただサイト全体の多くの本の紹介の整理でアタフタしているので、個々の本のMのコメントは「追って」にします。

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