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脳の大統一理論_を読む

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脳の大統一理論_要約と目次

書誌

要旨

本ブリーフィングは、カール・フリストンが提唱した「自由エネルギー原理」の核心概念とその広範な応用をまとめたものである。この原理は、知覚、運動、注意、意思決定、感情など多様な脳機能を単一の計算論的枠組みで統一的に説明しようとする試みである。
原理の中心的主張は、脳は環境に関する内部モデル(生成モデル)を持ち、感覚入力とモデルによる予測とのズレ、すなわち「予測誤差」を最小化するように機能するということである。この予測誤差の長期的平均は「自由エネルギー」と数学的に関連しており、脳の全活動はこの自由エネルギーを最小化するプロセスとして理解される。
この視点に立てば、脳は単なる情報処理装置ではなく、常に未来を予測し、その予測が現実となるように信念(知覚)や行動(運動)を能動的に調整する「推論機械」として捉えられる。本原理は健常な脳機能のみならず、統合失調症や自閉症など精神疾患のメカニズムにも新たな説明を提供し、認知発達、進化、意識の起源にまで迫る広範な射程を持つ理論である。

1. 自由エネルギー原理の核心:脳は「推論する機械」である

自由エネルギー原理は、脳の多様な働きを「推論」という単一の機能に集約する。脳は不完全な感覚情報から、その原因となっている世界の「隠れ状態」を推測する。この推論プロセスは、自由エネルギーを最小化する二つの主要な戦略によって実現される。

1.1. 知覚:無意識的推論としての世界認識

知覚とは感覚信号そのものを処理するのではなく、その信号を引き起こした世界の原因を推論するプロセスである。これはヘルマン・ヘルムホルツが提唱した「知覚は無意識的推論である」という概念に根差している。

  • 予測符号化モデル:脳は内部に持つ世界のモデル(生成モデル)を用いて、次にどのような感覚信号が入力されるかを常に予測している(トップダウン処理)。
  • 予測誤差の最小化:実際の感覚入力(ボトムアップ処理)とこの予測との差分が「予測誤差」である。
  • 信念の更新:脳は予測誤差が最小になるように内部モデル、すなわち世界に対する「信念」を更新する。この信念の更新が、我々が体験する「知覚」である。
  • 循環的プロセス:脳は予測(トップダウン)と感覚データ(ボトムアップ)の間の循環的な処理を通じて世界を能動的に解釈する。
    「私たちが知覚するのは『物体の大きさ』であって、網膜像そのものではない。」

1.2. 行動:予測を実現するための能動的推論

自由エネルギーを最小化するもう一つの方法は、内部の信念を変えるのではなく行動によって世界を変え、感覚入力を予測に合致させることである。これは「能動的推論(Active Inference)」と呼ばれる。

  • 運動制御の再定義:従来の「運動指令」という概念を覆し、運動野から送られる信号は「運動が完了した際に得られるであろう筋感覚の予測」であると解釈される。
  • 反射弓の役割:脊髄の反射弓は、予測された筋感覚と実際の筋感覚との誤差を最小化するように筋肉を収縮させる。これにより、脳は複雑な「逆モデル」を計算することなく目標とする運動を達成できる。
  • 自己証明する脳:能動的推論は、自らの予測が正しいことを示す証拠(感覚信号)を行動を通じて能動的に収集するプロセスである。脳は予測に合致するよう世界に働きかけることでモデルを維持し、サプライズを最小化する。

2. 主要な脳機能への応用

自由エネルギー原理は、知覚と運動の基本機能に加え、より高次の認知機能に対しても統一的な説明を与える。

2.1. 注意:予測誤差の「精度」制御

脳内の信号には常にノイズが含まれ、その信頼性は一定ではない。この信頼度は「精度(precision)」という概念でモデル化される。

  • 注意のメカニズム:「注意を向ける」とは、特定の予測誤差信号の「精度」を高める操作である。
  • 精度の効果:精度が高く設定された予測誤差はより重視され、信念の更新に大きな影響を与える。逆に精度が低い誤差は無視される。
  • 神経修飾物質の役割:この精度制御はドーパミンなどの神経修飾物質によって実現されると考えられる。ドーパミンの役割は報酬予測誤差ではなく、信号の重要性を調整する「精度制御」であるという視点が提示される。

2.2. 意思決定:二つの価値の最適化

目標志向行動は、将来の不確実性を表す「期待自由エネルギー」を最小化する行為を選択するプロセスとして説明される。期待自由エネルギーは二つの異なる価値のバランスで構成される。

価値の種類説明行動タイプ
実利的価値(外在的価値)報酬や罰など、望ましい成果(選好事前分布に合致する成果)を得ることに関連する価値。期待効用を最大化する。利用行動
認識的価値(内在的価値)世界の構造に関する不確実性を減少させることに関連する価値。情報を得ることでより正確なモデルを構築しようとする。探索行動
人間の行動は、既知の報酬を最大化しようとする「利用」と、未知の情報を求めて環境を探る「探索」との間の動的なバランスの上に成り立つ。

2.3. 感情:内受容感覚の推論

感情は外部世界だけでなく、身体の内部状態(内環境)に対する推論の結果として生じる。

  • 内受容感覚:脳は内臓や血管の状態を伝える内受容感覚信号に基づき、身体内部の隠れ状態を推論する。
  • ホメオスタシスとアロスタシス:
  • ホメオスタシス:体温や血圧などを一定に保つ機能。内受容感覚の予測誤差を最小化する反射弓によって実現される。
  • アロスタシス:将来の需要を予測してホメオスタシスの設定値を事前に変更する機能。これも内環境に対する能動的推論の一形態である。
  • 感情の生成:感情は、①内受容感覚に基づく身体状態の推論(知覚)と、②その身体状態変化を引き起こした原因に関する高次の推論(認知)が統合されることで生じる主観的体験である。
    「私たちが感じる内臓状態や感情は、内臓からの感覚信号そのものではなく、内環境に対するさまざまな隠れ原因や隠れ状態の推定結果である。」

3. 精神医学への示唆:精度制御の異常

自由エネルギー原理、特に「精度制御」の概念は、精神疾患の症状を計算論的に説明する強力な枠組みを提供する。

3.1. 統合失調症:感覚減衰の障害

  • 感覚減衰:自己の行動によって生じる感覚(再求心性感覚)の精度を低下させるメカニズム。これにより「自分で自分をくすぐってもくすぐったくない」といった現象が生じ、自己と他者が区別できる。
  • 症状のメカニズム:統合失調症ではこの感覚減衰が機能不全に陥っていると考えられる。その結果、自ら起こした行動に伴う感覚が減衰されず、あたかも外部から与えられたかのように感じる。これが「させられ体験」など自己主体感の喪失につながる。
  • 幻覚・妄想:感覚減衰の失敗を補うために、脳は予測信号の精度を過剰に高める。その結果、現実の感覚信号が無視され、事前の信念(妄想)が現実を支配するようになり、幻覚や妄想が生じると説明される。

3.2. 自閉症スペクトラム障害:予測の精度低下

  • 症状のメカニズム:自閉症は、統合失調症とは対照的に、予測や事前信念の精度が慢性的に低い状態とモデル化される。
  • 感覚過敏:予測の精度が低いため予測誤差が常に大きくなり、些細な感覚刺激にも過剰に反応する(感覚過敏)。世界が常に予測不能で「サプライズ」に満ちたものとして体験される。
  • 常同行動:絶え間ないサプライズから身を守る防衛戦略として、自閉症者は自らが正確に予測できる行動(常同的・反復的行動)を好む。予測困難な社会的コミュニケーションを避ける傾向もこの文脈で理解できる。

4. 統一理論としての展望

自由エネルギー原理は個人の認知機能に留まらず、生命そのものの原理にまで拡張される。

4.1. 発達、進化、そして自己の形成

  • 認知発達:乳児の学習は能動的推論そのものである。期待に反する事象(サプライズ)に遭遇すると、乳児はそれを解消するため探索行動を取り、世界の生成モデルを構築・更新していく。
  • 進化:生命体は熱力学第二法則がもたらす無秩序(エントロピー)に抵抗し、秩序ある状態(ホメオスタシス)を維持する存在である。これは自らの生存に適した感覚状態に関するサプライズを長期的に最小化するプロセスであり、自由エネルギー最小化の原理が進化の時間スケールで働いていることを示唆する。生物は生態的ニッチの生成モデルを体現した存在と見なせる。
  • 自己の境界:「マルコフブランケット」という概念は生物と環境を分ける境界を説明する。この境界を介して生物は環境から分離した「自己(内部状態)」を形成し、自律的な推論を行うことが可能になる。

4.2. 意識:時間的に深い生成モデル

自由エネルギー原理は意識という難問にも示唆を与える。

存在論的転回:本原理はデカルトの「我思う、故に我あり」を転換し、生命がまず存在し、エントロピーに抗してその存在を維持し続けるという根源的要請から思考(推論)が生まれるとする。すなわち、「我あるが故に我思う」のである。

時間的深さ:意識は現在だけでなく遠い未来の状態まで予測できる「時間的に深い」生成モデルを持つことによって生まれるのではないかと考えられる。これにより複数の行為系列をシミュレーションし、最適なものを選択できる。

内受容感覚の重要性:意識的な体験、特に感情的な質感を伴う体験は内受容感覚の精度と密接に関連している。身体内部の状態に対する確信度が自己の存在感、すなわち意識の基盤を形成する。

  • まえがき
  • 脳の構造
  • 1 知覚──脳は推論する
  • 2 注意──信号の精度を操る
  • 3 運動──制御理論の大転換
  • 4 意思決定──二つの価値のバランス
  • 5 感情──内臓感覚の現れ
  • 6 好奇心と洞察──仮説を巡らす脳
  • 7 統合失調症と自閉症──精度制御との関わり
  • 8 認知発達と進化、意識──自由エネルギー原理の可能性
  • あとがき
  • 参考文献
  • 付録 自由エネルギー原理の数理を垣間見る

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