仏教は科学なのか_への道標
書誌

短い紹介と大目次
400字の紹介文
「仏教は心の科学であり、現代科学と親和性が高い」という見解は、現代社会に広く浸透した通念であろう。本書の著者は、仏教と科学の双方に深い知見を持つ哲学者として、その通念に鋭いメスを入れる。著者は、仏教を他の宗教より本質的に合理的で優れているとみなす見方を「仏教例外主義」という神話だと断定し、その神話が仏教・科学・宗教それぞれに対する根源的な誤解に基づいていることを明らかにし、その構造を哲学的に解き明かす。本書は単なる神話の解体にとどまらず、代替として諸伝統が対等な立場で対話し学び合うべきだとする「コスモポリタニズム」を提唱する。それは特定の伝統に帰属せず、諸伝統の価値を対等な対話のなかで見出そうとする、著者自身の「仏教の善き友」としての実践でもある。本書はこうして宗教と科学の関係を根底から再考させ、我々の世界観に静かだが根源的な揺さぶりをかける一冊である。
大目次
- 日本語版序文
- はじめに
- 第一章 仏教例外主義の神話
- 第二章 仏教は真実なのか?
- 第三章 仏教は無我説か?―急ぐべからず
- 第四章 マインドフルネスへの熱狂
- 第五章 悟りのレトリック
- 第六章 コスモポリタニズムと会話
- 謝 辞
- 科学・哲学・宗教を横断する思考 監訳者解説 下西風澄
- 「仏教モダニズム」を超えて――「これからの仏教」を構想するためのワークブックとして 監訳者あとがき 藤田一照
一口コメント
著者は、仏教モダニズム及びそこに内在する思想とされる仏教例外主義を批判する。進化心理学も批判のターゲットだ。といっても著者はフランシスコ・ヴァレラと研究を持った哲学者であり、哲学の土俵で派手な打ち合いをしているといった構えで「仏教徒は原理主義者や仏教モダニストにならずに現代的であるための別の道を見つけられるか?」への答えは、「仏教例外主義を捨て、コスモポリタンな対話の精神を受け入れることの中に見出される」とし、著者自身は仏教徒ではないが、そのような未来を願う「仏教の善き友」として本書を締めくくっている。
仏教は科学なのか_要約と詳細目次(資料)
要旨
本書は、西洋で主流となっている「仏教モダニズム」に対する包括的かつ哲学的な批判を展開する。著者エヴァン・トンプソンは、仏教モダニズムが「仏教例外主義」という神話に基づいていると主張する。仏教例外主義とは、仏教が他の宗教よりも本質的に合理的・経験的であり、宗教というより「心の科学」であるとする考え方である。トンプソンは、この見解が仏教、科学、宗教のいずれも歪める誤った見解に基づいていることを論証する。
本書の批判は、現代のマインドフルネス・ムーブメント、単純化された「無我」説の解釈、そして「悟り」という概念のレトリックにまで及ぶ。トンプソンは、心を脳の活動に還元する「ニューラル・ブッディズム」や、進化心理学を用いて仏教を正当化しようとする試みを哲学的・科学的根拠に乏しいとして退ける。特に、マインドフルネスは脳内の私的現象ではなく、身体化され(embodied)、環境に埋め込まれ(embedded)、拡張され(extended)、行為によって創造される(enactive)認知プロセスであるとする「4E認知科学」の視点を提示する。また、「悟り」は客観的で非概念的な体験ではなく、言語や文化的実践に依存する「概念依存的な現象」であると論じる。
著者は、自身が仏教徒ではない理由を、この哲学的に不健全な仏教モダニズムしか選択肢がないためだと述べる。しかし、彼は仏教の知的伝統そのものを否定するのではなく、「仏教の善き友」としてより健全な関わり方を提言する。代替案として提示されるのが「コスモポリタニズム」である。これは、異なる伝統(宗教、科学、哲学)が互いの独自性を尊重しつつ、一方を他方の用語に還元することなく、対等な立場で批判的な対話を行うための枠組みである。本書は、仏教の知的遺産が現代のコスモポリタンな世界に真に貢献する道を模索する、緻密で挑戦的な試みである。
1. 中心的な批判:仏教モダニズムと仏教例外主義
本書の核心は、「仏教モダニズム」とその根底にある「仏教例外主義」という二つの概念に対する哲学的批判である。
仏教モダニズムの定義と起源
仏教モダニズムとは、近現代の価値観に合致する形で仏教を受容する立場を指す。特徴は以下の通りである。
- 歴史的背景: 19世紀から20世紀にかけてのアジアで、西洋の植民地主義、キリスト教宣教師、そして近代科学との接触の中から生まれた。特にスリランカやビルマ、日本では、仏教を合理的で科学的な宗教として再提示する改革運動が活発化した。
- 特徴: 伝統的なアジア仏教における形而上学的・儀礼的要素を軽視し、個人の瞑想体験や科学的合理性を強調する。
- 自己認識: 歴史的には新しい形態であるにもかかわらず、自らを「仏教本来の、本質的な核心」であるかのように提示する傾向がある。
- 影響: 鈴木大拙などを通じて西洋に広まり、現在では国境を越えた仏教の「共通言語(lingua franca)」になりつつある。
仏教例外主義という神話
仏教例外主義は、仏教モダニズムに内在する思想であり、仏教を他の宗教より優れているとみなす考え方である。主張は次のように要約される。
- 核心的主張: 仏教は本質的に合理的かつ経験的であり、宗教というより「心の科学」やセラピー、哲学である。
- 科学との親和性: 神の観念を必要とせず、直接的な観察を重んじるため、「最も科学に親和的な宗教」であるとされる。
- 著名人による支持: ダライ・ラマ14世、サム・ハリス、S.N.ゴエンカ、ロバート・ライト、デヴィッド・バラッシュらが程度の差はあれこの見解を支持している。
トンプソンは、この例外主義が「宗教」と「科学」に関する誤解に基づくと批判する。 - 「宗教」の誤解: 宗教を個人の内面的信念の問題と捉えるのは近代プロテスタントに由来する限定的見方である。宗教とは儀礼、共同体、社会的実践を通じて意味を創造する、より広範な文化形態である。
- 「科学」の誤解: 科学は一枚岩の体系ではない。仏教瞑想を科学的実験になぞらえることは、瞑想が規範的かつ救済論的な枠組みの中で行われる実践であることを無視している。瞑想は心を「明らかにする」だけでなく、特定の価値観に沿って心を「形づくる」ものである。
2 自然主義的仏教とその科学的正当化への問い
本書はロバート・ライトの『なぜ仏教は真実なのか』を詳細に検討し、進化心理学を用いて仏教を「自然化」し正当化しようとするアプローチの問題点を指摘する。
進化心理学に基づく仏教の正当化(ライトの議論)
ライトは、仏教の核心的診断(苦しみの原因は渇愛であること、自己は錯覚であること)が進化心理学によって科学的に裏付けられると主張する。
- 論理: 人間の心は、遺伝子を次世代に伝えることを「目的」とする自然選択によって形成された。そのため快感が長続きしないよう設計され、常に渇愛を抱く傾向がある。マインドフルネス瞑想は、この自然選択のプログラムに「反逆」し、心を解放する有効な処方箋である。
- 結論: 科学的証拠が仏教の診断を裏付けるため、「仏教は真実」である。
トンプソンによる四つの批判
トンプソンはライトの議論に対して次の四つの根本的疑問を提示し、いずれも否定的に答える。
- 進化心理学は正しい科学的アプローチか? 否。進化心理学の「石器時代の心が現代人の頭蓋骨に宿る」という前提は、文化の役割や脳の可塑性を過小評価しており、多くの進化生物学者や認知科学者から批判されている。
- 進化心理学は仏教と科学を関係づける正しい枠組みか? 否。より適切な枠組みは、認知が脳だけでなく身体全体と環境との相互作用から生まれると考える身体性認知科学(embodied cognitive science)、特に著者が支持するエナクティブ・アプローチである。
- 自然主義的仏教は説得力があるか? 否。このアプローチは仏教の根源的な謎やパラドクス(例:「解脱は不可能である。だが、それは達成される」)を無視し、涅槃のような超越的概念を単なる心理的ウェルビーイングに還元してしまう。これにより仏教のラディカルな変容の可能性が弱体化する。
- 「仏教は真実なのか」という問いは妥当か? 否。この問い自体が誤っている。問うべきは「仏教から何を学べるか?」であり、一方の真理基準で他方を裁定することではない。
3. 「無我」説の再評価
仏教モダニズムでは「認知科学が仏教の無我説を証明した」という主張が頻繁にされる。トンプソンはこの単純化に異議を唱え、より複雑で哲学的に豊かな自己理解を提示する。
仏教の「無我」説の歴史的文脈
- 初期仏教の教え: ブッダの教えとされる『無我相経』では「五蘊(身体、感情、知覚、意志、意識)は自己ではない(非我)」と説かれる。これは「自己は存在しない(無我)」と直接同義ではない。
- バラモン教ニヤーヤ学派との論争: 仏教の還元主義(人は究極的に非人格的要素の集合である)に対し、ニヤーヤ学派は記憶の連続性や意識の統一性を説明するために何らかの持続的主体、すなわち「自己(アートマン)」が必要であると批判した。これは現代認知科学における「結びつけ問題」や「意識の統一性」の問題を先取りする鋭い指摘であった。
自己は「錯覚」ではなく「構築物」である
トンプソンは、仏教モダニズムが無我説を単純化しすぎていると批判し、現代哲学と認知科学の知見を統合した視点を提案する。
- 仏教モダニズムの問題点: 「自己は錯覚である」という主張は、「自己」を「不変で独立した実体」という特定の偏った定義に限定している。
- 現象学と認知科学の視点: 多くの現代理論では、自己は単一の実体ではなく、身体的・社会的・物語的な自己意識の様態からなる構築物(construction)として理解される。
- トンプソンの結論: 自己は存在しない、あるいは単なる錯覚ではなく、私(self)を行為によって創造(enact)し続ける動的なプロセスである。この見方は、仏教とバラモン教の哲学、そして現代科学の間により生産的な対話の可能性を開く。仏教だけを特権視するのではなく、多様な知的伝統を横断するコスモポリタン的視点が求められる。
4. マインドフルネス・ムーブメントの脱構築
現代に広がる「マインドフルネス熱」に対し、トンプソンはそれが商業主義(マック・マインドフルネス)に陥っているだけでなく、その科学的理解にも根本的誤解があると指摘する。
支配的な誤解:心と脳の内在主義
現代のマインドフルネス理解は、次の二つの相互補強的誤解に基づいている。
- マインドフルネスは私的な心の内観である: 個人の内面で起こる内向的な気づきの実践である。
- マインドフルネスの効果は脳を見ることでわかる: 心は脳の働きであるため、その効果は脳活動パターンとして測定・理解できる。
この「内在主義的」な見方は、マインドフルネスを個人の脳内で完結する現象とみなし、社会文化的文脈を無視するカテゴリー錯誤に陥っている。マインドフルなのは脳ではなく人間である。
4E認知科学によるマインドフルネスの再定義
トンプソンは、マインドフルネスをより適切に理解するための枠組みとして「4E認知科学」を提示する。この視点では、認知は脳内に限定されず、次の四つの特徴を持つ。
概念 | 説明 |
身体化された (Embodied) | 認知は脳だけでなく、生ける身体全体の活動に依存する。 |
埋め込まれた (Embedded) | 認知は物理的・社会的環境との相互作用の中で展開される。 |
拡張された (Extended) | 認知は道具や文化的記号システムなど外部資源を組み込むことで拡張される。 |
行為的な (Enactive) | 認知は身体化された行為を通じて、意味ある世界をその都度創造するプロセスである。 |
この枠組みを適用すると、マインドフルネスは次のように再定義される。 |
- 社会的なスキル: マインドフルネスに必要なメタ認知(自己の心的状態への気づき)は、他者との相互作用を通じて内面化された社会的認知の一形態である。
- 文化的な実践: 瞑想は共同体の中で行われる文化的に統制・調整された認知実践であり、個人の脳だけに帰属させることはできない。
結論として、瞑想の科学は脳神経イメージングに偏重するのではなく、文化的実践が認知スキルをどのように形成するかを探る「認知生態学」的視点へと移行する必要がある。
5. 「悟り」のレトリックと概念依存性
仏教モダニズムでは「悟り」は非概念的で普遍的な内的体験として理想化されることが多い。トンプソンは、この見方が歴史的にも哲学的にも支持できないことを論証する。
「悟り」の曖昧さと矛盾
- 歴史的起源: 「悟り(Enlightenment)」という訳語自体が19世紀ヨーロッパの産物であり、理性を重んじる「啓蒙主義」のイメージが投影されている。しかし、啓蒙主義が自律的な「自己」を称揚するのに対し、仏教モダニズムの悟りは「自己からの自由」を意味するという矛盾を抱える。
- 内容の不一致: 初期仏典をみても、ブッダの覚りの内容は一貫して記述されているわけではない。それが四聖諦の認知的洞察なのか、思考が停止した非概念的な瞑想状態なのか、あるいは過去世の記憶なのか、説明は多様で時に矛盾している。
悟りは「概念依存的な現象」である
トンプソンは「悟り体験」は客観的で普遍的な実在ではなく、「概念依存的な現象」であると結ぶ。
- 概念依存性とは: 「ゲーム」や「貨幣」「愛」のように、その存在がそれらを定義する概念や社会的実践に依存している現象を指す。もし「愛」という概念がなければ、特定の感情や行動の集合が「愛」として構成されることはない。
- 悟りへの適用: 同様に、「悟り」という概念やそれに関連する教義・実践がなければ、ある種の体験が「悟り体験」として構成されることはない。体験の内容はそれを解釈する概念的枠組みによって形成される。
この主張から、三つの結論が導かれる。
- 非概念性への否定: 悟りは本質的に非概念的な体験でありえない。
- ニューラル・ブッディズムへの批判: 悟りは特定の脳状態に還元できない。脳は必要条件だが、悟りは脳の外にある概念的・社会的世界に依存する。
- 現代仏教への問い: 問うべきは「悟りとは何か」だけでなく「今ここにおいて、悟りとは何でありうるか」である。
6. 提唱される代替案:コスモポリタニズムと真の対話
本書の最終章では、仏教モダニズムに代わるより健全で生産的なアプローチとして「コスモポリタニズム」が提唱される。
多様なコスモポリタニズムの歴史
コスモポリタニズムはヨーロッパ固有の思想ではなく、歴史的に多様な形で存在してきた。
- サンスクリット・コスモポリス: 古代から中世にかけて南アジアでは、サンスクリット語を共通言語とする広大な知的・文化圏が存在し、仏教、バラモン教、ジャイナ教などが互いに競合・対話・影響し合った。これは強制的ではなく自発的な参加によって形成されたコスモポリタンな空間であった。
現代におけるコスモポリタニズムの哲学
哲学者クワメ・アンソニー・アッピアらの思想に基づき、トンプソンは現代的コスモポリタニズムを次のように定義する。
- 二つの原則:
- 私たちは全人類に対して普遍的な義務を負っている。
- 私たちは個々の人間の生に意味を与える特定の文化や伝統への愛着を価値あるものとして認めるべきである。
- モデルとしての「会話」: 目指すべきは完全な合意ではなく、互いの違いを尊重し理解を深めるための「会話(conversation)」である。
科学と仏教の対話への応用
このコスモポリタン的会話の理念は、著者の師で友人でもあったフランシスコ・ヴァレラの思想に体現されている。ヴァレラは、科学と仏教の対話において陥りやすい二つの極端を警告した。
- 装飾的態度: 科学的見解を仏教的言葉で表面だけ飾ること。
- 正当化の態度: 仏教的教えの正しさを証明するために科学を利用すること。
真の対話とは、こうした極端を避け、各伝統が持つ「知識の倫理」にまで踏み込み、自らの前提を問い直す用意があるときにのみ可能となる。
結論:仏教の善き友として
トンプソンは、仏教が現代世界に対して自己中心主義や科学万能主義への批判といったラディカルな批判力を提供しうると信じている。しかし、仏教モダニズムはその力を弱め歪めている。最後に彼が投げかける問いは、「仏教徒は原理主義者や仏教モダニストにならずに現代的であるための別の道を見つけられるか?」である。その答えは、仏教例外主義を捨て、コスモポリタンな対話の精神を受け入れることの中に見出されるだろう。著者自身は仏教徒ではないが、そのような未来を願う「仏教の善き友」として本書を締めくくっている。
- 日本語版序文
- はじめに
- リンディスファーン協会にて
- 仏教哲学の学びとロバート・サーマン
- フランシスコ・ヴァレラとの出会いと瞑想実践の日々
- 「心と生命研究所」の仏教例外主義
- 瞑想リトリートの体験中の疑問
- 仏教モダニズムの問題
- 私が仏教徒ではない理由
- 本書の構成と狙い
- 第一章 仏教例外主義の神話
- 仏教例外主義
- 仏教モダニズム
- 宗教の定義
- サティ(気づき)とは何か――ニャナポニカ・テラ
- 仏教は信仰か――ササム・ハリスの東洋例外主義
- 科学者としてのブッダ?――サティア・ナラヤン・ゴエンカ
- ゾクチェン・ポンロプ・リンポチェと史的ブッダ
- アラン・ウォレスにおける「宗教」と「科学」の定義
- 現象学による科学批判
- ダライ・ラマと「仏教の科学」
- 仏教だけが「科学的」なのか
- 仏教は経験主義なのか
- 第二章 仏教は真実なのか?
- ロバート・ライト『なぜ仏教は真実なのか』
- 仏教と進化心理学
- ライトの議論に対する四つの疑問
- 第一の疑問:進化心理学は人間の心を理解するための正しい科学的なアプローチなのか?
- 進化心理学が間違いである四つの理由
- 第二の疑問:進化心理学は科学を仏教と関係づけるための正しい枠組みなのか?
- 身体性認知科学とは何か
- 身体性認知科学と仏教における自己
- 中観派の空の教え
- 仏教と科学との真の対話を実現するために
- 第三の疑問:自然主義的な仏教には説得力があるのか?
- 涅槃のパラドクスと伝統的な仏教の態度
- 涅槃のパラドクスと自然主義的な仏教
- 実存的な心の変容としての涅槃
- 第四の疑問:「仏教は真実なのか」という問いはそもそも妥当なのか?
- 第三章 仏教は無我説か?―急ぐべからず
- 無我説と認知科学の親和性に対する疑問
- 心身とは異なる自己
- 『無我相経』におけるふたつの議論
- 第一の選択肢:超越的な自己は存在するか
- 第二の選択肢:自己は五蘊に存在するか
- 第三の選択肢:自己が存在するかという問いは妥当か
- なぜブッダは無我を明言しなかったのか
- ヴァジラー尼による無我の教え
- 『ミリンダ王の問い』における無我
- アビダルマの還元主義
- 無我説に対するニヤーヤ学派の批判
- 仏教説とニヤーヤ学説に対する認知科学の評価
- 現代の哲学者たちは自己をどう捉えているか
- 現代の哲学者や認知科学者が考える自己
- さまざまな自己意識の形
- 構築された自己、錯覚の自己
- 仏教と自己認識
- 認知科学、エナクティブ主義、そしてコスモポリタニズム
- 第四章 マインドフルネスへの熱狂
- 現代のマインドフルネスの問題点
- マインドフルネスは科学的か
- エナクティブ・アプローチ
- 瞑想と脳の関係に対するふたつの反論
- 第一の反論の第一段階:認知は脳にあるのではない
- 第一の反論の第二段階:認知機能と脳領域は一対一で対応しない
- 第二の反論の概要
- 第二の反論の第一段階:認知・情動・身体のスキルを統合する訓練としてのマインドフルネス
- 第二の反論の第二段階
- 4E認知科学によるマインドフルネス
- 身体化された認知(embodied cognition)
- 環境に埋め込まれた認知(embedded cognition)
- 拡張された認知(extended cognition)
- 行為が生む認知(enactive cognition)
- メタ認知としてのマインドフルネス
- 結論
- 第五章 悟りのレトリック
- 仏教モダニズムによる悟り
- 覚りの曖昧さ
- 瞑想状態は概念的思考を伴うか
- 四禅・三明・九次第定
- 涅槃とは何か
- 悟りをめぐる論争と超宗派的アプローチ
- 信仰をもたないまま悟りの内容を語ることはできるのか
- 悟りのレトリックに対する批判の概要
- 概念依存性の問題
- 愛の概念依存性の問題
- 悟りの概念依存性
- 三つの結論
- 第六章 コスモポリタニズムと会話
- 覚りの探求
- 梵天勧請の謎
- ウパカとアージーヴィカ教の教え
- サンスクリット・コスモポリス
- コスモポリタニズムの現代的意義
- ヌスバウムのコスモポリタニズム
- シェフラーのコスモポリタニズム
- アッピアのコスモポリタニズム
- フランシスコ・ヴァレラが語る科学と仏教の対話
- 仏教と科学の対話におけるふたつの極端
- 仏教モダニズムとヴァレラ
- 「心と生命の対話」プロジェクト
- アフリカ哲学から見たコスモポリタニズム
- 仏教徒ではなく仏教の善き友として
- 謝 辞
- 科学・哲学・宗教を横断する思考 監訳者解説 下西風澄
- 「仏教モダニズム」を超えて――「これからの仏教」を構想するためのワークブックとして 監訳者あとがき 藤田一照
- 訳者あとがき
Mのコメント(内容・方法及び意味・価値の批判的検討)
ここでは、対象となる本の言語空間がどのようなものか(記述の内容と方法は何か)、それは総体的な世界(言語世界)の中にどのように位置付けられるのか(意味・価値を持つのか)を、批判的思考をツールにして検討していきたいと思います。ただサイト全体の多くの本の紹介の整理でアタフタしているので、個々の本のMのコメントは「追って」にします。
仏教は科学なのか_概要
書誌
400字紹介
「仏教は心の科学であり、現代科学と親和性が高い」という見解は、現代社会に広く浸透した通念であろう。本書の著者は、仏教と科学の双方に深い知見を持つ哲学者として、その通念に鋭いメスを入れる。著者は、仏教を他の宗教より本質的に合理的で優れているとみなす見方を「仏教例外主義」という神話だと断定し、その神話が仏教・科学・宗教それぞれに対する根源的な誤解に基づいていることを明らかにし、その構造を哲学的に解き明かす。本書は単なる神話の解体にとどまらず、代替として諸伝統が対等な立場で対話し学び合うべきだとする「コスモポリタニズム」を提唱する。それは特定の伝統に帰属せず、諸伝統の価値を対等な対話のなかで見出そうとする、著者自身の「仏教の善き友」としての実践でもある。本書はこうして宗教と科学の関係を根底から再考させ、我々の世界観に静かだが根源的な揺さぶりをかける一冊である。
一口コメント
仏教は科学なのか_要約と詳細目次
- 日本語版序文
- はじめに
- リンディスファーン協会にて
- 仏教哲学の学びとロバート・サーマン
- フランシスコ・ヴァレラとの出会いと瞑想実践の日々
- 「心と生命研究所」の仏教例外主義
- 瞑想リトリートの体験中の疑問
- 仏教モダニズムの問題
- 私が仏教徒ではない理由
- 本書の構成と狙い
- 第一章 仏教例外主義の神話
- 仏教例外主義
- 仏教モダニズム
- 宗教の定義
- サティ(気づき)とは何か――ニャナポニカ・テラ
- 仏教は信仰か――ササム・ハリスの東洋例外主義
- 科学者としてのブッダ?――サティア・ナラヤン・ゴエンカ
- ゾクチェン・ポンロプ・リンポチェと史的ブッダ
- アラン・ウォレスにおける「宗教」と「科学」の定義
- 現象学による科学批判
- ダライ・ラマと「仏教の科学」
- 仏教だけが「科学的」なのか
- 仏教は経験主義なのか
- 第二章 仏教は真実なのか?
- ロバート・ライト『なぜ仏教は真実なのか』
- 仏教と進化心理学
- ライトの議論に対する四つの疑問
- 第一の疑問:進化心理学は人間の心を理解するための正しい科学的なアプローチなのか?
- 進化心理学が間違いである四つの理由
- 第二の疑問:進化心理学は科学を仏教と関係づけるための正しい枠組みなのか?
- 身体性認知科学とは何か
- 身体性認知科学と仏教における自己
- 中観派の空の教え
- 仏教と科学との真の対話を実現するために
- 第三の疑問:自然主義的な仏教には説得力があるのか?
- 涅槃のパラドクスと伝統的な仏教の態度
- 涅槃のパラドクスと自然主義的な仏教
- 実存的な心の変容としての涅槃
- 第四の疑問:「仏教は真実なのか」という問いはそもそも妥当なのか?
- 第三章 仏教は無我説か?―急ぐべからず
- 無我説と認知科学の親和性に対する疑問
- 心身とは異なる自己
- 『無我相経』におけるふたつの議論
- 第一の選択肢:超越的な自己は存在するか
- 第二の選択肢:自己は五蘊に存在するか
- 第三の選択肢:自己が存在するかという問いは妥当か
- なぜブッダは無我を明言しなかったのか
- ヴァジラー尼による無我の教え
- 『ミリンダ王の問い』における無我
- アビダルマの還元主義
- 無我説に対するニヤーヤ学派の批判
- 仏教説とニヤーヤ学説に対する認知科学の評価
- 現代の哲学者たちは自己をどう捉えているか
- 現代の哲学者や認知科学者が考える自己
- さまざまな自己意識の形
- 構築された自己、錯覚の自己
- 仏教と自己認識
- 認知科学、エナクティブ主義、そしてコスモポリタニズム
- 第四章 マインドフルネスへの熱狂
- 現代のマインドフルネスの問題点
- マインドフルネスは科学的か
- エナクティブ・アプローチ
- 瞑想と脳の関係に対するふたつの反論
- 第一の反論の第一段階:認知は脳にあるのではない
- 第一の反論の第二段階:認知機能と脳領域は一対一で対応しない
- 第二の反論の概要
- 第二の反論の第一段階:認知・情動・身体のスキルを統合する訓練としてのマインドフルネス
- 第二の反論の第二段階
- 4E認知科学によるマインドフルネス
- 身体化された認知(embodied cognition)
- 環境に埋め込まれた認知(embedded cognition)
- 拡張された認知(extended cognition)
- 行為が生む認知(enactive cognition)
- メタ認知としてのマインドフルネス
- 結論
- 第五章 悟りのレトリック
- 仏教モダニズムによる悟り
- 覚りの曖昧さ
- 瞑想状態は概念的思考を伴うか
- 四禅・三明・九次第定
- 涅槃とは何か
- 悟りをめぐる論争と超宗派的アプローチ
- 信仰をもたないまま悟りの内容を語ることはできるのか
- 悟りのレトリックに対する批判の概要
- 概念依存性の問題
- 愛の概念依存性の問題
- 悟りの概念依存性
- 三つの結論
- 第六章 コスモポリタニズムと会話
- 覚りの探求
- 梵天勧請の謎
- ウパカとアージーヴィカ教の教え
- サンスクリット・コスモポリス
- コスモポリタニズムの現代的意義
- ヌスバウムのコスモポリタニズム
- シェフラーのコスモポリタニズム
- アッピアのコスモポリタニズム
- フランシスコ・ヴァレラが語る科学と仏教の対話
- 仏教と科学の対話におけるふたつの極端
- 仏教モダニズムとヴァレラ
- 「心と生命の対話」プロジェクト
- アフリカ哲学から見たコスモポリタニズム
- 仏教徒ではなく仏教の善き友として
- 謝 辞
- 科学・哲学・宗教を横断する思考 監訳者解説 下西風澄
- 「仏教モダニズム」を超えて――「これからの仏教」を構想するためのワークブックとして 監訳者あとがき 藤田一照
- 訳者あとがき
Mのコメント(言語空間・つながり・批判的思考)
追って