批判的思考を学ぶ3書を選ぶ
批判的思考とは何か
「批判的思考」とは、証拠に基づく論理的で偏りのない思考であり、単に「批判」することではなく、情報や論証を多面的・客観的に分析し、根拠に基づいて判断を下す反省的思考(リフレクション)であるとされる。
これについて、①「より良い思考の技法 クリティカル・シンキングへの招待:放送大学教材」、②「まどわされない思考 非論理的な社会を批判的思考で生き抜くために The Irrational Ape:デヴィッド・ロバート・グライムス」、③「あなたのためのクリティカル・ シンキング:スティーヴン・H・ジェンキンズ」の3書を検討する。
①は放送大学の教材であ、「教育」面を踏まえ、整理した議論が提供されている。 ②は社会的な領域を、③は自然科学の領域を視野に、充実した議論がなされている。
批判的思考を学ぶ3書のそれぞれの要約と目次

「より良い思考の技法」の要約と目次
要約
まとめ
本書は、放送大学教材『より良い思考の技法 ― クリティカル・シンキングへの招待』(主著者:菊池聡氏)の主要な概念、議論、および実践的応用を統合的に要約したものである。本書は、クリティカル・シンキング(批判的思考)を、情報の洪水とも言える現代社会を生き抜くための汎用的かつ必須の思考技法として位置づけている。単なる否定や非難ではなく、情報を鵜呑みにせず、その前提を含めて注意深く懐疑的に吟味し、より良い意思決定や問題解決につなげる訓練された思考法として定義される。
本書の核心は、認知心理学、論理学、哲学、社会学など、多様な学問領域の知見を横断的に活用する学際的アプローチにある。特に、人間の思考が直観的・自動的な「システム1」と、分析的・熟慮的な「システム2」の二重過程で成り立っているという認知心理学のモデルを基盤とし、無意識の思考の偏り(認知バイアス)を自覚し、意識的な思考によってそれを克服することの重要性を強調している。
理論的探求に留まらず、社会統計の読解、インターネット情報の評価、詐欺や悪質商法への対処、防災・減災におけるリスク認知など、具体的な実践場面での応用を詳述する。これにより、読者はクリティカル・シンキングが日常生活や市民生活においていかに重要であるかを理解できる。最終的に、本書はクリティカル・シンキングを高次のリテラシーや叡智(wisdom)へと発展させる道筋を示し、個人が幸福な人生を築き、より良い社会の形成に貢献するための知的基盤を提供することを目指している。
1. クリティカル・シンキングの定義と必要性
(1) クリティカル・シンキングとは何か
本書におけるクリティカル・シンキングは、「規準に沿った良質な思考」と定義される。これは相手を否定・非難する「批判」ではなく、情報を鵜呑みにせず、その背後にある暗黙の前提や認識方法まで含めて、偏見なく注意深く吟味・評価する前向きな思考である。この概念は、主に以下の3つのキーワードによって特徴づけられる。
- 合理性(論理性):科学、論理学、統計学などの客観的で共有可能な規準に従い、主張や信念に公平な理由付けを行う。
- 反省性(省察性):自身の思考や行為を客観的に見つめ直し、判断を保留して熟考する(メタ認知)。哲学者デューイの「reflective thinking」に由来する。
- 批判性(懐疑性):安易に情報を受け入れず、問いを立てて背景を含めて吟味する態度。
クリティカル・シンキングは、個人の内部に閉じた思考技術ではなく、他者との協働的なコミュニケーションを通じて多様な視点を取り入れ、新たな解決策を創造的に生み出す開かれた思考のあり方とされる。
(2) 現代社会における必要性
クリティカル・シンキングの必要性は、現代社会が直面する以下のような状況によって高まっている。
- 情報化社会の進展:情報量が爆発的に増加し、信頼できる情報とそうでない情報を見分ける情報リテラシーが不可欠となった。
- 社会構造の変化:伝統的な規範や権威が相対的に低下し、個人が自己決定すべき場面が増加したため、その選択責任を果たすための「より良く考える」技法が求められる。
- 産業と労働の変化:知識集約型産業への移行やAIの活用が進む中、21世紀に活躍する人材に必須の「21世紀型スキル」の中核として位置づけられている。
- リスク状況の変化:地球規模の気候変動、自然災害、感染症、健康問題など、市民生活を取り巻く複雑なリスク情報に適切に対処し、生命や財産を守るために必須である。
2. クリティカル・シンキングの構成要素
本書は、クリティカル・シンキングを単一の学問ではなく、複数の学問領域の知見を統合した思考法として提示する。
(1) 態度・知識・技術
クリティカル・シンキングは、以下の三要素から構成されると指摘される。
- 態度:問題に対して注意深く、じっくり考えようとする態度(情意的側面)。
- 知識:論理的な探究法や推論の方法に関する知識(認知的側面)。
- 技術:それらの方法を適用するスキル(認知的側面)。
特に「態度」は重要視されており、優れたクリティカル・シンカーは知的好奇心、客観性、柔軟性、知的懐疑心などの特性を持つとされる。
(2) 認知心理学的基盤:二重過程理論と認知バイアス
本書が特に軸とするのが認知心理学からのアプローチである。人間の思考は、直観的・自動的で高速なシステム1と、意識的・分析的で熟慮的なシステム2の二重過程で機能すると説明される。
- システム1:経験則(ヒューリスティック)に基づき、少ない認知資源で迅速な判断を行うが、認知バイアス(思考の偏り)を生じやすい。
- システム2:論理的・統計的な規準に従って思考するが、多くの認知資源と時間を要する。
クリティカル・シンキングとは、システム1の働きによって生じる無意識の偏り(例:確証バイアス、正常性バイアス)を、システム2の働き、特に自身の認知を客観視するメタ認知によって意識的に統制・修正していくプロセスである。
(3) 論理的・哲学的基盤:推論、懐疑、誤謬
- 論理学:正しい推論の形式(演繹、帰納、類推、アブダクション)を理解し、主張が論理的規準を満たしているかを評価する。MECEやトゥールミン・モデルのような実践的なロジカル・シンキングのツールも有効である。
- 哲学:ソクラテスの問答法に始まり、デカルトの方法的懐疑(デーモン仮説)やヒュームの因果・帰納の問題など、哲学的懐疑の歴史は、物事の前提を根本から疑う思考の訓練となる。
- 誤謬論:日常的な議論に潜む論理的な誤り(誤謬)を知ることは、欺瞞的な言説を見抜く上で重要である。「論点ずらし(対人論法、わら人形論法)」「論点先取(循環論法)」「偽りの二分法」などが代表例である。
(4) 社会学的基盤:社会問題の構築主義
社会学の視点は、私たちが「社会問題」と見なす事象が客観的な事実ではなく、人々がそれを問題だと主張(クレイム申し立て)することによって社会的に構築されるものであることを示す。メディア報道や政策形成を通じて社会問題がどのように形成されるかのプロセス(自然史モデル)を理解することで、社会現象を批判的に捉え直す視点が得られる。
3. 実践的応用:情報世界のナビゲーション
本書は、クリティカル・シンキングを具体的な場面でいかに活用するかを詳述する。
(1) 社会統計の読解
統計データは客観的に見えるが、その作成・解釈過程には多くのバイアスが介在する可能性がある。
留意点 | 説明 |
サンプリングの失敗 | 調査対象の選び方が不適切だと、データが母集団を代表せず誤った結論に至る(例:1936年米国大統領選挙予測)。欠落したデータに気づかない生存者バイアスにも注意が必要。 |
相関と因果の混同 | “相関関係は因果関係を意味しない”。相関が見られても、①因果の方向が逆、②第三の変数(交絡要因)が存在する、③単なる偶然、という可能性を常に検討する必要がある。 |
調査方法の問題 | 質問の言葉遣い(ワーディング)や選択肢の構成によって、回答が意図的に誘導される可能性がある。 |
(2) インターネット情報の評価
インターネットは現代社会に不可欠な情報インフラだが、その情報の信頼性評価にはクリティカル・シンキングが不可欠である。
- エコーチェンバーとフィルターバブル:SNSやパーソナライズされた検索エンジンにより、無意識のうちに自身の考えと合致する情報ばかりに囲まれ、意見が先鋭化・分極化する傾向がある。
- 集団極性化:ネット上の匿名性の高い集団では、議論が平均的な方向に収束せず、より極端な意見(リスキー・シフト)に流れやすくなる。
- フェイクニュースとデマ:意図的に作られた偽情報が、感情を刺激することで客観的な事実よりも速く広く拡散する。
- 情報の吟味:情報源(ソース)の確認、一次情報へのアクセス、複数の情報源との比較(外在的チェック)、主張内容の論理的一貫性の確認(内在的チェック)が重要である。
(3) 科学的主張の吟味
科学的エビデンスは重要な判断規準だが、科学を装った疑似科学や信頼性の低い研究も存在する。
- エビデンス・レベル:科学的根拠には階層があり、個人の体験談や専門家の意見はレベルが低く、複数の研究を統合したメタ分析や、ランダム化比較試験(RCT)がより信頼性が高い。
- 再現性の危機:心理学をはじめ多くの分野で過去の研究成果が追試で再現できない問題が指摘されている。その背景には、自説に都合のいいデータだけを選ぶチェリー・ピッキングや、統計的に有意な結果を求めて不適切な分析を行うpハッキングなどの「好ましくない研究行為(QRP)」がある。
- 疑似科学:反証が不可能な理論を用いる、立証責任を転嫁する、科学界の相互検証を無視するなど、科学の方法論から逸脱した主張。フードファディズム(特定の食品の健康効果の過信)など、消費者被害に繋がる例も多い。
4. 実践的応用:社会生活におけるリスクと防御
クリティカル・シンキングは、日常生活に潜む様々なリスクから身を守るための実践的スキルでもある。
(1) 詐欺・悪質商法への対抗
悪質商法や詐欺は、情報コントロールと心理コントロールを駆使する。これに対抗するには、その手口で利用される心理原理を理解することが有効である。社会心理学者チャルディーニが提唱した「影響力の武器」としての6つの原理が悪用されることが多い。
原理 | 説明 | 悪用例 |
---|---|---|
返報性 | 恩恵を受けたらお返しをしなければならないと感じる。 | 無料プレゼントの後に高額商品を売りつける。 |
一貫性 | 一度決めたことや公言したことと一貫した行動を取ろうとする。 | 小さな契約をさせてから、次々と高額な契約をさせる。 |
社会的証明 | 他の多くの人がしていることは正しいと判断する。 | サクラを動員して、人気があるように見せかける。 |
好意 | 好意を持つ相手の頼みは受け入れやすい。 | 恋愛感情を利用するデート商法。 |
権威 | 権威者の指示には無批判に従いやすい。 | 公的機関の職員などをかたる「かたり商法」。 |
希少性 | 手に入りにくいものほど価値があると感じる。 | 「今だけ」「限定」といった言葉で判断を急がせる。 |
(2) 防災・減災とリスク認知
自然災害などの緊急事態において、適切な判断を下すことは生命を守る上で極めて重要である。しかし、人のリスク認知は客観的な危険度とは乖離することが多い。
- 正常性バイアス:危険な兆候に直面しても「自分は大丈夫」「いつものことだ」と状況を過小評価し、避難行動が遅れる傾向。災害時に最も危険なバイアスの一つである。
- リスク認知の歪み:飛行機事故のように発生確率は低いが恐怖感が強いリスクは過大評価され、喫煙のように身近で慢性的なリスクは過小評価される傾向がある。
- 緊急時の思考法:一刻を争う事態では、熟慮的なクリティカル・シンキングはかえって行動を遅らせる。平時にクリティカルに状況を想定し、「いつ・誰が・何をするか」を定めた行動計画をパッケージ化しておき、緊急時にはそれに従って自動的に行動することが有効である。
5. クリティカル・シンキングの発展:高次リテラシーと叡智へ
クリティカル・シンキングは、単なる思考スキルに留まらず、より高次の知的能力や人間的成熟の基盤となる。
(1) 高次リテラシーの土台として
クリティカル・シンキングは、読み書きなどの基礎的リテラシーの上に位置し、メディアリテラシー、科学リテラシー、ICTリテラシー、市民リテラシーといった現代社会を生きる上で不可欠な様々な高次リテラシーを支える土台となる。大学での専門的な学び(学問リテラシー)においても、文献の批判的読解や論理的な論文作成の中核をなす。
(2) AIとの協働
AI(人工知能)は、クリティカル・シンキングの各ステップ(問題発見、情報収集、推論、意思決定)を支援・拡張する強力なツールとなりうる。AIが膨大な情報(集合知)を整理・分析する一方で、人間はその結果を再評価し、価値判断を行い、新たな視点を加えるという協働関係が、より質の高い思考を可能にする。
(3) 叡智(Wisdom)への道
クリティカル・シンキングと、人生における多様な経験を通じて獲得される実践知が統合されるとき、それは叡智(Wisdom)へと昇華する。叡智とは、人生の複雑な問題に対し、多様な文脈や価値観を理解し、不確実性を踏まえながら、自分だけでなく他者や社会全体の幸福に繋がる判断を下すための深い知性である。クリティカル・シンキングを学び、実践し続けることは、最終的にこの叡智を獲得し、より良い人生と社会を実現するための道筋となる。
目次
- まえがき
- 1 クリティカル・シンカーになろう
- 1.より良い思考 としてのクリティカル・シンキング
- 2.クリティカル・シンキングの諸側面
- 3.クリティカル・シンキングの世界を探求する
- 2 実践 1 社会統計データを読む
- 1.調査データ自体にかかるバイアス サンプリングの失敗
- 2.正しく測定できているのか
- 3.相関と因果関係の理解
- 4.研究例 国際比較・地域比較にもとづく統計の落 とし穴
- 3 実践 2 インターネット情報を評価する
- 1.インターネッ トとメディアリテラシー
- 2.極端 に走るインターネット情報と分断される社会
- 3.インターネット情報の活用をめぐって
- 4 論理的・合理的に考える
- 1.合理的とはどういうことだろうか
- 2.論理学 と推論の基礎分類
- 3.ロ ジカル・シンキングのツール
- 5 クリティカル・シンキングと哲学的懐疑
- 1.ギリシヤ哲学におけるクリティカル・シンキ ング
- 2.懐疑主義の源流
- 3.近代の懐疑主義
- 6 誤つた論法を知る
- 1.日 常の推論を誤謬から分析する
- 2.論理のす り替えによる誤謬
- 3.クリティカル・シンキングヘ応用する
- 7 認知心理学から,人の推論プロセスを知る
- 1.基礎 :認知と情報処理モデル
- 2.直観を裏切る確率推論
- 3.確率をめぐる難問
- 4.人の直観のエラーを防 ぐために
- 8 認知バイアスを克服する 1
- 1.4枚 カー ド問題からのメタ認知
- 2.確証バイアスをめぐって
- 3. さまざまな認知バイアス
- 9 認知バイアスを克服する 2
- 1.クリティカル・シンキングとステレオタイプ思考
- 2.社会的出来事に関する帰属のバイアス
- 3.社会の中でどのように認知バイアスとつきあっていくべ きか
- 10 クリテイカル・シンキングと社会
- 1.ク リティカル・シンキング (批判的思考)が支える高次リテラシー
- 2.市民リテラシーを支えるクリティカル・シンキング
- 3.クリティカル・シンキングの展開 :人工知能の活用と叡知
- 11 社会学からのクリテイカル・シンキング
- 1.社会問題 とはなにか
- 2.社会問題の構築主義
- 3.社会統計をめ ぐるクリティカル・シンキング
- 4.社会学における,良い思考法
- 12 実践 3 詐欺や悪質商法に強 くなる
- 1.身近な脅威 詐欺 悪質商法・霊感商法
- 2.説得 と態度変容の心理学
- 3.カルト・マインドコントロールの心理技法
- 4.騙される心とクリティカル・シンキ ング
- 13 実践 4 防災減災とリスク認知を知る
- 1.自然災害リスクと正常性バイアス
- 2.リスク認知のゆがみを考える
- 3.災害へのクリテイカル・ シンキング
- 14 実践 5 心理学と科学を考える
- 1.科学的エビデンスの規準を考える
- 2.科学と再現性の危機
- 3.科学のように見えて科学ではない疑似科学
- 15 実践 6 充実 した「学び」のために
- 1.メタ認知 と自己調整学習
- 2.学習方略と防衛的悲観主義
- 3.社会の中で「学 び」「考 える」
- 索 引

「惑わされない思考」の要約と目次
要約
主張の概要
本書は、デビッド・ロバート・グライムズの著書『まどわされない思考』で提示された主要なテーマと議論を統合したものである。本書の中心的主張は、人間の思考は本質的に欠陥があり、誤謬、認知バイアス、外部からの操作に対して脆弱であるということである。しかし「批判的思考」は習得可能なスキルであり、個人および社会を誤った意思決定がもたらす破滅的な結果から守る強力な武器となりうる。
本書は、スタニスラフ・ペトロフやヴァシリー・アルヒーポフといった人物が極度のプレッシャー下で批判的思考を働かせ、核戦争という世界的惨事を未然に防いだ英雄的逸話から始まる。これは論理的思考の力を示すと同時に、毛沢東の「打麻雀運動」が引き起こした大飢饉の例を通じて、非論理的思考がいかに悲劇を招くかを対照的に示している。
本書は、思考を歪める多様な論理的誤謬と認知バイアスを詳細に分析する。これには、結論が前提から論理的に導かれない「ノン・セクイトゥール」から、相関と因果の混同、統計データの誤解に至るまで、多岐にわたる思考の罠が含まれる。9.11に関する陰謀論、MMRワクチンと自閉症を結びつけたパニック、統計の誤用が招いたサリー・クラーク事件など、具体例を用いて誤謬が現実に与える影響を明示している。
結論として、現代社会に蔓延する誤情報、フェイクニュース、感情的扇動に対抗するためには、自らの思考プロセスに潜む欠陥を認識し、証拠に基づく客観的分析能力を養うことが不可欠であると主張する。本書は、科学的アプローチを日常に応用し、より良い判断を下すための知的ツールキットを提供することを目的としている。
1. 批判的思考の重要性:世界を救った無名の英雄たち
思考し推論する能力は人類の最大の才能の一つであるが、それは完璧ではない。本書は、絶体絶命の状況下で冷静な批判的思考が世界を救った二つの歴史的事件から始まる。
- スタニスラフ・ペトロフの決断(1983年): ソ連防空軍中佐だったペトロフは、アメリカからのミサイル攻撃を示す早期警戒システムの警報に直面した。即時報復が基本プロトコルであったが、彼はいくつかの矛盾点に気づいた。
- 攻撃規模の不合理性: もしアメリカが先制攻撃を仕掛けるなら、ソ連の反撃能力を完全に無力化するため、5基という少数ではなく全面的な攻撃になるはずだと推論した。
- 裏付け証拠の欠如: 地上レーダーは攻撃の兆候を捉えていなかった。
- これらを踏まえ、ペトロフはシステム誤作動と判断し、上官への報告を遅らせた。警報は雲の反射の誤検知であり、彼の判断が核戦争を防いだ。
- ヴァシリー・アルヒーポフの拒否(1962年): キューバ危機時、ソ連潜水艦B-59は米海軍に追跡され、通信が途絶した。米軍が投下した爆雷を攻撃と誤認した艦長は核魚雷で反撃しようとした。
- 艦長と政治将校は反撃に同意したが、核兵器使用には同乗していた小艦隊司令アルヒーポフを含む3人の承認が必要だった。
- 艦内は高温で極度のストレス下にあったが、アルヒーポフは反撃を断固拒否し、不正確な情報で核兵器を使うのは狂気だと主張して乗組員を説得した。
- 彼の冷静な判断が第三次世界大戦の勃発を回避したと評価されている。
これらの事例は、極限状況でも論理・確率・明快な推論を働かせる批判的思考が、個人だけでなく人類全体の運命にとって不可欠であることを象徴している。
2. 非論理的思考がもたらす悲劇
批判的思考の欠如は壊滅的な結果を招く。本書は、善意に基づきながらも浅はかな思考が引き起こした歴史的悲劇を挙げている。
- 中国の「打麻雀運動」(1958年): 毛沢東が主導した大躍進政策の一環で、スズメが穀物を食べる害鳥とみなされ、「資本主義の公的動物」として駆除された。
- 全国的な駆除で約10億羽のスズメが殺され、国内でほぼ絶滅した。
- しかしスズメの主食は穀物ではなく、農作物に害を与えるイナゴなどの昆虫であった。鳥類学者の鄭作新はこの生態学的役割を指摘したが、警告は無視された。
- 天敵がいなくなったことでイナゴが爆発的に増殖し、農作物に壊滅的被害をもたらした。これが1958–1962年の中国大飢饉の一因となり、1500万から4500万人が命を失った。
- これは「何かをしなければならない。これがその何かだ。ゆえにこれをしなければならない」という政治的な誤った三段論法の結果であり、批判的思考の欠如が生んだ典型例である。
3. 誤った推論の解剖学:論理的誤謬
健全な論証は「有効な構造」と「正しい前提」の両方を必要とする。論理構造の欠陥は「形式的誤謬」と呼ばれ、結論を無効にする。
誤謬の種類 | 説明 | 具体例 |
---|---|---|
前件否定 | 「XならばY」であるという命題から「XでなければYではない」と誤って推論すること。 | 死体会議 (897年): 教皇シュテファヌス7世が前任者フォルモススの死体を裁いた。「無罪なら弁護するはずだ。フォルモススは弁護しなかった。ゆえに有罪だ」という論理。無罪でも弁護しない理由は複数あり(この場合は死亡していた)、論理的に破綻している。 |
後件肯定 | 「XならばY」であるという命題から「YだからXだ」と誤って推論すること。 | 9.11陰謀論: 「隠蔽工作があれば公式声明は我々の主張を否定するだろう。公式声明は我々の主張を否定した。ゆえに隠蔽工作がある」という論理。反証を逆に陰謀の証拠と見なすことで自説を補強する。 |
媒概念不周延の誤謬 | 三段論法で前提の両方に現れる媒概念が結論に現れないために生じる誤り。 | バイオイニシアティブ報告書: 「無線放射は電磁放射である。一部の電磁放射(X線など)は癌を誘発する。ゆえに無線放射(携帯電話など)は癌を誘発する」。異なるエネルギーレベルの電磁放射を混同している。 |
選言肯定の誤謬 | 「AまたはBである」の場合にAが真ならBが偽と誤断すること(両方が真の可能性を無視する)。 | 政治論争で「君が間違っているか私が間違っている。君は間違っている。ゆえに私が正しい」と主張するが、実際には両者とも間違っている可能性がある。 |
否定的前提から肯定的結論 | 二つの否定的前提から肯定的結論を導く誤り。 | ネットリンチ: 標的(リンゼー・ストーンの例)に対し「彼女には道徳がない。私は彼女を攻撃する。ゆえに私は道徳的に正しい」と結論づける。他人を非難して自らの道徳的優位性を証明しようとするが論理的に無効である。 |
4. 人間の思考に潜む罠
思考は論理的誤謬だけでなく、心理的偏見や直感的近道(ヒューリスティック)によっても大きく歪められる。
4.1 認知バイアスと動機づけられた推論
私たちは客観的事実よりも自らの信念やアイデンティティを保護することを優先する傾向がある。
- 動機づけられた推論: 既存の信念を補強するために証拠を恣意的に解釈し、反する証拠を厳しく評価または無視する傾向。
- 認知的不協和: 自分の信念と矛盾する情報に直面したときに生じる不快感を解消するため、多くの人は新たな証拠を受け入れるのではなく現実を否定する。
- ルイセンコ事件: ソ連の農学者トロフィム・ルイセンコは遺伝学を否定し獲得形質の遺伝を主張した。彼の理論は科学的根拠に欠けたが、共産主義イデオロギー(環境が人間を変える)と合致したためスターリンの支持を得て公式科学となり、遺伝学は「ブルジョアの錯乱」とされ、反対する科学者約3000人が粛清された。これはイデオロギーが科学的事実をねじ曲げた典型例である。
- UFOカルト「シーカー」: 1954年、世界の終わりを予言しUFOによる救済を信じた集団。予言が外れた際、彼らは信念を「信者たちの信仰が地球を救った」と書き換えて認知的不協和を解消した。
4.2 記憶と知覚の脆弱性
記憶や感覚は客観的記録ではなく、曖昧で操作されやすい。
- 記憶の再構築: 記憶は再生のたびに再構築され歪められる。オリバー・サックスがロンドン大空襲の記憶を兄の手紙から「自分の体験」として構築した例は、他人の経験が自分の記憶になりうることを示す。
- 偽の記憶の植え付け: エリザベス・ロフタスの実験では、被験者の約25%が実際には起きていない「ショッピングモールで迷子になった」という出来事を自分の記憶として受け入れた。
- 悪魔崇拝儀礼虐待(SRA)パニック: 1980年代、『Michelle Remembers』をきっかけに悪魔崇拝による儀式的児童虐待のパニックが全米に広がった。物的証拠がないにもかかわらず、セラピストの暗示的質問で園児に植え付けられた偽の記憶に基づき保育士が起訴された。暗示が偽の記憶を生む危険性を示す悲劇的事例である。
- 知覚のエラー:
- パレイドリア: ランダムな視覚情報の中に顔などの意味あるパターンを見てしまう現象(例: 火星の人面岩)。
- アポフェニア: ランダムな聴覚情報の中に意味あるメッセージを聞く現象(例: レコードの逆再生メッセージ)。
- 観念運動反応: 意識的意図なしに筋肉が動く現象。降霊術のテーブルターニングや、非言語障害者支援で用いられた「ファシリテイテッド・コミュニケーション(FC)」が、実際には支援者の無意識の動きによって操作されていたことが証明されている。
4.3 期待が現実を創る
期待や信念は知覚だけでなく身体的反応にも影響する。
- フォアラー効果(バーナム効果): 誰にでも当てはまる曖昧で一般的な性格記述を、自分だけに当てはまる正確な分析と受け入れてしまう傾向。星占いや信頼性の低い性格診断(MBTIなど)が人気を博す理由の一つである。
- プラセボ効果とノセボ効果:
- プラセボ効果: 偽の治療でも、効果を期待することで症状が改善する現象。
- ノセボ効果: 無害なものでも有害だと信じることで実際に悪影響が現れる現象。携帯電話の電磁波による体調不良を訴える「電磁波過敏症(EHS)」は、二重盲検試験で電磁波の実在とは無関係に、被験者の信念だけで症状が引き起こされるノセボ効果の例である。
5. 嘘、大嘘、そして統計
数字は客観的に見えるが、その解釈は難しく、誤解や操作の温床となる。
5.1 確率と相関の罠
直感は確率や因果を正しく理解する上でしばしば妨げとなる。
- モンティ・ホール問題: 3つのドアのうち1つに当たりがあるクイズで、挑戦者が1つ選んだ後、司会者が残りのドアのうちハズレを1つ開ける。この時点で選択を変えると当たる確率は2/3に上がるが、多くの人は直感的に1/2のままだと誤解する。条件付き確率を直感が正しく処理できない例である。
- 相関は因果を含意しない: 例えば「アイスクリームの売上が増えると溺死者が増える」という相関は、アイスクリームが原因ではなく「暑い気候」という第三の交絡変数が両方を引き起こしている。
- 検察官の誤謬: 非常に低い確率の事象が起きたとき、その事象の低確率を被告の無実の確率と誤解すること。サリー・クラーク事件では、小児科医ロイ・メドウが「裕福な家庭でSIDSが2度続く確率は7300万分の1」と証言し、陪審員はこれを「サリー・クラークが無実である確率」と誤解して有罪判決を下した。しかし、母親が2人の子を殺害する確率も極めて低く、相対的な確率比較が必要だった。
5.2 医療統計の誤用:セラノスの崩壊
エリザベス・ホームズが創業したセラノス社は「一滴の血液で数百の病気を診断できる」と主張し評価額90億ドルに達したが、この約束は技術的詐欺であるだけでなく統計的にも破綻していた。
- 感度と特異度の問題: 医療検査は病気の人を陽性と判断する「感度」と健康な人を陰性と判断する「特異度」で評価され、どちらも100%でない。
- 偽陽性の罠: 無症状の一般大衆に多数検査を行うと偽陽性の数が増える。例えば、感度99%の検査を30種類同時に行えば少なくとも1回偽陽性が出る確率は25%を超える。セラノスのモデルはこの統計的現実を無視しており、たとえ技術が本物でも大量の誤診と不必要な不安を生む運命にあった。
5.3 リスクの伝え方
リスクの伝え方によって人々の認識は大きく変わる。
- 絶対リスクと相対リスク: 国際がん研究機関(IARC)は加工肉を喫煙と同じ「グループ1(発がん性あり)」に分類しパニックを引き起こしたが、これは「発がん性の証拠の強さ」が同等という意味であり「危険性の度合い」ではない。
- 相対リスク: 加工肉を多く食べる人の腸がんリスクは、食べない人より18%高いと報告された。これは大きく聞こえる。
- 絶対リスク: 加工肉を多く食べることで生涯の腸がんリスクが上昇する度合いは約1%(1000人あたり56人が66人になる)。メディアや企業は衝撃を強調するため相対リスクを多用する傾向がある。
6. メディアと情報環境の問題
現代の情報環境、特にメディアの慣行は非論理的思考を助長し誤情報を拡散させる一因となっている。
医療用大麻の議論: アイルランドでの法案審議で、欠陥を指摘した科学者や政治家に対して推進派が「彼らは病人の苦しみを無視している」と人格攻撃を行い論点をすり替えた例がある。
結論として、誤情報が氾濫する現代社会において健全な意思決定を行うには、提示された情報の裏にある論理構造、心理的バイアス、統計的根拠を批判的に吟味する能力がこれまで以上に重要である。
偽りのバランス: 対立する二つの見解を、片方に圧倒的な証拠がある場合でも同等の価値があるかのように報道する姿勢。
2016年米大統領選: メディアはドナルド・トランプの数々の問題と、比較的小さな問題を抱えるヒラリー・クリントンを「同格の候補者」として扱った。これによりトランプの異常性が正常化され、有権者の判断を誤らせた。
たばこ業界の戦略: 1954年の『フランク・ステートメント』に代表されるように、たばこ業界は喫煙と肺がんの関連について「専門家の間でも意見が一致していない」というでっち上げの論争を作り、科学的コンセンサスがある問題にあたかも論争があるかのように見せかけた。
ストローマン論法(藁人形論法): 相手の主張を歪め単純化した上でその歪めた主張を攻撃し、元の主張を論破したかのように見せる手法。
進化論への攻撃: 創造論者は進化論を「人間は現代のサルから進化した」と歪めて批判するが、進化論は人間とサルが「共通の祖先」を持つとする学説であり、典型的な藁人形論法である。
目次
- 目次
- はじめに
- 序章 不条理と残虐行為
- 第一部 理性の欠如
- 第一章 あやしげな主張
- 第二章 暴かれた不条理
- 第三章 うまくつながらない――ノン・セクイトゥール
- 第二部 単純な真実?
- 第四章 細部に宿る悪魔
- 第五章 火のない煙
- 第六章 本質という妄想
- 第七章 おとり戦略
- 第三部 思考に潜む罠
- 第八章 生きているビン・ラディンと死んでいるビン・ラディン
- 第九章 記憶
- 第一〇章 心に浮かぶ短剣
- 第一一章 大いなる期待
- 第四部 嘘、大嘘、そして統計
- 第一二章 偶然と確率
- 第一三章 相関と因果
- 第一四章 大きさの問題
- 第五部 世界のニュース
- 第一五章 バランスのひずみ
- 第一六章 エコーチャンバーで生まれる物語
- 第一七章 怒りのからくり
- 第一八章 悪のインフルエンサー
- 第六部 暗闇に立つろうそく
- 第一九章 科学と疑似科学
- 第二〇章 カーゴ・カルトの出現
- 第二一章 健全な疑い方
- 終わりに
- 論旨

「あなたのためのクリティカル・ シンキング」の要約と目次
要約
主要な主張
本書は、生物学の多様な事例を通じて、クリティカル・シンキング(批判的思考)の実践的ツールと思考法を解説しているる。本書の核心は、情報が急増する現代において、信頼できる事実とデマを見分け、複雑な問題に対して論理的かつ証拠に基づいた意思決定を行う能力の重要性を示す点にある。
本書の主要なテーマは以下のとおりである:
- 科学的探求の本質: 基本的事実の発見(「何を」「どこで」)から因果関係の理解(「なぜ」「どのように」)へと進む科学のプロセスを明らかにする。特に、直接的なメカニズムを問う「至近因」と、進化的背景を問う「究極因」の区別が重要視される。
- エビデンスの批判的評価: 観察、データ、実験、相関・比較、モデルといったエビデンスの種類ごとの強みと限界を詳述する。観察における確証バイアスの危険性、相関が必ずしも因果関係を意味しないこと、実験が「研究の規矩(ゴールド・スタンダード)」とされる理由を具体例で示す。
- 複雑性の理解: 遺伝と環境の相互作用や、生態系における複数要因が絡む「因果の網」など、現実世界の複雑な因果関係を分析する思考ツールを提示する。論証マップのような視覚的ツールも紹介する。
- 社会的プロセスとしての科学: 科学は個人の発見だけでなく、査読などの社会的プロセスを通じて検証・自己修正される営みであることを論じ、科学的知識の信頼性を担保する仕組みを解説する。
- 実践的応用: 気候変動のような現代の重要課題に対し、反証可能性や論理、包括性といったクリティカル・シンキングの基本原理を適用し、責任ある判断と行動を促す。
本書は生物学を題材としつつ、その手法と原理が学問分野を問わず、日常の個人的意思決定から公共政策の評価まで応用可能であることを示す。
第1部:科学的探求のプロセス
1. 発見か因果関係の理解へ
科学的探求は、ジャーナリストが用いる6つの問い(誰が、何を、いつ、どこで、どのように、なぜ)と同様の問いから始まる。これらの問いは大きく2つのカテゴリーに分けられる。
- 基本的事実に関する問い: 「誰が」「何を」「いつ」「どこで」など、発見に関わる問い。
- 因果関係に関する問い: 「どのように」「なぜ」など、原因やメカニズムを問うもの。科学者は最終的に基本的事実の発見から因果関係の理解へと関心を向ける。
事例としてオオカバマダラの渡りの研究は、この科学的探求のプロセスを象徴している。 - 発見(どこへ行くのか?): フレッド・アーカートは数万頭の蝶にタグを付け、数千人のボランティアと共に40年にわたる調査を行い、北米東部のオオカバマダラの越冬地が中央メキシコの山岳地帯であることを突き止めた。これは「どこで」という基本的事実の発見である。
- 因果関係の探求(なぜ、どのように渡るのか?): この発見は新たな因果関係の問いを生んだ。生物学では因果関係を「至近因」と「究極因」に分けて考察する。
- 至近因(Proximate Causes): 個体に直接影響するメカニズム。
- 環境要因: 日照時間の短縮、気温低下、餌(トウワタ)の変化が生殖休眠を誘発し、渡りを促すトリガーとなる。
- 生理的要因: 幼若ホルモンの低下により生殖器官の発達が止まり、寿命が延びて長距離移動が可能になる。
- ナビゲーション: 太陽の位置をコンパスとして利用する「太陽コンパス航法」。体内時計を狂わせるクロック・シフティング実験により、蝶が太陽と時刻情報を使って南西方向へ飛ぶことが示された。
- 究極因(Ultimate Causes): 長い世代を経た進化的理由。
- 渡りの起源: 近縁種が熱帯に生息することから、元々は熱帯の蝶が繁殖地を求めて北上したことが推測される。
- 進化的メリット: 長距離渡りのコストを上回る利点が必要である。「寄生仮説」によれば、渡りによって寄生虫の多い土地を避けられる。事実、北米東部の個体群は西部に比べ寄生率が低い。
2. 科学研究を駆動する3つの要素
オオカバマダラや、恐竜アンキオルニス・ハクスレイの色を復元した研究などから、科学研究に共通する3つの特徴が浮かび上がる。
- 好奇心: 「恐竜に色をつけるという夢があった」という研究者の言葉が示すように、根源的な好奇心が研究の原動力となる。
- 創造性: タグ付け法の開発や色復元におけるフィールドワーク、顕微鏡観察、統計分析の組合せなど、新しい手法やアプローチを生み出す能力が求められる。
- 新たな問いの創出: 一つの発見は必ず次の因果関係に関する問いへとつながる。
第2部:エビデンスの多様性と批判的評価
科学は「テスト可能な説明と自然現象の予測のためのエビデンスの利用」と定義される。クリティカル・シンキングの核心は、このエビデンスを正しく評価する能力にある。
1. 観察:科学の基礎と落とし穴
観察はすべての経験的証拠の基礎である。
- 物的証拠とエピソード証拠:
- ハシジロキツツキ(絶滅か?): 目撃報告や不鮮明な映像だけでは検証可能な決定的な物的証拠が得られず、生存は確認されなかった。
- クズリ(カリフォルニアに再出現?): 目撃報告に加え、遠隔カメラの写真、体毛、糞など複数の物的証拠が得られ、DNA分析によりその個体が別の州から移動してきた雄であることが判明した。
- 結論: 誰もが独立して評価できる物的証拠は、個人的な報告(エピソード証拠)よりはるかに重要である。
- 観察の信頼性と確証バイアス:
- 法廷での目撃証言: 実験では目撃者による犯人誤認(偽陽性)が頻繁に起こるが、陪審員は目撃証言を過度に信頼する傾向がある。
- 確証バイアス: 人は既存の信念や仮説に都合のよい証拠を探し、好都合に解釈する傾向がある。これにより早期判断が補強され、占い師の曖昧な予言を信じることが生じる。
- 科学における確証バイアス: ルイ・パストゥールが自然発生説を論駁する過程でも、自身の細菌説に有利な結果を重視し、不利な結果を実験手法の問題と見なす傾向があった。このバイアスは、時に有望な仮説を性急に棄てるのを防ぎ、科学の進歩に寄与することもある。
2. データ:観察の体系化と分析
個別の観察を体系的に集めたものがデータである。データを理解するには、記述統計学やグラフなどのツールが不可欠である。
- データの記述:
- ヒストグラム: 兵士の身長・体重データのように、分布の形(対称か歪みがあるか)を視覚的に把握できる。
- 要約統計量: 平均、中央値、分散、標準偏差などでデータの中心傾向やばらつきを数値化する。
- 対数スケールの利用:
- 霊長類や全哺乳類の体重のように値の範囲が大きいデータは線形スケールでは分布が把握しづらい。
- 対数スケールでプロットすると、例えば霊長類の体重分布が双峰性であるなど、より深い洞察が得られる。
- データからの洞察:動物の大きさと代謝
- 哺乳類と鳥類は代謝率の高い内温動物であり、最小サイズは約2gに制限される。これより小さいと、心拍数の物理的限界のために代謝率を維持できない。
- 一方、最大の動物はシロナガスクジラであり、濾過摂食という効率的な採餌法により巨大な体を維持できる。
3. 実験:因果関係を探るための「規矩」
実験は因果関係について明確な答えを得るための最も強力な方法であり、「研究の規矩(ゴールド・スタンダード)」とされる。
- 厳密な実験の3要素:
- 対照(コントロール): 比較基準となる対照群(例:プラセボ群)を設ける。
- ランダム化: 被験者を無作為に各群へ割り付け、年齢などの交絡因子の影響を最小化しバイアスを防ぐ。
- 盲検法(ブラインディング): 被験者や研究者が処置割付を知らないようにする(特に二重盲検法)。期待などの心理的バイアスが結果に影響するのを防ぐ。
- 事例1:マリファナの医療利用:
- HIV患者の神経障害痛に対するマリファナの鎮痛効果を検証したランダム化二重盲検対照試験では、THC含有マリファナがプラセボより有意に痛みを軽減した。
- 健常者に人工的な痛みを与えたクロスオーバー実験では、THC用量と鎮痛効果の関係(用量反応関係)が調べられ、中程度の用量で最大効果が見られた。
- 事例2:トリヴァーズ=ウィラード仮説(子の性比):
- 仮説: 多妻的種では、健康な母親は息子を多く、状態の悪い母親は娘を多く産むことが有利である。
- 実験的検証(フクロネズミ): 餌を追加した母親は対照群より有意に多く息子を産んだ。
- 観察的検証(野生馬): 受胎時の健康状態が良い母親ほど息子の割合が高いという相関が見られた。
- メカニズムの探求: 母親の血中グルコース濃度が子の性に影響する可能性が示唆され、マウス実験でその因果関係が支持された。進化的問い(究極因)が生理的メカニズム(至近因)研究へつながる好例である。
4. 相関・比較:因果関係へのヒントと罠
実験が不可能な場合、相関研究や比較研究が因果関係の手がかりとなるが、解釈には注意が必要である。
- 「相関は因果を含意しない」:
- コウノトリと赤ちゃんの数: ドイツでコウノトリのつがい数と新生児数に正の相関が見られたが、どちらも「時間(年)」という第3の変数と共に減少しており、直接の因果関係はない。
- 携帯電話と脳腫瘍: 州レベルでは携帯契約数と脳腫瘍数に相関があるが、両者が「人口」と強く相関しているためであり、人口あたりの数値で比較すると相関はほぼ消える。
- 相関から因果を推論する条件:
- 事例:鉛曝露と犯罪率: 幼少期の鉛曝露と約20年後の暴力犯罪率に強い相関が見られる。この相関が単なる偶然とは考えにくい理由は、
- 一貫性: 国や州、都市、さらには市内地区レベルまで、多様な空間・時間スケールで同様のパターンが観察される。
- 妥当なメカニズム: 幼少期の鉛曝露が前頭前野を含む脳発達に悪影響を与え、IQ低下や攻撃性増加に繋がることが追跡調査や脳画像研究で示されている。
- このように、異なるスケールで一貫した相関が確認され、生物学的メカニズムが裏付けられる場合、相関は因果関係の強力な証拠となり得る。
第3部:科学的思考のツールと実践
1. モデル:現実を単純化して理解する
モデルは「ある目的のために現実世界を簡略化して表現したもの」であり、複雑な現象を理解・予測するための有力な道具である。
- 物理的スケール・モデル:
- DNA二重らせんモデル: ワトソンとクリックは金属板とワイヤーの模型を組み立て、X線回折データ、塩基の化学的性質、シャルガフの法則を統合して二重らせん構造を示唆し、遺伝情報複製の機構を提案した。
- サンフランシスコ湾モデル: 湾内にダムを建設する計画の是非を検証するための巨大な水理模型により、計画が環境に深刻な影響を与えることが判明し中止された。
- 数理モデル:
- 疾病拡散モデルと集団免疫: Re = R0(1 − p) のような単純な式は集団免疫の概念を定量的に説明する。例えば、麻疹流行を抑えるには約92%の接種率が必要と推定され、MMR接種率の変動と麻疹発生率のデータ(自然実験)で裏付けられる。こうしたモデルは個人の倫理的意思決定や公共政策に示唆を与える。
- 捕食者・被食者モデルとヴォルテッラの原理: コンピュータ・シミュレーションはコヨーテ(捕食者)とウサギ(被食者)などの個体数動態を視覚化する。ヴォルテッラの原理によれば、捕食者と被食者の両方を無差別に害するもの(例:農薬)は被食者を相対的に増加させる。この原理はDDT使用が天敵を殺し害虫の大発生を招いた事例を説明し、生物的防除の重要性を示す。
2. 論証マップ:複雑な証拠を整理する
論証マップは、競合する複数の仮説とそれぞれを支持・反論するエビデンスを視覚的に整理するツールである。
- 事例:アリューシャン列島のラッコの急減:
- ラッコ減少の原因として移出、出生率低下、死亡率上昇などの仮説が立てられた。
- 死亡率上昇については疾病、汚染、飢餓、シャチやサメによる捕食などの副仮説が検討された。
- 論証マップ(口絵19~23)は、これらの仮説・副仮説と各エビデンス(裏づけ、異論、反論)を樹形図のように可視化する。これにより隠れた前提が明らかになり、確証バイアスを避けつつエビデンス全体の重みを総合的に評価しやすくなる。
3. 社会的プロセスとしての科学
科学は個人の営みであると同時に、社会的プロセスを通じてその有効性が担保される。
- 査読(ピアレビュー): 科学論文が出版される前に同分野の専門家が内容を吟味する制度で、科学的知の質を保証する中心的役割を果たすが、新しいアイデアや物議を醸すアイデアを抑制する可能性などの問題もある。
- 自己修正機能: 科学コミュニティ内での議論、出版後の訂正、再現実験などを通じて誤りは修正される。慢性疲労症候群とウイルス関連を主張した研究者が後に自説の誤りを認めた事例は、この自己修正プロセスの一例である。
第4部:クリティカル・シンキングの実践
気候変動問題への応用
最終章では、クリティカル・シンキングの6つの基本原理(FiLCHERS)を気候変動問題に適用する。
- クリティカル・シンキングの6つのツール(FiLCHERS):
- 反証可能性(Falsifiability): 主張が誤りであると示せる形になっているか。
- 論理(Logic): 論証は論理的に妥当か。
- 包括性(Comprehensiveness): 関連するすべてのエビデンスを考慮しているか。
- 誠実性(Honesty): エビデンスを公平に評価しているか。
- 再現可能性(Replicability): 結果は他の研究者によって再現可能か。
- 十分性(Sufficiency): 主張を裏付けるエビデンスは量・質ともに十分か。
- 気候変動の証拠評価:
- 地球の気温上昇は、温度計の直接測定記録や年輪、氷床コアなどの代理データによって裏付けられている(口絵18「ホッケースティック曲線」)。
- 温暖化の原因特定には気候モデルが用いられる。自然要因(太陽活動、火山活動)だけを考慮したモデルでは観測された上昇を説明できず、人為的要因(温室効果ガス排出)を含めたモデルが観測値とよく一致する(口絵17)。
- これらのエビデンスをFiLCHERSの原理に照らして評価することで、人為的気候変動という結論の妥当性を批判的に吟味できる。
目次
- まえがき
- 謝辞 訳者まえがき
- 1 発見と因果
- 前説
- オオカバマダラの越冬地を突き止める
- 恐竜はどんな外見をしていたか
- オオカバマダラの渡りの至近因
- 至近因とナビゲーション
- オオカバマダラはどうやって時間を知るのだろうか
- オオカバマダラの渡りの究極因
- 至近因と究極因をさらに広い視点から考える1
- 補説
- 2 エビデンスとしての観察
- 前説
- エビデンスとしての観察——2つの事例研究
- 法廷での観察
- 通常科学における確証バイアス
- 医学におけるェビデンスとしての観察
- 結語
- 3 観察からデータへ
- 前説
- ヒトの身長と体重を記述し分析する
- 動物の大きさ
- なぜ鳥類と哺乳類の体重は2g以上あるのか
- 最大の動物はどうか
- 結語
- 4 実験一研究の規矩
- 前説
- マリファナの医薬利用をめぐる2つの実験研究
- マリファナはHIV/エイズ患者の痛みを緩和するのか
- マリファナ喫煙は健常者に人為的に与えた痛みにどう影響するか
- 性はどうやって決まるのか——観察と実験によるエビデンス
- 母親は子の性を左右できるのか——ある進化仮説から
- フクロネズミの実験によるトリヴァーズ=ウイラード仮説の検証
- 野生馬の観察によるトリヴァーズ=ウィラード仮説の検証
- 受胎時の母親の状態はどのようにして子の性に影響するのか——マウスによる検証実験
- 結語
- 補説
- 5 相関・比較・因果
- 前説
- コウノトリと赤ちゃん
- 携帯電話と脳腫瘍——相関研究
- 携帯電話と脳腫瘍——比較研究
- 鉛と犯罪率
- 結語
- 補説
- 6 生物学におけるモデルの使用
- 前説
- 2つの具体的なスケール•モデル
- 疾病拡散の数理モデル
- 捕食者と被食者——別種の数理モデル
- 結語
- 補説
- 7 遺伝子・環境・因果の複雑さ
- 前説
- 「生まれと育ち」問題と因果の複雑さ
- <単純な>遺伝的基盤のある形質
- 双子から学ぶ
- 別々に育てられた一卵性双生児
- 双子の身長の相関
- 双子を使った「生まれと育ち」研究のモデル
- 遺伝率の例をもう少し
- IQはどれだけ遺伝するのか
- 遺伝率の限界
- 生まれ•育ち•因果の複雑さ
- ゼブラフインチの大きさと行動の遺伝率 178
- 植物における遺伝子型と環境の相互作用の実験研究 178
- ヒトの健康に影響する遺伝子型と環境の相互作用 182
- 遺伝子型と環境の相互作用とIQの遺伝率 183
- 結語
- 補説
- 8 原因から結果へーエビデンスの重みを考える
- 前説
- ハリケーン・トリーナ,ニューオーリンズ,因果の網
- 因果の網を断ち切る難しさ
- 食物網のかなめ石——生態系の複雑な因果関係を分析する
- ラッコはキーストーン種か?エビデンスの重みは何を語るか?
- 深まるラッコの謎
- 拡大するシャチの舞台
- イエローストーンのオオカミとエルク—これも栄養カスケードか
- 結語
- 補説
- 9 社会的プロセスとしての科学
- 前説
- 1人の研究者と2つの科学の現場
- 科学は社会的プロセスである
- 査読
- 査読の帰結
- 査読と物議を醸すアイデア
- 査読とエイズの起源
- 論文出版後の訂正
- 結語
- 補説
- 10 気候変動をめぐるクリティカル・シンキング
- 前説
- FiLCHeRS-クリティカル・シンキングの6つのツール
- 反証可能性
- 論理
- 包括性
- 誠実性
- 再現可能性
- 十分性
- 気候変動をめぐる3つの一般原理
- 慣性
- フィードバック
- 臨界点
- 結語—科学・政治・経済・倫理にまたがる問題
- 補説
- 補論
- A1 単位について
- A2 進化の仕組み
- A3 ヒトと動物の感覚世界
- A4 地球規模の気候変動—どうすれば素人に複雑なモデルが理解できるのか
- A5 消えた遺伝率の謎
- A6 論証の地図を描く——エビデンスの重みとクリティカル•シンキング
- A7 有機農法のメリットとは——エビデンスの重み
- A8 地球規模の気候変動——専門家の意見を評価する
- 文献一覧
- クレジット
- 索引
Mのコメント(言語世界・つながり、批判的思考)
取り急ぎ、3書の「要約と目次」を作成したので、公開しておく。私のコメントはじっくりと批判的思考を展開し、作成しよう。