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書誌と一口コメント

書誌_ソクラテスからSNS 「言論の自由」全史:ヤコブ ムシャンガマ

一口コメント

要約と目次

要旨

本文書は、古代アテネから19世紀ヨーロッパに至るまでの「言論の自由」を巡る思想と実践の複雑な歴史を統合的に分析したものである。その歴史は、自由の拡大と権力による抑圧という絶え間ない周期的パターンを特徴としている。権力者は、王、教会、あるいは革命政府であれ、言論の自由が一度確立されるとそれを「行き過ぎ」とみなし制限しようとする傾向があり、本稿ではこれを「言論の自由のエントロピー増大の法則」と呼ぶ。

主要なテーマは以下の通りである。

  1. テクノロジーと公共圏の拡大:印刷術から新聞に至るまで、新たな情報通信技術はこれまで声を持たなかった人々に発言の機会を与え、公共圏を拡大してきた。しかしこの変化は既存の権力構造を脅かし、「エリート・パニック」と呼ばれる現象を引き起こして新たな規制や検閲につながった。
  2. 二つの自由のモデル:言論の自由には古代から対立する二つのモデルがある。一つは、すべての市民が公的問題について平等に発言する権利を重視するアテネ由来の「平等主義的」モデル。もう一つは、言論の自由を教養あるエリート層に限定された特権とみなすローマ由来の「エリート主義的」モデルである。これらの緊張は歴史を通じて繰り返された。
  3. 迫害される者のパラドックス:歴史は、かつて言論の自由を求めて権力と闘った集団が、自ら権力を握ると反対意見を抑圧する側に回るという皮肉な事例に満ちている。初期キリスト教徒、マルティン・ルター、ニューイングランドの清教徒、フランス革命の指導者たちがこのパターンを示す。
  4. 法と文化の重要性:言論の自由は法律や憲法だけで保証されるものではない。それが真に機能するには、異質な意見や不快な言論にも寛容である社会的文化が不可欠である。この「自由の防塁」は意識的な努力によって維持されなければ容易に崩壊する。
  5. 抑圧された者の武器として:言論の自由は、奴隷制度廃止論者、人権活動家、民主改革派など抑圧されたマイノリティや改革者が現状に異議を唱え平等を求めるための強力な武器であり続けた。検閲や言論統制は不正な権力構造を維持する道具として機能してきた。

I. 古代における言論の自由の起源

言論の自由の概念は古代に遡るが、その歴史の大半において、権力者に真実を語ることは危険な行為であった。古代の偉大な文明(ヒッタイト、エジプト、古代中国など)は、臣民の言論から支配者の権威を守ることを主眼としており、その逆ではなかった。秦の始皇帝による焚書坑儒は、記録に残る最初の組織的な焚書の一例である。

アテネ:平等主義的言論の二つの概念

言論の自由が公式な価値として明確に認められた最初の例は、紀元前5世紀の古代アテネに見られる。アテネの直接民主制は、二つの重要な言論の概念と密接に結びついていた。

  • イセーゴリア(Isegoria):民会(エクレシア)においてすべての市民が平等に発言する権利。民会は常に「話したい者はいるか?」という問いかけから始まった。
  • パレーシア(Parrhesia):政治の場に限らず市民生活の広範な場面で、自らの信じることを率直に発言する権利。哲学や演劇における自由な表現も含まれる。

アテネの政治家ペリクレスや雄弁家デモステネスは、開かれた討論がアテネの強さの源泉であり真実へ至る道であると称賛した。しかしこの自由にも限界があり、神々への冒瀆(アセベイア)は死刑に値する重罪とされた。

アテネ民主制はソクラテスの裁判と処刑(紀元前399年)によってその脆弱性を露呈した。度重なる寡頭制クーデターの経験から市民は体制に異議を唱える者への寛容性を失い、民主主義の価値である言論の自由を自ら抑圧した。これは、民衆の恐怖が司法の力と結びついたとき、民主制がいかに抑圧的になりうるかを示す教訓である。

ローマ:エリート主義的自由とその崩壊

共和政ローマ(紀元前509年頃成立)における言論の自由は、アテネのものとは大きく異なり、トップダウンでエリート主義的であった。

  • リベルタス(Libertas):ローマ市民の自由を意味するが、言論の自由は主に元老院議員など上流階級の特権であった。
  • リケンティア(Licentia):法の濫用や他人から顰蹙を買うような「勝手気まま」を意味し、身分の低い者が身分の高い者を公然と批判することはこれに当たるとされた。

キケロのような人物は言論の自由を元老院に属する「最高の人間たち」の権利とみなし、アテネの平等主義的民主制を軽蔑した。

共和政が崩壊して帝政へ移行すると言論の自由はさらに縮小した。初代皇帝アウグストゥスは誹謗中傷を禁じる法と尊厳毀損法を組み合わせて自らへの批判を厳しく制限した。ティベリウス帝の時代には「言葉による反逆」が拷問や処刑の対象となり、歴史家が理由で死に追いやられるなど、政治的言論は窒息状態に陥った。

キリスト教の台頭と迫害の逆転

ローマ帝国後期には、政治的言論に代わって宗教的寛容が主要な争点となった。当初キリスト教徒はローマの神々を否定する異端として激しい迫害を受けたが、コンスタンティヌス一世による公認とテオドシウス一世による国教化(380年)を経て、かつて迫害されていたキリスト教徒が異教徒や異端者を迫害する側に回った。ユスティニアヌス一世の治世(527–565年)には異教的思想の徹底的な排除が進み、529年にはアテネのアカデメイアが閉鎖された。異端や異教の文書は組織的に破壊・検閲され、古代の文学作品の大部分が失われたとされる。

II. 中世における理性の探求と異端審問

中世は「暗黒時代」と見なされがちだが、イスラム世界とヨーロッパの双方で知的探究は進展した。

イスラム世界:知の探究と正統性の確立

750年に建国されたアッバース朝では、ギリシア語文献のアラビア語への大規模な翻訳運動が起こり、古代の知が保存・発展した。哲学者が迫害されることは比較的稀で、中央集権的な異端審問機関もなかったため、比較的自由な知的風土が形成された。

  • 自由思想家:9世紀のイブン・アル・ラワンディは預言者や聖典を公然と批判し、アル・ラーズィー(ラーゼス)は理性を「最高の権威」とみなして宗教的狂信を批判した。
  • 哲学と宗教の統合:アル・キンディー、アル・ファーラービー、イブン・スィーナー(アヴィセンナ)らはギリシア哲学とイスラム教義の統合を試み、後のヨーロッパ思想に影響を与えた。
  • 正統派の硬直化:11世紀にはアル・ガザーリーらが棄教法の適用を異端思想にまで拡大し、イスラム法は次第に硬直化して知的探究が後退した。

キリスト教ヨーロッパ:大学の誕生と異端審問

西ヨーロッパでは12世紀以降、イスラム世界を経由してアリストテレス哲学などの古代ギリシアの知が再導入され、大学(ボローニャ、パリ、オックスフォードなど)の設立とともに理性の利用が体系化され、後の科学革命の基礎が築かれた。

しかしこの知的好奇心は教会の権威と衝突した。パリ大学ではアリストテレス哲学が繰り返し禁止されたが、学者たちの探究はそれを乗り越えた。トマス・アクィナスはアリストテレス哲学とキリスト教教義の統合に尽力した。

一方で12世紀以降、西ヨーロッパは異端者を組織的に迫害する「迫害社会」へと変貌した。

  • 異端審問の制度化:教皇インノケンティウス三世は異端を国家への反逆と同一視し、1231年には教皇グレゴリウス九世が異端審問官を任命した。
  • 手法:異端審問は拷問や火刑だけでなく、告白を引き出すための心理的圧力、社会的屈辱(黄色い十字架の着用)、情報収集と管理を用いる効率的な官僚機構であった。ドミニコ会修道士が中心的役割を果たした。
  • スペイン異端審問:1478年設立のスペイン異端審問は教皇ではなく国家が運営し、コンベルソ(ユダヤ教からの改宗者)を主な標的とし、人種差別的要素を強く含んでいた。

III. 印刷術と宗教改革の衝撃

1450年頃のヨハネス・グーテンベルクによる活版印刷術の発明は情報流通を劇的に変え、ヨーロッパ社会に大きな影響を与えた。本の価格が下がり識字率が向上したことで、ルネサンス、宗教改革、科学革命の触媒となった。

ルターと印刷メディア革命

1517年、マルティン・ルターが「九十五箇条の論題」を発表すると、印刷術はその革命的潜在力を発揮した。ルターはドイツ語で簡潔かつ魅力的な小冊子を大量に発行し、自らの思想を急速に広めた。彼は印刷術を「神の最高の恵みの行為」と呼んだ。

ルターは個人の良心と聖書解釈の自由を主張して教皇の権威に挑戦したが、彼自身が権威となるとアナバプテスト(再洗礼派)やユダヤ人など自らの教義に従わない者に対して不寛容な姿勢を示した。彼の改革は結果的に「信仰属地主義(cuius regio, eius religio)」という原則を生み出し、個人の信教の自由ではなく領主が臣民の宗教を決定する体制につながった。

対抗宗教改革と検閲の強化

プロテスタントの拡大に対しカトリック教会は対抗宗教改革で応じた。

  • 禁書目録:1559年に教皇パウルス四世が最初の禁書目録を発布し、マキャベリやエラスムスなどの著作を禁止した。この目録は1966年まで存続した。
  • ローマ異端審問所:1542年設立。ジョルダーノ・ブルーノ(1600年火刑)やガリレオ・ガリレイ(1633年有罪)など、教義に反する思想家や科学者が弾圧された。

この宗教的対立は三十年戦争(1618–1648)という破滅的な結果を招き、ヨーロッパに数百万人の死者をもたらした。

IV. 啓蒙主義の萌芽:オランダとイングランド

17世紀、宗教戦争の混乱の中から寛容と自由な言論を育む土壌がオランダとイングランドで生まれた。

オランダ:寛容の共和国と急進的思想

オランダ連邦共和国は分権的な政治体制と商業的利益の重視から、ヨーロッパで最も寛容な国の一つとなった。「西欧の印刷所」としてデカルトやスピノザなどの急進的思想家の著作を出版し、広く流通させた。

  • ディルク・コールンヘルト:信教の自由を擁護し、「良書を禁じ、真実を封じ込めるのは暴君のすること」と主張した。
  • バールーフ・デ・スピノザ:『神学・政治論』(1670年)で「自由の国では、誰もが自由に考え、考えたことを自由に発言できる」と述べ、表現の自由が平和な社会の前提であると論じた。彼の著作は非難され禁書となった。

イングランド:内戦と自由を求める闘い

17世紀のイングランドは内戦と革命の時代であり、言論の自由を巡る激しい議論が交わされた。

  • 水平派(レヴェラーズ):ジョン・リルバーン、ウィリアム・ウォルウィンらは、普通選挙や法の下の平等とともにほぼ無制限の言論の自由を要求し、敵の言論の自由も擁護すべきだと主張した点で画期的だった。
  • ジョン・ミルトン:1644年の『アレオパジティカ』で出版前検閲を激しく非難し、良心に従って自由に発言し議論する権利を訴えた。ただし彼の擁護はカトリック教徒などを対象外とする選択的な面もあり、後に彼自身が検閲官となった。
  • ジョン・ロック:名誉革命後の『寛容に関する書簡』(1689年)で信教の自由を論じ、彼の主張は出版許可法の失効(1695年)に寄与し、イングランドにおける出版前検閲の終焉をもたらした。

V. 啓蒙の時代とその多様な展開

18世紀、啓蒙思想がヨーロッパ全土に広がり、言論の自由は抽象概念から実践へと移行した。コーヒー・ハウスは「18世紀のソーシャル・メディア」として新たな公共圏を形成した。

  • 『カトーの手紙』:1720年代にイギリスで発表されたこの書簡集は言論の自由を「自由の偉大な防塁」と定義し、アメリカ植民地で大きな影響を与えた。
  • フランスの哲学者たち:ヴォルテールは寛容を訴え、ディドロは『百科全書』で知識の普及と権威への挑戦を試みた。しかし彼らの言論擁護はしばしばエリート主義的で、自らの敵に対して不寛容になることもあった。ルソーは「一般意志」の名の下に個人の自由を抑圧しかねない思想を展開した。
  • 啓蒙専制君主:プロイセンのフリードリヒ大王やロシアのエカチェリーナ大帝は啓蒙思想に影響を受け一定の学問の自由や宗教的寛容を認めたが、権力を脅かす言論には容赦せず、実質的には専制君主であり続けた。
  • 北欧の先駆的実験:世界で初めて言論の自由を法的に保護したのはスカンジナビア諸国である。
  • スウェーデン:1766年の「出版自由法」により出版前検閲を廃止し、公文書へのアクセスも保障した。
  • デンマーク:1770年にあらゆる形態の検閲を廃止したが、この急進的な実験は短命に終わった。

VI. アメリカにおける「自由の防塁」の構築

アメリカ植民地は当初ニューイングランドの清教徒のように宗教的に不寛容であったが、ロジャー・ウィリアムズやウィリアム・ペンらの先駆者によって信教の自由が徐々に根付いた。

  • ゼンガー裁判(1735年):ニューヨークの新聞発行人ジョン・ピーター・ゼンガーが総督を批判した記事で扇動的誹謗中傷の罪に問われた事件。弁護人アンドリュー・ハミルトンは、記事の内容が真実であれば罪に当たらないと主張し、陪審は無罪評決を下した。これはアメリカにおける報道の自由の文化を育む重要な出来事となった。
  • 革命への道:印紙法(1765年)などを巡る対立の中で小冊子や新聞が抗議運動の原動力となり、アメリカ人の意識変革を促した。トマス・ペインの『コモン・センス』(1776年)は独立への気運を決定づけた。
  • 合衆国憲法修正第一条:憲法制定後、反連邦主義者たちは権利章典の追加を強く求めた。ジェームズ・マディソンは人民主権の原理に基づき、政府のあらゆる部門から人民の言論の自由を守る「防壁」として修正第一条を起草した。これにより言論の自由はアメリカの国是となった。

VII. 革命と反動の時代

フランス革命とアメリカ革命は言論の自由の理念を広めたが、同時に激しい反動も引き起こした。

フランス革命:自由から恐怖政治へ

1789年のフランス人権宣言は「思想と意見の自由な伝達は人間の最も貴重な権利の一つである」と謳った。しかし「法の定めによってこの自由を濫用した場合の責任」を定める但し書きが後の弾圧の抜け穴となった。革命が急進化するにつれ、マラーやロベスピエールらは政敵の言論を「人民の敵」として弾圧し、恐怖政治の下で数多くがギロチンにかけられた。言論の自由も信教の自由も革命の暴力に焼かれた。

ヨーロッパにおける反動

フランス革命の過激化はヨーロッパの君主たちを恐れさせた。

  • イギリス:ウィリアム・ピット政権はトマス・ペインのような急進主義者を扇動罪で起訴し、集会の自由を制限するなどの弾圧を行った。
  • ロシアとプロイセン:エカチェリーナ大帝やフリードリヒ・ヴィルヘルム二世は啓蒙主義的態度を捨て、厳格な検閲制度を導入して革命思想の流入を防ごうとした。イマヌエル・カントでさえ宗教に関する著作の出版を禁じられた。

アメリカ:扇動防止法

フランスとの戦争の脅威が高まる中、ジョン・アダムズ政権下の連邦党は1798年に扇動防止法を制定した。これは政府や大統領を批判する「虚偽の、中傷的、あるいは悪意のある」文書を犯罪とするもので、修正第一条の精神に反していた。この法律は主に政敵である共和党員を標的とした。ジェファーソンとマディソンはバージニア・ケンタッキー決議で激しく抵抗し、言論の自由が人民主権にとって不可欠であると論じた。この法律は1800年の選挙で連邦党敗北の一因となり、その後失効した。

VIII. 19世紀ヨーロッパにおける言論の自由を巡る闘争

ナポレオン戦争後、ウィーン体制の下でヨーロッパは保守反動の時代に入り、メッテルニヒ主導のカールスバート決議(1819年)などによりドイツ諸国では厳しい検閲が敷かれた。

しかし自由主義と急進主義の思想は生き残り、言論の自由を求める闘いは続いた。

  • イギリス:ピータールーの虐殺(1819年)などを経て、リチャード・カーライルら急進主義者は神の冒瀆や扇動の罪で投獄された。だが彼らの不屈の闘いと、ジェームズ・ミル、ジョン・スチュアート・ミル親子らの知的擁護により世論は変化し、「知識への課税」が撤廃され報道機関は大きく発展した。
  • ジョン・スチュアート・ミル:1859年の『自由論』で言論の自由の哲学的擁護の到達点を築いた。彼は政府による抑圧だけでなく「多数派の横暴」という社会的圧力からも個人の思想と表現の自由を守る必要性を力説した。
  • 1848年の革命:七月革命(1830年)に続き1848年にはヨーロッパ全土で革命が波及し「諸国民の春」と呼ばれた。多くの国で一時的に検閲が廃止され出版の自由が宣言されたが、この「偽りの春」は短命に終わり保守勢力が復権して再び抑圧の時代が訪れた。

19世紀を通じてヨーロッパ大陸における言論の自由は進歩と後退を繰り返す不安定なものであった。しかし識字率の向上と出版メディアの成長は公共圏を不可逆的に拡大させ、後の時代の民主化への道を切り拓いた。

  • はじめに
  • 第一章 古代における言論の自由
  • 第二章 中世は暗黒時代ではない
  • 第三章 大いなる混乱
  • 第四章 啓蒙主義の種
  • 第五章 啓蒙主義の時代
  • 第六章 自由の防塁を築く
  • 第七章 革命と反動
  • 第八章 静かなる大陸
  • 第九章 白人たちの責任
  • 第一〇章 全体主義の誘惑
  • 第一一章 人権の時代
  • 第一二章 言論の自由の後退
  • 第一三章 インターネットと言論の自由の未来
  • おわりに
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