残された日々を生きる

2024-05-30

ご案内

このページは、コンテンツ「残された日々を生きる」ブロックのTOPページです。ここでは「残された日々を生きる」への導入、及びページ全体の構成とその簡単な趣旨・目的をご案内します。

「残された日々を生きる」への導入

導入1ー名称の由来

「残された日々を生きる」などというコンテンツ名にすると、私が何かの病気で余命宣告を受け、日々沈みきっているのではないかとご心配をお掛けするかもしれないが、そうではないことを先ず述べておこう。人は誰でも、当然私も「残された日々」を生きているという視点を設定し、物事を考え、行動し、日々の問題(課題)を解決する情報を提供するコンテンツにしようという趣旨である。なお「残された日々を生きる」ために弁護士として提供する法律業務は、最後の「未来の法律事務所」に譲ることにする。
ヒトの集合である人類も「残された日々」を生きているとすれば、それは人類が地球へかけ続けている負荷によって地球環境が激変し、このままでは人類は存続できないということであるが、私も自分の「残された日々」でその解決の一助に参加しようと思う(地球環境と資本主義の行方)。

導入2ー「 残された日々」にはいつ頃から焦点を当てるのか

誰でも「残された日々」を生きているのは当然だが、いつ頃から「残された日々」に焦点を当てるべきかは考慮に値する。これを考えるには、インドで言われる四住期(学生期、家住期、林住期、遊行期)を踏まえるのが適切だろう。
私たちは、学生期(今は、30歳ぐらいまでを想定するのが妥当か。)には、社会に頼りながら、全力で、全方位に向かいすべてを吸収し他人との関係で自分の立ち位置を確立しようとする。だから「残された日々」という発想には乏しい。
しかし、家住期(学生期のあと、30歳から60歳ないし70歳ぐらいまでだろうか)は、結婚して家庭を築き、社会的・経済的な義務を果たす時期といわれる一方で、「残された日々」が頭を過るだろう。家住期といっても、わが国の男性は、余り家に帰らない。
林住期は、家住期後の、死を迎えるまでの「残された日々」である。インドではこれに修行者としての「遊行期」(人生の終焉に向けて準備をする時期、巡礼を通して死ぬ場所や悟りを求める)が続くが、日本ではそのような慣習がないし、私にはこれはむしろ認知症による「徘徊」というイメージだ。特別な修行をする人以外は考えなくていいと思う。
「残された日々」は、要は、超30歳の問題と考えればよい。

「残された日々を生きる」の構成と趣旨・目的

構成

「残された日々を生きる」の各ページの構成を挙げれば次のとおりである。

趣旨・目的

私は、「人は誰でも(当然私も)「残された日々」を生きているという視点を設定」した。これは想像がつくように、仏教、ストア派に淵源がある。これらの派は初源的には自由闊達な精神活動を展開してきたのであるが、歴史を経ると視座の固定化を招いたことがあるのも事実である。
固定化を破砕するために「アイデアをカタチにする」という視点を導入し、自由闊達なアイデアで世界を切りカタチにすることを出発点にしよう(「アイデアをカタチにする」は暫定的に「山ある日々:問題解決と創造_実践論」に配置している。)。「残された日々を生きるという」視点も一つのアイデアであり、それをカタチにすること(「残された日々」の活動)も重要である。
実際、「アイデア」の追及を始めるとそのレベルで迷走し「行方知らず」ということもありうるので、まず「ヒトであること」、即ち、ヒトが生物であり、身体・脳に起因する知覚・感覚・認知等の心的世界を持ち、心的世界を合理的に運用するクリティカル・シンキングが重要であるということを出発点に設定して方向を制御しよう。
そして「残された日々を生きるという視点_人生論」に続いて、残された日々を充足し、平安に生きていくための方法論である「残された日々の行動を変革する_行動論」を考察する。
さらに私にとっての日々を充足するための柱である「自然と文化を経験する」、「百花繚乱の学習園」、「日々の創意工夫」を考察・展開しよう。

Posted by murachan54