残された日々を生きる
導入
残された日々を生きる
「残された日々を生きる」などというコンテンツを設けると、私が何かの病気で余命宣告を受け、日々沈みきっているのではないかとご心配をお掛けするかもしれないが、そうではないことを先ず述べておこう。人は誰でも、当然私も「残された日々」を生きているという視点をこのサイトの端緒に設定し、物事を考え、行動し、問題(課題)を解決する情報を提供するサイトにしようという大それた趣旨である。なお「残された日々を生きる」ために弁護士として提供する法律業務は、最後の「未来の法律事務所」に譲ることにし、以下、私が、市民、ヒトとして向かい合う「残された日々を生きる」を概観しよう。
ヒトの集合である人類も「残された日々」を生きているとすれば、それは人類が地球へかけ続けている負荷によって地球環境が激変し、このままでは人類は存続できないということであるが、私も自分の「残された日々」でその解決の一助に参加しようと思う。
残された日々とは何か
「残された日々」を考えるには、インドで言われる四住期(学生期、家住期、林住期、遊行期)を踏まえるのが適切だろう。
私たちは学生期(今は、30歳ぐらいまでを想定するのが妥当か。)には、社会に頼りながら、全力で、全方位に向かいすべてを吸収し他人との関係で自分の立ち位置を確立しようとする。だから「残された日々」という発想には乏しい。
しかし、家住期(学生期のあと、30歳から70歳ぐらいまでだろうか)は、結婚し家庭を築き、社会的・経済的な義務を果たす時期といわれるが、一方で「残された日々」が頭を過るだろう。家住期といっても、わが国の男性は、余り家に帰らないが。
林住期は、死を迎えるまでの「残された日々」である。インドでは修行者としての「遊行期」(人生の終焉に向けて準備をする時期、巡礼を通して死ぬ場所や悟りを求める)が言われるが、日本ではそのような慣習がないし、これは私にはむしろ認知症による「徘徊」というイメージだ。特別な修業をする人以外は考えなくていいと思う。
要は、「残された日々」は、超30歳の問題と考えればよい。
コンテンツの変遷
これまでも、弁護士としての業務以外のコンテンツ(ブロック)を、「本の森」と「山ある日々」に分けてきた。
今回「知的生産の学習実験室」をメインにして、「残された日々を生きる」、様々な問題の発見・解決と創造に挑む「山ある日々:問題解決と創造各論」、弁護士としてする法律問題の解決業務についての「未来の法律事務所」を捉え返し、考え直そうと思い至ったということである。ただまあそろそろこのようなフィールドの設定を朝令暮改で変えることはやめないとまずいか。
「本の森」は「知的生産の学習実験室」に入れ込んだ。次々とランダムに目に入ってくる面白そうでかつ重要と思われる本をクリティカルに読んで紹介すること、様々な領域の「問題解決」に資することを着地点にすること、問題(課題)解決の対象を、自然と環境、人、企業、政府の4要素及びこれらの相互作用からなる社会や世界の5領域に分類することは踏襲し、要は「問題解決と創造」の観点から、本を読み関連する知識を整理しよう。これまで本の紹介の前提となる「要旨の把握」、更にその前提となる「詳細目次作り」で空転し、剰え、私は最近「本が読めない」と言い始め、この泥沼からなかなか脱出できなかった。ここで足踏みをしていると、文献探しとその整序に止まって、「問題解決と創造」の実践など、「残された日々」どころか、あの世での話になってしまうところだったが、NotebookLMでどこまでカバーできるだろうか。
「山ある日々」は文字どおり、山行を最大の喜びとし、「2千の山に登れ」だの、「毎日がエベレスト」だのと呟きながら山行に明け暮れる日々を送っていた私が、その残余の時間に、頭の片隅で考え実行しようと思っていることを紹介するブロック名に冒用したものだ。しかし、山行が消滅しつつある今も、日々困難に挑むことで喜びを得ようとする「心性」はかわらないから(含む「二日酔い」)、このまま突っ走ろう。「山ある日々:問題解決と創造各論」とすれば、山の紹介ページと誤解はしないだろう。「残された日々を生きる」と「山ある日々:問題解決と創造各論」造りに注力しよう。
「残された日々を生きる」の構成
「残された日々を生きる」の各項目を挙げれば次のとおりである。
- ヒトであること
- 残された日々を生きるという視点_人生論
- 残された日々の行動を変革する_行動論
- 日々の創意工夫と遊び
「アイデアをカタチにする」、「読む・学ぶ・問う_学習論」は、「知的生産の学習実験室」,「問いは世界を創造する」の下位項目に移動した。
残された日々を生きるの説明
私は、「人は誰でも、当然私も「残された日々」を生きているという視点をこのサイトの端緒に設定」した。これは想像がつくように、仏教、ストア派に淵源があり、それらは初源的には自由闊達な精神活動を展開してきたのであるが、歴史を経ると視座の固定化を招くことがあるのも事実である。そこでこれに先行して「アイデアをカタチに」という観点を導入し、自由闊達な世界を切り拓くアイデア(をカタチにする)を出発点にしよう。「残された日々を生きるという視点」も一つのアイデアであり、それをカタチにするという観点も重要である。さらに、「アイデア」の追及を始めるとそのレベルで迷走し「行方知らず」ということもありうるので、出発点として「ヒトであること」、即ち、ヒトが生物であり、身体・脳に起因する知覚・感覚・認知等の心的世界を持ち、心的世界を合理的に運用するクリティカル・シンキングが重要であるということを出発点に設定して方向を制御しよう。
そして「残された日々を生きるという視点_人生論」に続いて、残された日々を充足し、平安に生きていくための方法論である、「残された日々の行動を変革する_行動論」を考察する。
さらに私にとっての日々を充足するための大きな柱である「日々の創意工夫と遊び」を考察しよう。