<老死を知る2書>を読む

Mのコメント

いうまでもなくすべての生物は「生老病死」という物理的化学的過程を辿り進むが、人はそれを言語化し、意味と価値から眺める。「生」は仏教では生まれることで「生きる」ことではなく、インド宗教での転生という特殊な前提がある。また病は、科学的検討の対象である。
当面、私の目の前にあるのは、老と死としよう。
ところで私は、死は私にとっていかなる意味でも最終であると考えるが、実は私も含め、ほとんどの人は死について良く知らないだろう。知りうるのは、死の直前までの老病であり、原理的に自分の死は経験できないことに加え、身のまわりの人の死、動物の死を経験することが、一昔前に比べてどんどん乏しくなりつつあることもその原因だろう。 そこで死について多少なりとも言語(イメージ)で経験するために、「人はどう死ぬのか (講談社現代新書):久坂部羊」を、一瞥しよう。
そして「残された日々を生きる」上で最も大きな問題は、病とも重なるが、老いることである。そこで「人はどう老いるのか (講談社現代新書):久坂部羊」を読んで、老いの予行演習を言語(イメージ)ですることには、「残された日々を生きる」上で大いに意味がある。「残された日々を生きる」ことは、老いることに他ならない。

老死を知る2書

まず<老死を知る2書>として、次の2書を一瞥しよう。

  1. 人はどう死ぬのか 人生の予習:久坂部 羊 (講談社現代新書)
  2. 人はどう老いるのか 人生の予習:久坂部 羊 (講談社現代新書)

  • はじめに
  • 第一章 死の実際を見る、心にゆとりを持って
    • 死を見る機会/死の判定とは/死のポイント・オブ・ノーリターン/看取りの作法/死に際して行う〝儀式〟/死には三つの種類がある/脳死のダブルスタンダード
  • 第二章 さまざまな死のパターン
    • はじめての看取り/悲惨な延命治療/延命治療はいらないと言う人へ/延命治療で助かることも/江戸時代のような看取り/在宅での看取りの失敗例/望ましい看取り/在宅での看取りに対する不安とハードル/死を受け入れることの効用
  • 第三章 海外の〝死〟見聞録
    • 人生における偶然/外務省の医務官に転職/サウジアラビア人外科部長との対話/イエメンの死の悼み方/ウィーン「死の肖像展」/死に親しむ街ウィーン/オーストリアのがん告知/後進性ゆえに進んでいたハンガリーの終末期医療/「死を受け入れやすい国民性」パプアニューギニア/進んだ医療がもたらす不安/呪術医が知る死に時
  • 第四章 死の恐怖とは何か
    • 人はどんなことにも慣れる/15歳男子の悩み/死ねないことの恐怖/それでも怖いものは怖い/死の恐怖は幻影/死戦期の苦しみは
  • 第五章 死に目に会うことの意味
    • 死に目に間に合わせるための非道/非道な蘇生処置の理由/「先生、遅かったぁ」という叫び/〝エンゼルケア〟という欺瞞/看取りのときの誤解/死に目に会わせてあげたかったことも/死に目より大事なもの/死に目を重視することの弊害
  • 第六章 不愉快な事実は伝えないメディア
    • ウソは報じないけれど、都合の悪いことは伝えない/〝人生百年時代〟の意味/「ピンピンコロリ」を実践するには/達人の最期──富士正晴氏の場合/人気の死因、一位はがん/がんで死ぬことの効用/私の希望する死因
  • 第七章 がんに関する世間の誤解
    • 余命の意味/新戦略=がんとの共存/がんの治癒判定の誤解/日本でがんの告知ができるようになった理由/誤解を与えるがんの用語/否定しにくい「がんもどき理論」/がんの診断は人相判断?/タブーの疑問
  • 第八章 安楽死と尊厳死の是々非々
    • 安楽死と尊厳死のちがい/賛成派と反対派の言い分/安楽死・尊厳死に潜む弊害/海外の安楽死事情/ウィーンの病院で起きた慈悲殺人事件/日本での安楽死・尊厳死事件/タマムシ色の四要件/安楽死法は安楽死禁止法にもなり得る/安楽死ならぬ苦悶死の現実/思いがけないことが起こる本番の死/人間関係による発覚/画期的だったNHKのドキュメンタリー/番組には強い反発が
  • 第九章 〝上手な最期〟を迎えるには
    • 〝上手な最期〟とは何か/病院死より在宅死/メメント・モリの効用/ACP=最期に向けての事前準備/「人生会議」ポスターの失敗/救急車を呼ぶべきか否か/胃ろうの是非/「新・老人力」のすすめ/コロナ禍で露呈した安心への渇望/求めない力/最後は自己肯定と感謝の気持ち
  • おわりに
  • 参考文献
  • 第一章 死の実際を見る、心にゆとりを持って
    • 外科医としての初期経験から、終末期医療、そして海外での医務官としての経験を通して、著者は一般に知られていない死の現実や意外な側面を垣間見てきたと述べている。医師は患者の命を救う使命を持つが、死にゆく患者にも医療は必要であり、より良い最期を迎えてもらうための努力は困難を極めた。外務省医務官としてサウジアラビア、オーストリア、パプアニューギニアに駐在し、それぞれの国の終末期医療や死生観に触れたことで、著者の死に対する印象は大きく変わったという。帰国後、高齢者医療の現場で勤務し、世間に広まっている死に関する情報が偏っていると感じるようになった。良い話や安心情報ばかりが喧伝され、不愉快な現実は見過ごされていると警鐘を鳴らす。例えば、終末期の点滴や酸素マスク、胃ろうなどに対する世間の認識と、医療現場の実態には乖離があると指摘する。医療の進歩によって病気が治るようになったのは良いことだが、「医療は死も止められる」という誤解が広まることは危険であり、過度な期待は人々を惑わし、後悔の残る最期を迎える人を増やすと懸念する。明るい展望を語るだけでなく、不愉快な真実を伝えることこそ専門家やメディアの責任であるとし、家族や自身の死に際して最良の方法を選ぶためには、死の実際を知ることが重要だと説く。本書は「死に関する新しい教科書」として、死を恐れず、上手な最期を迎えるための手引きとなることを目指している。死の判定は心停止、呼吸停止、瞳孔散大の三徴候によって行われるが、厳密にいつ人が死んだかを特定することは不可能である。臓器は同時には機能を停止せず、徐々に死滅していくためである。一般的な死は昏睡状態から始まり、下顎呼吸を経て、チェーンストークス呼吸の後に臨終を迎える。看取りの際には、慌てず、騒がず、落ち着かずの心構えが重要であり、医療者は家族に配慮した対応が求められる。死に際して行われる蘇生処置は、実際には蘇生の可能性がなくても、家族の納得感を得るための「儀式」である場合があることを明かす。死には生物学上の死のほかに、社会的な死や法的な死など三つの種類があると述べる。脳死に関しては、臓器移植の場面でダブルスタンダードが生じている現状を指摘し、冷静な判断のためには正確な知識が必要だと説く。
  • 第二章 さまざまな死のパターン
    • 研修医として初めて患者の死を看取った経験を語り、家族のいない孤独な死に深い感銘を受けたと述懐する。外科医として再任した後、先輩医師たちが末期患者に積極的な治療をしないことに疑問を感じた経験を紹介し、過剰な医療が患者を苦しめる現実を学んだと語る。延命治療に対する否定的な意見が広まる中で、「延命治療を拒否する」と言う人が、必ずしも悲惨な状況を避けられるわけではないと指摘する。助かる見込みがある場合に治療を選ぶのであれば、延命治療のリスクを受け入れる必要があるとし、両立しない願望を持つことの矛盾を指摘する。好ましい状況を実現するには尊厳死が重要だが、日本では法的に認められておらず、家族や医療者の精神的な負担も大きいと述べる。自身の義理の叔父が延命治療によって命拾いをした経験を紹介し、延命治療にも意味がある場合もあることを示唆する。病院での看取りと在宅での看取りの違いを強調し、後者の穏やかさ、自然さを推奨する。在宅での看取りを成功させるためには、本人と家族の十分な納得が不可欠であり、点滴や酸素マスクは終末期には効果がないばかりか、負担になることが多いと説明する。痛みを和らげる医療用麻薬や鎮静剤の適切な使用について解説し、心の準備さえできていれば穏やかな看取りが可能だと述べる。在宅医療に対する不安やハードルは、主治医、訪問看護師、ケアマネジャー、ヘルパーなどのサポート体制によって解消できると説明する。著者の父の最期を紹介し、長生きを望まず、自ら死を受け入れた穏やかな死に触れ、「足るを知る」ことの重要性を説く。
  • 第三章 海外の〝死〟見聞録
    • 外科医として終末期医療に取り組む中で、現状への反発から外務省医務官への転職を決意した経緯を語る。サウジアラビアでの勤務経験を紹介し、オイルマネーによる近代的な医療設備と、イスラム教の死生観の違いに驚いた体験を述べる。サウジアラビア人の外科部長との対話を通して、文化や宗教が異なっても、がん患者への治療の難しさは共通していると感じた一方、宗教的な死生観による受け止め方の違いに衝撃を受けたと語る。医務官としてイエメンを巡回した際、日本と異なる死の悼み方、即日埋葬する習慣に触れ、文化による死生観の大きな違いを実感した経験を紹介する。ウィーンでの勤務経験を紹介し、「死の肖像展」や葬儀博物館、墓地など、街全体が死に親しむ文化を持っていることに驚いたと述べる。スワロフスキーの店に飾られたクリスタルの髑髏を通して、ウィーンの死をタブーとしない文化を改めて感じたと語る。オーストリアでのがん告知が一般的であることに対し、当時日本ではタブーであったことに触れ、事実をありのままに受け入れる強さの違いを感じたと述べる。ハンガリーでは、医療が遅れていたがゆえに、高度な治療をせず自宅で緩和ケアを行うという、現代の在宅医療に通じる状況があったことを紹介する。パプアニューギニアでの勤務経験を紹介し、平均寿命が低いにもかかわらず、人々が死を比較的受け入れやすい国民性を持っていることに衝撃を受けたと語る。進んだ医療がある先進国の方が、病気に対する不安が大きいという逆説的な状況に言及する。パプアニューギニアの呪術医の存在を紹介し、現代医療に対する患者の信頼と、呪術に対する村人の信頼の心理的なメカニズムに類似性があるのではないかと考察する。呪術医が自身の死期を自然な老いの過程として捉えていることに感銘を受け、老いや死をどこまでも拒み続ける現代社会への疑問を呈する。
  • 第四章 死の恐怖とは何か
    • 医師として多くの死に触れるうちに、死に対する恐怖心が薄れていった自身の経験を語り、人はどんなことにも慣れると述べる。死の恐怖の最大の理由は、死後がどうなるかわからない不安であるとし、死後の世界に対する〝何モナイ派〟と〝何カアル派〟の考えを紹介する。不死があったとしたらどうなるかを考察し、老いを前提としない不死は問題を増やすだけであり、不老不死も長期的には退屈であると論じる。自身の娘が死を全く恐れないことに触れ、死の恐怖が脳の活動と関連している可能性を示唆する。死の恐怖が存在するために、人生に一度きりの死を悔いのないものにするためには、死を受け入れることが重要だと説く。死んだら何も感じないという〝何モナイ派〟の立場から、死の恐怖は実体のない幻影であると論じる。死を眠りと同じだと考えることで、死の恐怖は和らぐのではないかと提案する。死の恐怖を免れる方法は二つあり、一つは死のことを考えないようにすること、もう一つは死と向き合い、死の恐怖に慣れることだと述べる。後者の方法を推奨し、死を見据えた人生を送ることの重要性を説く。上手な最期を迎える人でも苦痛がないわけではないが、苦痛を拒絶するほど強くなるため、受け入れる心構えが大切だと述べる。医療の進歩によって死の直前の苦痛を抑える手段はあるものの、生命尊重の名の下に無益な延命を続けることの矛盾を指摘する。死の直前の状態を「死戦期」と呼ぶことに疑問を呈し、戦わずに受け入れることの重要性を強調する。
  • 第五章 死に目に会うことの意味
    • 末期患者の息子に死に目に間に合わせることができなかった自身の後悔の念を語る。無理な蘇生処置をして見せかけの死に目を作るべきだったかという葛藤を吐露する。普段から〝今〟を大事にし、大切な人に精一杯の対応をしていれば、いざという時にも穏やかに運命を受け入れられるのではないかと述べる。それでも死に目に会いたいという気持ちを否定しない一方で、死に目に執着することによる様々な弊害を指摘する。人の死は予測不可能であり、常に付き添っていても死に目に会えるとは限らないこと、下顎呼吸が長引くとかえって亡くなる本人を落ち着かせられない可能性などを挙げる。死に目に会うことよりも大切なことがあるのではないかと問いかける。
  • 第六章 不愉快な事実は伝えないメディア
    • 不愉快な事実を誰も知りたがらず、心地よい話ばかりがメディアに溢れている現状を批判する。そのために人々が準備を怠り、いざという時に慌てて誤った選択をする人が多いと警鐘を鳴らす。著者は自身の著作で世間の嫌がるようなことを書いてきたのは、現場を知る者として言わずにおれない気持ちからだと説明する。老いや死に関することだけでなく、犯罪報道などでも都合の悪いことは伝えられない傾向があると指摘する。何の根拠かわからないまま「人生百年時代」と言われるようになったことに対し、その真の意味は「百歳まで死ねない」ということではないかと警鐘を鳴らす。高齢者医療の現場で、生きすぎる長生きは不運以外の何ものでもないと感じた経験を語り、メディアが超高齢者の元気な姿ばかりを報道し、老いの現実を伝えないことの不公平さを指摘する。病院にかかっても死ぬ時は死ぬのであり、自分の寿命を受け入れて残された時間を好き放題に過ごす方が気楽ではないかと述べる。死因の人気ランキングで一位が「がん」である理由を、ポックリ死のような安楽な死に方への期待が裏切られる現実や、がんであれば残された時間を自分なりに過ごせる可能性、苦痛をコントロールしやすい可能性などから解説する。がんで死ぬことのメリットをメディアは伝えないが、心の準備として知っておくことは有意義だと述べる。自身の希望する死因については、あれこれと考えるのではなく、死に向かったらそのまま受け入れるのが一番だと考えていると述べる。
  • 第七章 がんに関する世間の誤解
    • 自分がいつ死ぬかわからないのは良いことであり、余命宣告に過剰に反応する必要はないと述べる。医師が余命を短めに言う傾向があること、統計はあくまで参考であり個人には当てはまらないことを説明する。がんになったら治るかどうかが最大の関心事だが、今は治らないけれど死なない「がんとの共存」という考え方もあると説明する。がんが生命を奪うのは、生命維持に必要な臓器に転移する場合や、全身に転移して体力や免疫力を奪う場合だと解説する。がんの治癒判定は実は不可能であり、「五年生存率」などの指標も必ずしも治癒を意味するわけではないと指摘する。本当に治ったかどうかを見極めるためには、「全生存期間」「無再発生存期間」「無増悪生存期間」などの指標が用いられるが、それでも断言はできないと述べる。日本でがんの告知が一般的になったのは、有名人のがんカミングアウトなどがきっかけで、がん=死という思い込みが薄れてきたからだと説明する。逆に、過度な治療が患者の死期を早める可能性もあることを指摘する。がんに関する世間の誤解として、「早期がん」の定義や、がん検診のメリットとデメリットについて解説する。がん検診による検査被曝のリスクや、過剰診断の問題にも言及する。近藤誠氏の提唱する「がんもどき理論」を紹介し、〝ほんもの〟のがんと〝がんもどき〟のがんの区別は難しく、不要な検査や過剰な治療に対するアンチテーゼとして提唱されたものだと説明する。がんの生検による転移の危険性について自身の疑問を呈し、生検ががん診断界のタブーとなっている可能性を示唆する。
  • 第八章 安楽死と尊厳死の是々非々
    • 安楽死と尊厳死の違いを明確に定義し、安楽死は積極的な死、尊厳死は消極的な死であると説明する。日本ではどちらも法的に認められておらず、医師がこれらを行うと殺人罪に問われる可能性があることを説明する。安楽死法と尊厳死法に対する賛成派と反対派の主な意見を紹介し、それぞれの立場を公平に示そうと試みる。医療の進歩が安楽死や尊厳死の発想を生んだ背景を解説する。オランダが世界で最初に安楽死法を可決した国であり、精神的な苦痛も安楽死の容認対象となること、未成年者の安楽死も条件付きで認められていることなどを紹介する。安楽死法がないオーストリアで起きた看護師による慈悲殺人事件を紹介し、安楽死の倫理的な難しさを提示する。日本で過去に起きた安楽死・尊厳死事件を紹介し、裁判所の判断や安楽死の要件について解説する。安楽死法が制定されたとしても、厳しい要件が課されることで事実上禁止される可能性もあると指摘する。著者が過去に経験した、麻薬や鎮静剤が効かない末期がん患者に対する苦痛緩和の試みを紹介し、安楽死が行われない場合の苦悶死の現実を描写する。若い患者の方が、生命力が強いために苦悶の時間が長引く可能性があり、安楽死を本当に必要とするのは高齢者ではなく若い患者かもしれないと示唆する。動物の安楽死で予期せぬ反応が起こった経験や、川崎協同病院事件のような尊厳死の現場で患者が苦しみ出した事例を紹介し、人間の死は予測不可能であることを強調する。川崎協同病院事件の発覚の経緯には、病院内の人間関係が影響したことを示唆する。スイスで安楽死を選択した日本人女性の事例を紹介し、日本では安楽死が認められていないために、このような決断をせざるを得ない現状を指摘し、選択肢としての安楽死を認める状況が求められていると述べる。家族や近しい人の最期に直面した際に難しい決断を迫られるため、普段から情報を集め、心の準備をしておくことの重要性を改めて説く。
  • 第九章 〝上手な最期〟を迎えるには
    • 苦しみや痛みのない死が理想だが、完全に苦痛をゼロにするのは現実的ではなく、ある程度の苦しみは覚悟しておく方が良いと説く。下手な最期として、激しい苦痛に苛まれながら、延命治療によって死ぬに死ねない状態が続くことを挙げ、高度な医療は必ずしも良いとは限らないと忠告する。病院死よりも在宅死を推奨し、病院では不毛な延命治療が行われる可能性が高いと指摘する。在宅医療に携わる医師たちの意見を紹介し、いざという時に病院へという考えを改め、死に対する心配や不安と向き合うことの重要性を説く。病院に行く場合は、助かる可能性もあるが延命治療のリスクもあること、行かない場合はそのまま亡くなるリスクはあるが延命治療は避けられることを理解しておくべきだと述べる。上手な最期を迎えるためには、普段から心の準備をしておくこと、つまり「メメント・モリ(死を想え)」による心の平安が重要だと説く。死を忘れている方が気楽だが、準備を怠ることが下手な最期につながると警鐘を鳴らす。自分の死を常に意識することで、今を大切に生きることの重要性を説く。終末期には、家族の安心のために無益な医療行為を望むのではなく、本人の意思を尊重すべきだと述べる。胃ろうをするかどうかの判断は、肺炎予防と口から食べる喜びのどちらを優先するかという難しい選択であり、安易に決めるべきではないと警鐘を鳴らす。欧米では高齢者に無理に食べさせることは虐待とみなされるという考え方を紹介する。精神面で上手な最期を迎えるには、自分の人生に満足し、心置きなくこの世を去ることが重要であり、著者の父が実践していた「新・老人力」を紹介する。満足と不満は期待と現実の比較で決まるため、期待値を下げることで満足感は高まると説明する。コロナ禍で露呈した人々の安心への渇望に触れ、求める力が強いほど苦しむ可能性が高いとし、「求めない力」の重要性を説く。詩集「求めない」を紹介し、穏やかな気持ちで死を受け入れることも悪くないと思えると述べる。最期は自己肯定と感謝の気持ちを持つことが大切であり、視野を広く持ち、自分に与えられた恵みや親切、幸運に気づくことで穏やかな気持ちになれる可能性が高いと説く。
  • おわりに
    • 新聞の読者投稿に見られた理想の最期は夢物語のような答えが多く、何の準備もせずにのんきに構えていることの危険性を指摘する。メディアが悲惨な死の例や後悔の残る例をあまり報道しないこと、医療ドラマが明るく感動的な物語ばかりであることなどが、人々の心の準備を怠らせる要因になっていると警鐘を鳴らす。著者は自身の経験から、上手な死に方という方法は見つかっておらず、死には思いがけないことがつきものだと述べる。自身もどのような最期を迎えるかわからないとしつつ、少しでも多くの人が良い最期を迎えられることを心から願っていると結ぶ。
  • 全体の要約
    • 本書「人はどう死ぬのか 人生の予習」は、外科医、終末期医療、そして海外での医務官としての豊富な経験を持つ著者が、一般に知られていない死の現実や、それに対する日本人の認識の偏りを指摘し、死の恐怖から解放され、上手な最期を迎えるための心構えを説いたものである。
    • 著者は、医療の進歩によって病気が治るようになったのは良いことだが、「医療は死も止められる」という誤解が広まることの危険性を強調する。終末期の点滴や酸素マスク、胃ろうなどに対する過度な期待は人々を惑わし、後悔の残る最期を迎える人を増やすと警鐘を鳴らす。死の判定は三徴候によって行われるが、厳密な死亡時刻の特定は不可能であり、一般的な死は昏睡状態から下顎呼吸、チェーンストークス呼吸を経て臨終を迎える。看取りにおいては、家族への配慮と、無益な蘇生処置に捉われない冷静な対応が求められる。
    • さまざまな死のパターンを通して、過剰な延命治療が患者を苦しめる現実や、延命治療にも意味がある場合、在宅での看取りの穏やかさ、そしてそのための準備の重要性を具体的に示す。海外での経験を通して、文化や宗教によって死生観が大きく異なることを示し、日本人が死をタブー視し、直視することを避ける傾向にあることを指摘する。
    • 死の恐怖の根源は死後への不安であり、死は実体のない幻影であると論じる一方で、死を受け入れることの重要性を説く。死の恐怖を克服するためには、死と向き合い、それに慣れることが有効であると提案する。死に目に会うことへの執着がもたらす弊害を指摘し、それよりも大切なことがあるのではないかと問いかける。
    • メディアが心地よい情報ばかりを伝え、不愉快な現実に目を向けさせないことが、いざという時の誤った判断につながると批判する。長寿礼賛の風潮や、がんに対する誤った認識を正し、死因としての「がん」の意外な利点や、過度な治療の危険性を解説する。余命宣告やがん検診、がんもどき理論など、がんに関する世間の誤解を解き明かす。がんの生検による転移の可能性というタブーにも触れ、不都合な事実が広まらない日本の現状を指摘する。
    • 安楽死と尊厳死の違いを明確にし、それぞれの賛否両論、海外の状況、過去の事件を紹介することで、終末期医療における倫理的な問題を提起する。日本では法的に認められていない安楽死や尊厳死に対し、苦悶死の現実を示しつつ、選択肢としての必要性を訴える。人間の死は予測不可能であり、尊厳死においても予期せぬ事態が起こりうることを示す。
    • 上手な最期を迎えるためには、苦痛をある程度受け入れ、延命治療に固執せず、病院死よりも在宅死を選ぶことが望ましいと提唱する。そのためには、普段から死を意識し(メメント・モリ)、心の準備をしておくことが重要であると説く。終末期における家族の過剰な医療介入を戒め、本人の意思を尊重すること、そして胃ろうの安易な選択に警鐘を鳴らす。精神面での上手な死として、自分の人生に満足し、心置きなくこの世を去ることを挙げ、「新・老人力」という考え方を紹介し、自己肯定と感謝の気持ちを持つことの大切さを説く。
    • 最後に、メディアの偏った情報発信や、安易な理想の最期を夢見ることの危険性を指摘し、不愉快な現実から目を背けず、死に対する備えをすることこそが重要であると結論づける

  • はじめに
  • 第一章 老いの不思議世界
    • 上手に老いる方法/たまたま飛び込んだ高齢者医療/重症度と苦悩の深さが一致しない/94歳のアイドル/ほのかなロマンス/99歳の心配事/高齢自慢/根強い死にたい願望/「死ね」ではなく「死ねない」という意地悪/海より深い高齢者のうつ/ネガティブ思考の女王/排泄、この悩ましい必然
  • 第二章 手強い認知症高齢者たち
    • 「老人性痴呆」から「認知症」へ/お笑い〝認知症判定スケール〟/認知症診断のあいまいさ/認知症の種類と特徴/〝多幸型〟と〝不機嫌型〟/〝怒り型〟には困惑/〝泣き型〟〝情緒不安定型〟にも困惑/〝笑い型〟は楽しい/困る〝意地悪型〟/高齢者の「徘徊」は徘徊にあらず?/徘徊高齢者はまるで風/行方不明者発見の美談のその後/認知症高齢者に論破される/有効な徘徊抑制法/まるで〝暴君〟/認知症介護の裏ワザ
  • 第三章 認知症にだけはなりたくない人へ
    • なりたくない病気№1/認知症予防で有効なものは/認知症治療薬のズルさ/明晰であり続けることの悲劇/認知症は自然の恵み?/自分が認知症になるだけではない/認知症介護の極意1/認知症介護の失敗パターン/認知症介護の極意2/敬老精神のない時代
  • 第四章 医療幻想は不幸のもと
    • 医療幻想とは何か/コロナ禍に見る医療幻想/認知症の早期発見・早期治療への疑問/リハビリ幻想/奇跡の復活もある/おむつはずし運動・美談の弊害/「医は仁術」とは言えないシステム/迷える子羊をさらに迷わせる/「先生のおかげです」のウソ/医療と宗教
  • 第五章 新しいがんの対処法
    • がんとは何か/なぜがんで死ぬのか/がんの四大治療法/代替療法とインチキ治療/がん告知のメリット・デメリット/がん検診のメリット・デメリット/治らないけれど死なないという状況/がん患者さんの看取り方
  • 第六章 〝死〟を先取りして考える
    • 上手に死ぬ準備/あのとき死んでいれば・その1/あのとき死んでいれば・その2/胃ろうとCVポートの悩み/臨終間際の人工透析/穏やかな死を阻むもの/安楽死禁止の国
  • 第七章 甘い誘惑の罠
    • 欲望につけこむビジネス/欲望肯定主義の罠/スーパー元気高齢者の罠/優秀な人ほど苦しむ老い/死後の世界の誘惑/命を粗末にする国から、大事にしすぎる国へ
  • 第八章 これからどう老いればいいのか
    • 次のステージへの準備/欲望と執着/武道家に学ぶ/すべては比較の問題/武士はなぜ切腹できたのか/水木サンの言う「人生の夕日」はすばらしい/「隠居」のすすめ/実は今がいちばん幸せ
  • おわりに
  • 各章の要約
  • はじめに
  • 著者は、人がどのように老いるのかという問いに対し、医学的なメカニズムや老化現象の解説は他書に委ねるとし、現在解明されている老化の知見は面白くなく、知っても上手に老いることには繋がらないと述べている。また、老いを止める、あるいは遅らせるノウハウや指導についても眉唾物が多く、その効果を科学的に証明することは困難であると指摘する。上手に楽に老いるためには、老いの実例を参考にすることが有益であるとし、自身の高齢者医療の経験を紹介する。元外科医であった著者が、外務省勤務を経て42歳で帰国後、老人デイケア併設のクリニックに勤務した経験から、高齢者の多様な実態に触れ、老いの現実について考察していくことを示唆している。
  • 第一章 老いの不思議世界
  • 著者は、高齢者医療の現場で、高齢者が些細なことで悩んだり嘆いたりする現実に意外性を感じたと述べる。腰痛や物忘れなど、若い世代には当然と思えるような老化現象に対し、当事者は想定外の不幸に見舞われたように苦しんでいる様子を見て、心の準備不足を指摘する。一方、「年のせい」と諦め、不具合を受け入れている高齢者もいることを紹介し、重症度と苦悩の深さが必ずしも一致しない老いの多様性を描いている。また、デイケアで行われた風船を使ったゲームでの出来事を通して、死に対する捉え方が年齢や状況によって大きく異なることを示唆し、長生きが必ずしも幸福とは限らないという視点を提示する。上手に楽に老いるためには、老いの現実を理解し、受け入れる心の準備が重要であると結論づけている。
  • 第二章 手強い認知症高齢者たち
  • 著者は、自身が老人デイケアで勤務していた頃の「老人性痴呆」という診断名が「認知症」に改訂された背景を紹介し、言葉の変更が患者家族の受け止め方に与えた影響について考察する。認知症にはアルツハイマー型、レビー小体型、前頭側頭型、脳血管性など様々なタイプがあり、それぞれに特徴的な症状があることを解説する。しかし、生前の正確なタイプ診断は困難であり、治療内容に大きな差はないのが現状であると述べる。認知症の患者には、いつも機嫌の良い「多幸型」と、イライラしやすい「不機嫌型」がいることに加え、著者が経験した「激怒型」や、幼少期の辛い記憶に苦しむタイプ、感情が突発的に表れるタイプなど、多様な認知症の様相を紹介する。また、認知症高齢者の徘徊についても言及し、一万七千人を超える行方不明者の現状と、その後の家族の介護負担や施設の費用といった現実的な問題点を示唆する。認知症に対する恐怖や不安は、認知症になっていない人の感覚であり、認知症になった本人はそれを認識できないため、過度な恐れは無用であるという考えを提示する。
  • 第三章 認知症にだけはなりたくない人へ
  • 著者は、多くの人が認知症になることを恐れる一方で、医療や介護の現場で認知症を悔やんでいる人はいなかったという自身の経験を紹介する。認知症に対する恐怖は、健常な人が認知症になった自分を想像することから生まれるとし、認知症の本質は病気であることを認識できない点にあるため、恐れる必要はないと強調する。認知症予防について、厚生労働省の見解を引用し、予防の根拠、対象、方法、人材、効果評価などが確立されていない現状を指摘する。認知症の原因も未だ明確には解明されておらず、現在の治療法は根本的なものではないと述べる。アルツハイマー病の新薬についても、症状の進行をわずかに遅らせる効果はあるものの、評価の曖昧さや副作用、高額な費用などの問題点を指摘し、過度な期待を戒める。認知症に対する過剰な恐れや、根拠のない予防法に惑わされることなく、現実を受け入れることの重要性を説いている。
  • 第四章 医療幻想は不幸のもと
  • 著者は、医療に対する世間の過度な期待、いわゆる「医療幻想」が不幸の根源になると警鐘を鳴らす。コロナ禍における専門家の意見が絶対視され、過度な自粛や相互監視が生じた例を挙げ、専門家の意見はあくまで参考であり、不確かな側面があることを指摘する。認知症の早期発見・早期治療についても、現段階では治療法や悪化予防法が確立されていないため、早期発見がかえって本人や家族のストレスを増大させる可能性を指摘する。おむつはずし運動や寝たきり高齢者を起こす運動といった美談報道の裏側にある現実、例えば再おむつや再寝たきりの可能性、介護現場の負担などを考慮せず、安易な希望を持たせることの弊害を指摘する。また、病院経営の現実にも触れ、「医は仁術」とは言えない側面があることを示唆し、医師も経済的な制約の中で診療を行っている現状を説明する。健康食品やサプリメントの広告についても、消費者の不安を煽り、誤解を招くものが少なくないと批判する。正しい医療を施しても治らないことがあること、逆に治っても医者だけの力ではないことを理解し、医療への過度な期待を抱かないことの重要性を説いている。
  • 第五章 新しいがんの対処法
  • 著者は、がんの基本的な知識として、良性腫瘍と悪性腫瘍の違い、がんが転移によって命を奪う仕組み、悪液質の発生機序などを解説する。がんの四大治療法である外科手術、抗がん剤、放射線治療、免疫療法について説明し、自身が外科医であった頃の認識と、現代の治療法の進歩を紹介する。しかし、抗がん剤治療はがんを根治させるものではなく、増殖を抑えるに過ぎない場合が多いと指摘する。がんになった場合の治療選択として、「標準治療」が最も安全な選択肢であると強調し、効果が証明されていない高額な代替療法に注意を促す。かつて日本ではタブーであったがん告知のメリット・デメリットを解説し、現在では告知が一般的になった背景を説明する。がん検診についても、早期発見のメリットと、過剰診断やそれに伴う精神的・経済的負担といったデメリットを提示する。近年のがん治療の進歩により、「治らないけれど死なない」という状況が生まれていることを紹介しつつ、終末期のがん患者に対する適切な看取り方として、無理な延命治療を避け、医療用麻薬による苦痛緩和が重要であることを強調する。
  • 第六章 〝死〟を先取りして考える
  • 著者は、誰にでも必ず訪れる死に対する準備の重要性を説く。自身の母親が骨折手術後の麻酔から覚醒せず亡くなった経験を通して、本人が苦しむことなく死を迎えることの側面にも言及する。老衰による腎機能低下の場合の人工透析についても、延命が可能である一方で、患者本人の苦痛を伴う可能性を指摘し、本人の意思を尊重すべきであると示唆する。坂本龍一氏の臨終の言葉「つらい。もう逝かせてくれ」を紹介し、死に抵抗しすぎることによる無用な苦しみの可能性を示唆する。家族の延命希望はエゴである可能性にも触れ、死期が迫った際には自然に任せることの重要性を強調する。安楽死についても言及し、原則反対の立場を取りつつも、悲惨な状況下では選択肢として必要ではないかという考えを示す。尊厳死の必要性も強調し、死の絶対拒否という考え方の弊害を指摘する。苦しみながら亡くなった多くの人が、もし言葉を持てば安楽死を望んだのではないかという推測を述べている。
  • 第七章 甘い誘惑の罠
  • 著者は、いつまでも元気で長生きしたいという人間の欲望につけこむビジネスが巷に溢れている現状を批判する。効果のないサプリメントや健康食品の広告手法を例に挙げ、消費者を不安に陥れ、不必要な購買に誘導する手口を非難する。医療業界も営利で成り立っているため、顧客を増やすことに熱心であり、偏った情報で人々を医療に誘導することに疑問を呈する。現代の自由で豊かな社会における「欲望肯定主義」が、かえって人々の不満や不幸を生み出していると指摘し、「楽にやせる」「すぐに儲かる」といった安易な情報に惑わされることなく、努力や忍耐の重要性を説く。老いに関しても現実から目を背けず、現状を受け入れる「足るを知る」精神が快適な老いを実現するために不可欠であると強調する。スーパー元気高齢者の活躍は、多くの人に誤った期待を抱かせ、そうでない場合に不満や失望を生む「罠」であると指摘し、持って生まれた体質が重要であると述べる。老いの現実を受け入れ、高望みをせず、身の丈に合った状況で満足する知恵が重要であると結論づけている。
  • 第八章 これからどう老いればいいのか
  • 著者は、老いに対する準備の重要性を改めて説き、いつまでも元気で若々しいという願望は現実逃避であり、予期せぬ困難に繋がる危険があると指摘する。自身の作家としての仕事が途絶えた経験を通して、終わりを意識していなかったことへの後悔と、状況を受け入れることの重要性を語る。仕事のない状況のメリットを考え、新たな依頼によって救われた経験から、常に終わりを意識し、今できることにベストを尽くすことの重要性を強調する。また、暇な時間をどう過ごすか、したいことを考えておくことも大切だと述べる。独り暮らしの高齢女性が死後の整理を憂う例を挙げ、「欲望」を抑えることの必要性を示唆する。父親の「無為自然」「莫妄想」「少欲知足」の生き方を理想とし、幸福や長生きへの無駄な努力をせず、自然に身を任せることの智慧を紹介する。武道家の言葉「合気道家は入れ歯がすぐに合うようでなければならない」を引用し、与えられた状況に最適化すること、すなわち欲望や執着を捨て、老いや死を受け入れることの重要性を説く。満足感は事前の期待値と現実の比較で決まるため、事前の期待値を下げておくことの有効性を述べ、悲観的な視点を持つことの危機管理としての側面を強調する。武士が切腹できたのは、常に死を意識して生きていたからだと考察し、私たちも老いと死を意識した生き方をすることで、自然な寿命を受け入れられるはずだと述べる。水木しげる氏の言葉を紹介し、老いとは「人生の夕日」であり、欲や邪心が消えることで今まで気づかなかった様々なことが見えてくるという認識を示す。自身の父親の隠居生活を理想とし、定年後は義務や責任から解放され、趣味と娯楽に生きることを勧める。これからどう老いるべきかという問いに対し、人によって異なるため一概の正解はないとしつつも、実は「今がいちばん幸せ」だと気づくことが大切であると結論づけている。
  • おわりに
  • 著者は、本書がこれから老いる人や、すでに老いている人で、ある程度心に余裕のある人に向けて書かれたと述べる。上手に老いて上手に死ぬためには準備が必要だが、老いも死も不愉快なため、多くの人が直視することを避け、いざという時に失敗していると指摘する。長年の高齢者医療の経験から、うまく老い、上手な最期を迎えるためには受け入れることが最も重要であると改めて強調する。老いと死が受け入れられない最大の理由は本能的な拒否であり、それに拍車をかけるのが世の中の甘い情報や偽りの希望であると批判する。自立して元気に暮らすための努力は必要だが、そればかりに目を向けるのではなく、老いや死への心の準備も重要であると説く。健診センターでの勤務経験から、多くの人が健康を心配しすぎていると感じ、それが無駄を生んでいると指摘する。ロバート・メンデルソン医師の言葉を引用し、現代医療の過剰さを示唆しつつ、老いも死も自然なことであり、受け入れることで心が落ち着き、穏やかに暮らせるようになることを願っている。
  • 全体の要約
  • 本書「人はどう老いるのか 人生の予習」において、著者は自身の高齢者医療の経験を基に、人が老いるということの本質、直面する様々な課題、そしてどのように老いることがより良いのかについて考察を展開している。医学的な老化のメカニズムの解説ではなく、高齢者の心理や社会的な状況、死生観に焦点を当て、老いの現実を直視し、それを受け入れることの重要性を一貫して主張している。
  • 第一章では、些細なことで悩む高齢者の姿や、重症度と苦悩の深さが一致しない老いの多様性を提示し、心の準備の必要性を説いている。第二章では、認知症の様々なタイプと症状、患者や家族が抱える問題点を紹介し、認知症に対する過度な恐怖は無用であるという考えを示す。第三章では、根拠のない認知症予防法や新薬への過剰な期待を戒め、認知症の本質を理解することの重要性を強調する。第四章では、医療に対する過度な期待、いわゆる「医療幻想」が不幸の根源となると警鐘を鳴らし、美談報道の裏側や病院経営の現実にも触れながら、医療の限界を認識することの重要性を説いている。第五章では、がんの治療法や告知、検診に関する情報を解説しつつ、治らないけれど死なないという状況や、終末期医療における苦痛緩和の重要性を強調する。
  • 第六章では、死を先取りして考えることの重要性を述べ、無用な延命治療を避け、自然な最期を迎えることの意義を説いている。安楽死や尊厳死についても議論を展開し、死の絶対拒否という考え方の弊害を指摘する。第七章では、健康や長寿に関する甘い誘惑の罠に注意を促し、欲望肯定主義やスーパー元気高齢者の罠に陥ることなく、現実を受け入れる「足るを知る」精神の重要性を強調する.
  • 第八章では、老いを新たなステージへの準備と捉え、終わりを意識して今を大切に生きること、そして与えられた状況を受け入れる柔軟性を持つことの重要性を説いている。著者の父親の「無為自然」「莫妄想」「少欲知足」の生き方や、水木しげる氏の「人生の夕日」という言葉を紹介しながら、欲望や執着を捨て、老いを受け入れることが幸福な老後を送るための鍵であると結論づけている。最終的に、人は「今がいちばん幸せ」であることに気づくことが、これからどう老いるべきかという問いへの答えになると示唆している.
  • 本書全体を通して、著者は老いや死といった避けられない現実から目を背けることなく、それらを自然なものとして受け入れ、無闇に抗うのではなく、心の準備をすることが、より穏やかで充実した人生を送るための essential な要素であると読者に語りかけている。

本人の報告

次は、老いつつある本人の「報告書」(もちろん改善提案が含まれる)として、次のような本がある。

  1. 老いの失敗学 80歳からの人生をそれなりに楽しむ (朝日新書):畑村 洋太郎
  2. 初めて老人になるあなたへ ハーバード流知的な老い方入門:B・F・スキナー
  3. ブッダに学ぶ 老いと死 :山折哲雄(朝日新書)
  4. 老人一年生 老いるとはどういうことか:副島隆彦 (幻冬舎新書)
  5. 老いの整理学:外山 滋比古 (扶桑社BOOKS文庫)
  6. 70歳から楽になる 幸福と自由が実る老い方 (角川新書):アルボムッレ・スマナサーラ
  7. 老いて、自由になる。智慧と安らぎを生む「禅」のある生活:平井正修 (幻冬舎)

第三者のアドイバイス

第三者のアドバイスとして次のような本がある。

  1. 老後をやめる 自律神経を整えて生涯現役:小林弘幸 (朝日新書)
  2. こうして、人は老いていく 衰えていく体との上手なつきあい方:上村理絵
  3. 東大が考える100歳までの人生設計 ヘルシーエイジング (幻冬舎単行本)
  4. 順天堂大学の老年医学に学ぶ 人はなぜ老いるのか 基礎から身に着く「大人の教養」
  5. 最高の老後「死ぬまで元気」を実現する5つのM:山田悠史

老いとは何か

その他、最近は、「老いとは何か」、「なぜ老いるのか」ということを解き明かそうとする本も多い。

以上については、追って紹介する。