精神現象学から認知科学へ

ヘーゲルは分からない

ヘーゲルの法哲学、歴史哲学、あるいは論理学等は、読んでいて何を論じているのかが全く分からないわけではない。しかし、「精神現象学」、それも前半部分はお手上げだ。読んでいて、論じている対象が分からない、内容も分からない、言葉遣いが不快だ、等々がごく普通の反応だと思う。
今後、こういう本を手に取ることもないだろうから、もののついでに少しでも理解しようとKindle本で購入していた「精神現象学上下:熊野純彦訳」 、「超解読!はじめてのヘーゲル『精神現象学』:竹田青嗣、西研(講談社新書)」 等々を読み始めてみたが、上記のとおりの結果である。
「精神現象学」は、ヘーゲル37歳のときの発表(1807年)で、いわば「若書き」だが、なぜかやたらと翻訳されている。邪推であるが、先人の翻訳を読んでも分からないので、自分で翻訳すれば分かるだろうと考えた哲「学者」が何人もいたのだろうか。熊野さんは他にやることがいくらでもあると思うが、廣松さんのお弟子筋だろうからその「遺言」で翻訳したのだろうか(ただカント批判三部作も翻訳しているようなので、哲学の本道を歩んだのだろうか。)。熊野さんの翻訳を読んでも分からない。
「超解読!はじめてのヘーゲル『精神現象学』」は、内容を読み込みそれなりに理解しているであろうふたりが、簡潔に要約していると思われるが、それでも何が書いてあるか分からない。
思うに、「精神現象学」は、ヘーゲルがどのような地域、社会制度、組織の中で生き、どのような既存の知的言語空間で、どのような材料に基づき、どのような対象について、何を目的に書いたのかが、お手上げなのである。
ただ、前半は、意識、自己意識、理性という項目だから、どうも知覚・認知についての分析が、一方でカントをにらみ、一方で世界は神の一部だという前提の元に、ヘーゲルが知っているその当時の知的カタログを披露しつつ書かれたもののように思える。でも、「種の起源」の出版は1859年、ヴントやウィリアム・ジェームズにより心理学が成立したのは1870年代、いずれにせよ「意識」について様々な経験的な事実、現象に向き合って論じたものではなく、圧倒的な材料不足のなかで、ごく少数の哲学者の言説に向き合い、自己の観念で整合的に操作・表現したと思われる。ほぼ時代人のマルクスに対象・方法が面白く、後代のメルロ・ポンティーにも小説のように面白かったのだろうが、私が「精神現象学」を正確に理解したとして、それが私に何をもたらすだろうか。

「わかる」とはどういうことか-認知科学への転進

「精神現象学」が「意識の経験の学」だとすると、現代の「精神現象学」は、「認知科学」だろう。「認知科学」は、一方で、脳科学を、一方でコンピュータ科学を見据えて、AIで何が可能か、何が不可能かを解き明かそうとしている。
ただ「認知科学」の議論は、いささかコンピュータ科学におされて錯綜しているように見えるので、その前に、脳神経学者で、失語症を扱う臨床の脳医学者(あるいは引退されたか)の山鳥重さんの「「わかる」とはどういうことか ―認識の脳科学 (ちくま新書)」 を読み込むのがよい。
本書を読んでびっくりしたが、まさに現代の「意識の経験の学」である。著者は先人の医学、神経学分野の業績を踏まえつつ、自分の経験を元に、自分の頭で考え、心の全体像を明らかにしようとしている。著者には、この他にも、少しずつ焦点の当て方が違う「「気づく」とはどういうことか ─こころと神経の科学 (ちくま新書)」、 「言葉と脳と心  失語症とは何か (講談社現代新書)」 、「心は何でできているのか 脳科学から心の哲学へ (角川選書)」 、「ヒトはなぜことばを使えるか 脳と心のふしぎ (講談社現代新書」 等の入手の容易なKindle本があり、これらを読み比べるともっと興味深い。
山鳥さんの所論をごく簡単にまとめれば、脳と心は違うレベルの現象なので、因果関係はない。心には形のない「感情」がある、y形のある「知覚」がある、内外の情報が「心像」に構成される、記憶された「心像」がある、これを照らし合わせて、区別して、同定する。「知覚心像」に記号としての言語がある。外からの「知覚」「言語」等々で構成される状況が、記憶された「知覚」「言語」と照らし合わされることで「わかる」。「わかる」には、『全体像が「わかる」、整理すると「わかる」、筋が通ると「わかる」、空間関係が「わかる」、仕組みが「わかる」、規則に合えば「わかる」』等、いろいろな「分かる」がある。「わかった」と思うのも、『「直感的に「わかる」」、「まとまることで「わかる」」、「ルールを発見することで「わかる」」、「置き換えることで「わかる」』等といろいろある。
これらの心は、「情」、「知」、「意」とまとめることができる。
著者がもっとも力を入れ、また哲学者、言語学者ではカバーできない、脳の障害がもたらす言語使用の変容を踏まえた「言語」論であり、私も言語が共有化され、意味を持つ仕組みに興味があるので、この部分は重要だ。
上記のまとめはまとめとも言えない乱暴なものだが、非常に「分かりやすく」かつ重要なので、今後も言語論も含めて、「まとめ」、考察を充実させていきたい。

イラストで学ぶ 認知科学-「認知科学」の入口


その上で、例えば「イラストで学ぶ 認知科学:北原義典」の項目を見ると、 感覚、知覚・認知、記憶、注意、知識、考えること(問題解決、意思決定、推論)、言語等々、まさにヘーゲルの「精神現象学」が乏しい手掛かりで追及しようとした(だろう)こと、山鳥さんが脳医学を踏まえて追究しようとしたことが網羅されている。この本は、イラストといっても、心的現象と脳の部位との関係図や、論じられている問題について整理されたカラー図表等が掲載されていてとてもわかりやすい。ただ、「意識の経験」を体系的に論じようとしたものではないが、山鳥さんの所論と重ね合わせて読み進めると、面白し、AI論への入口にもなる。

詳細目次

「「わかる」とはどういうことか」と、「「イラストで学ぶ 認知科学」の詳細目次を掲載しておく。

「わかる」とはどういうことか ―認識の脳科学 (ちくま新書) :山鳥重

  • 目次
    • はじめに ──わかる・わからない・でもわかる
      • 第1章  「わかる」ための素材
        • 1 絶えず心を満たしているもの
        • 2 すべては知覚からはじまる
        • 3 知覚を研ぎ澄ます
        • 4 区別して、同定する
        • 5 心はからっぽにはならない
      • 第2章  「わかる」ための手がかり ── 記号
        • 1 記号の役割とはなにか
        • 2 言語の誕生
        • 3 心理現象を共有する
        • 4 記号の落とし穴
        • 5 「わかる」の第一歩
      • 第3章  「わかる」ための土台 ── 記憶
        • 1 記憶のいろいろ
        • 2 意識に呼び出しやすい記憶
        • 3 意識に上りにくい記憶
        • 4 記憶がなければ「わからない」
      • 第4章  「わかる」にもいろいろある
        • 1 全体像が「わかる」
        • 2 整理すると「わかる」
        • 3 筋が通ると「わかる」
        • 4 空間関係が「わかる」
        • 5 仕組みが「わかる」
        • 6 規則に合えば「わかる」
      • 第5章   どんな時に「わかった」と思うのか
        • 1 直感的に「わかる」
        • 2 まとまることで「わかる」
        • 3 ルールを発見することで「わかる」
        • 4 置き換えることで「わかる」
      • 第6章  「わかる」ためにはなにが必要か
        • 1 「わかりたい」と思うのはなぜか
        • 2 記憶と知識の網の目を作る
        • 3 「わからない」ことに気づく
        • 4 すべて一緒に意識に上げる── 作業記憶
        • 5 「わかった」ことは行為に移せる
        • 6 「わかった」ことは応用出来る
      • 終章   より大きく深く「わかる」ために
        • 1 小さな意味と大きな意味
        • 2 浅い理解と深い理解
        • 3 重ね合わせ的理解と発見的理解

イラストで学ぶ 認知科学:北原義典

  • 目次
      • まえがき
      • 第1章 認知科学概論
        • 1.1 認知科学 1.2 認知科学のたどった道 1.3 認知科学研究の方法 1.4 モデル 1.5 人間の情報処理モデルと認知科学のスコープ – <参考文献>
      • 第2章 感覚
        • 2.1 感覚の種類と特性 2.2 感覚信号の伝達 2.3 視覚機構 2.4 聴覚機構 2.5 体性感覚 2.6 感覚の相互作用 2.7 コンピュータによる画像・音声の特徴抽出 – <参考文献>
      • 第3章 知覚・認知
        • 3.1 トップダウン処理 3.2 ゲシュタルト特性 3.3 形状知覚・認知 3.4 音声知覚・認知 3.5 空間知覚 3.6 認知地図 3. 7時間知覚 3.8 コンピュータによる音声認識 <参考文献>
      • 第4章 記憶
        • 4.1 記憶の構造 4.2 短期記憶からワーキングメモリへ 4.3 長期記憶 4.4 宣言的記憶と手続き的記憶 4.5 忘却 4.6 コンピュータの記憶装置 <参考文献>
      • 第5章 注意
        • 5.1 選択的注意 5.2 焦点的注意と分割的注意 5.3 視覚的注意、 5.4 聴覚的注意、 5.5 コンピュータによる音源方向推定 <参考文献>
      • 第6章 知識
        • 6.1 知識の表現と構造 6.2 意味 6.3 概念とカテゴリー化 6.4 プロダクションルールを用いた知識処理 <参考文献>
      • 第7章 問題解決
        • 7.1 問題空間と方略 / 7.2 良定義問題の解決プロセス 7.3 推論 7.4 ウェイソンの選択課題 7.5 コンピュータによるゲーム戦略 <参考文献)
      • 第8章 意思決定
        • 8.1 効用と文脈 8.2 プロスペクト理論 8. 3選好モデル – 8.4 葛藤状態における意思決定 <参考文献>
      • 第9章 創造
        • 9.1 再生的思考と生産的思考 9.2 洞察 9.3 アナロジーを用いた発想 9.4 発想支援手法<参考文献>
      • 第10章 言語理解
        • 10.1 自然言語と人工言語 10.2 言語の多層構造とメンタルレキシコン – 10.3 単語認知 10.4 統語論的言語産出・理解モデル 一 10.5 意味論的言語産出・理解モデル 10.6 チューリングマシンとオートマトン – 10.7 形式文法 10.8 コンピュータによる自然言語処理 <参考文献>
      • 第11章 情動
        • 11.1 情動と認知 11.2 情動による身体的変化と測定指標 11. 3情動のモデル 11.4 表情の認知 <参考文献>
      • 第12章 社会的認知
        • 12.1 対人認知 12.2 顔の記憶と認知 12.3 社会的推論 12.4 態度の変容 12.5 集団の影響 <参考文献>
      • 第13章 コミュニケーション
        • 13.1 コミュニケーションにおける非言語チャンネル – 13.2 説得的コミュニケーション 13.3 コミュニケーションの変容 13.4 インターネットにおけるコミュニケーション <参考文献>
      • 第14章 錯覚
        • 14.1 形の錯視 14.2 明るさ・色の錯視 14.3 運動錯視 14.4 錯聴 14.5 体性感覚の錯覚<参考文献>
      • 第15章 脳
        • 15.1 脳の構造 15.2 感覚と脳 15.3 記憶と脳 15.4 思考と脳 15.5 情動と脳 15.6 脳における信号の伝達 15.7 脳神経活動計測 15.8 ディープラーニング <参考文献>
      • 索引