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「本_を読む」投稿をどう作るか
読んでいない本について堂々と語ることは冗談だった
「本_を読む」ために、私はいつ来るかわからない将来を夢見てせっせとKindle本の目次作りに精を出してきた。目次作成までの過程で、残念ながら通読できることはあまりないが、少なくても「流し読み」や「ちらっと読み」はしている。ただそれだけでは「停滞」というしかない。
「読んでいない本について堂々と語る方法」を最初に手にしたのはいつだろうか。単行本は2008年出版のようなので、それからしばらくしてだろう。冗談としかいいようのない人を食った題名と、中身の真摯さ・視野の広さとの対比に心動かされた記憶がある。ただ詳細は同書がいう(忘)=読んだことはあるが忘れてしまったというしかない。
読んでいない本について堂々と語る時代が来た
それから約15年が経過し、今や、本のテキストやPDFが用意できれば、Notebook LMやGensparkを利用すると、「読んでいない本について堂々と語る」ことができる時代がやって来た。
これは実例を見てもらうほうが早い。後掲の「「読んでいない本について堂々と語る」をめぐって」はNotebook LMのほとんど手を入れていないが、細部の正確さはなお検証すべきだが、文章の質が極めて高いのは一読して明らかである。
ということは私が目次作りの先にあるが、ほとんど着手できなかった「要約」が生成AIによってあっという間にできてしまうということである。
重要なこと
そうすると重要なのは、対象とする本について「要約」を踏まえて、それを言語空間の中に位置づけ、批判的思考を巡らし、さらにつながる他の「本の森」を考察することである。その各論的実践を今後試みるが、「 Mのコメント(位置づけ・批判的思考・つながり)」とすればいいだろう。
その際、「AIライティング」で指摘した「行動力 多面的な「プロンプト」を作り質の高い情報を仕入れる行動力 情報収集にずぼらはダメだ」、「判断力 AIが加工した情報の良し悪しを見極める判断力 やりっぱなし・横流しはダメだ」、「表現力 仕入れた情報を自分の言葉でまとめる表現力 自分で創造しよう」が重要なこと改めて指摘したい。
なお「本_を読む」投稿には、その本が紹介されている適切なサイトを掲載したいと思っていたが、Amazonアフェリエイトとの相性が良くないので、「版元ドットコム」にした。「 オンライン書店で購入」や「各書店の検索機能を確認」もできて適切だ。
次に例示してみよう。
読んでいない本について堂々と語る方法_を読む
Mのコメント(位置づけ・批判的思考・つながり)
近々、上記の「本書を最初に手にしたのはいつだろうか。単行本は2008年出版のようなので、それからしばらくしてだろう。冗談としかいいようのない人を食った題名と、中身の真摯さ・視野の広さとの対比に心動かされた記憶がある。ただ詳細は同書がいう(忘)=読んだことはあるが忘れてしまったというしかない。」を補充する。これはまず「練習」だ。
目次と要旨
目次
- 序
- Ⅰ 未読の諸段階(「読んでいない」にも色々あって……)
- 1 ぜんぜん読んだことのない
- 2 ざっと読んだ(流し読みをした)ことがある本
- 3 人から聞いたことがある本
- 4 読んだことはあるが忘れてしまった本
- Ⅱ どんな状況でコメントするのか
- 1 大勢の人の前で
- 2 教師の面前で
- 3 作家を前にして
- 4 愛する人の前で
- Ⅲ 心がまえ
- 1 気後れしない
- 2 自分の考えを押しつける
- 3 本をでっち上げる
- 4 自分自身について語る
- 結び
- 訳者あとがき
- 文庫版訳者あとがき
要旨_「読んでいない本について堂々と語る」をめぐって
主張
本書は、読書という行為に関する従来の通念に根本的な挑戦を投げかけるものである。中心的な主張は、「本を読む」ことと「読んでいない」ことの二項対立は誤りであり、「読んでいない」状態にも多様な段階が存在するという点にある。著者は、本を読んでいなくても、それについて有意義かつ創造的に語ることは可能であり、場合によってはむしろ望ましいと論じる。
この議論を支えるため、著者はいくつかの重要な概念を導入する。個々の本の内容よりも、文化全体におけるその位置づけが重要であるとする「共有図書館」の概念。読者の個人的な経験や無意識が形成する主観的なテクスト空間である「内なる書物」と「内なる図書館」。そして、議論の対象となる本が、客観的なテクストそのものではなく、記憶や幻想によって再構成された「遮蔽幕スクリーンとしての書物」であるという考え方である。
本書は、これらの理論的枠組みに基づき、未読の状態を4つの段階(①ぜんぜん読んでいない、②ざっと読んだ、③人から聞いた、④読んだが忘れた)に分類し、具体的な文学作品を例に挙げて分析する。さらに、社交の場、教師や作家の前など、読んでいない本について語らざるを得ない様々な状況を考察し、それに対処するための実践的な心構えを提示する。最終的に、本書は読者を「読書義務」という罪悪感から解放し、書物との関わりを、受動的な情報吸収ではなく、自己表現と創造の機会として捉え直すことを促す。その究極の目標は、読者を単なる消費者から、自らの物語を紡ぐ創造者へと変えることにある。
中核となる主題:「読むこと」と「読んでいないこと」の再定義
本書の根底には、読書を取り巻く社会規範への批判と、それに代わる新たな書物との関係性の提案がある。
読書という幻想と社会的規範
著者は、現代文化が読書に対して暗黙のうちに課している3つの規範を指摘する。
- 読書義務: 特定の(神聖化された)本は読んでいなければならないという強迫観念。
- 通読義務: 本は最初から最後まで通読すべきであり、飛ばし読みは不完全な行為であるという規範。
- 既読義務: ある本について語るためには、その本を事前に読んでいなければならないという前提。
これらの規範は、読書に関する偽善的な態度や罪悪感を生み出す原因となっている。著者は、実際には「読んだ」と「読んでいない」の境界は曖昧であり、読書とは本の内容を完全に吸収する行為ではなく、むしろ忘却と再構成のプロセスであると主張する。この観点から、読んでいない本について語ることは、知的誠実さに反する行為ではなく、書物との関わりにおける本質的な側面であると位置づけられる。
著者による独自の表記法
著者は、読書の曖昧さを明確にするため、本書で言及するすべての本に対して、自身の関与度合いと評価を示す独自の略号システムを導入している。これは、「読んだ」という一様な概念に抵抗し、書物との関係が断片的で主観的なものであることを示すための試みである。
略号の種類 | 記号 | 説明 |
関与度 | 〈未〉 | ぜんぜん読んだことのない本 |
〈流〉 | ざっと読んだ(流し読みをした)ことがある本 | |
〈聞〉 | 人から聞いたことがある本 | |
〈忘〉 | 読んだことはあるが忘れてしまった本 | |
評価 | ◎ | とても良いと思った |
○ | 良いと思った | |
× | ダメだと思った | |
×× | ぜんぜんダメだと思った |
主要概念の導入
本書の議論は、書物と読者をめぐるいくつかの独創的な概念によって支えられている。
- 共有図書館 (Shared Library)
- ある文化における書物全体のことであり、個々の書物が他の書物との関係性の中で占める位置の総体。
- 真の教養とは、個々の本の内容を暗記することではなく、この「共有図書館」の全体像を把握し、ある本がどの位置にあるかを理解する能力である。
- この観点では、特定の本を読んでいなくても、その本を他の本との関係で位置づけることができれば、十分に議論に参加できる。
- 内なる図書館 (Inner Library) / 内なる書物 (Inner Book)
- 各個人が内部に持つ、その人の人格や世界観を形成する書物の集合体。これには、実際に読んだ本の断片だけでなく、忘れられた本や想像上の本も含まれる。
- 新しい本を読むとき、われわれはこの「内なる書物」をフィルターとしてテクストを解釈する。そのため、同じ本を読んでも、読者によって受け取り方は全く異なる。
- 遮蔽幕スクリーンとしての書物 (Book as a Screen-Memory)
- フロイトの「遮蔽想起(隠蔽記憶)」の概念を応用したもの。われわれが記憶し、語る書物は、客観的な「現実の」書物ではなく、われわれの無意識的な欲望や不安によって再編成・歪曲されたものである。
- その機能は、他の書物や記憶を隠蔽することにある。したがって、書物についての言説は、常にこの主観的に構築された代替物を対象としている。
- ヴァーチャル図書館 (Virtual Library)
- 人々が書物について語り合う、社会的・言説的な空間。この空間は、イメージ、権力関係、暗黙のルール(ゲーム)によって支配されている。
- この空間では、実際に本を読んだかどうかよりも、いかにそのゲームのルールを理解し、振る舞うかが重要になる。真実を語ることが、かえってこの空間の秩序を乱し、制裁の対象となることさえある。
未読の諸段階:エンゲージメントのスペクトラム
著者は、「読んでいない」という状態を4つの主要なカテゴリーに分類し、それぞれを文学作品の例を用いて解説する。
- Ⅰ‐1 ぜんぜん読んだことのない本
- 事例: ムージル『特性のない男』の図書館司書。彼は、管理する本を一冊も読まないことで、個々の内容に囚われず「全体の見晴し」を維持する。
- 要点: 真の教養とは、個々の書物の内容を知ることではなく、書物全体の体系(共有図書館)の中で、各書物がどのような位置を占めるかを把握することである。この能力があれば、たとえ内容を知らなくても、その本について語ることが可能になる。
- Ⅰ‐2 ざっと読んだ(流し読みをした)ことがある本
- 事例: ポール・ヴァレリー。彼はプルーストの作品をほとんど読んでいないことを公言しつつ、的確な批評を展開した。
- 要点: 流し読みは、ディテールに迷い込むことなく、作品の本質を捉える効果的な方法である。ヴァレリーは、作品の価値は個々の断片にあり、どこから読んでもよいと論じることで、自らの「読まないこと」を正当化した。通読は必ずしも深い理解の条件ではない。
- Ⅰ‐3 人から聞いたことがある本
- 事例: ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』。主人公ウィリアムは、殺人の原因となったアリストテレスの失われた書物を、直接読むことなく、他の修道士たちの反応や残されたメモからその内容を正確に再構成する。
- 要点: 書物は孤立して存在するのではなく、それが引き起こす言説の総体によっても存在する。他人の批評や会話を聞くことで、本を直接読まずとも、その内容について深い洞察を得ることができる。われわれが語る本は、常にこうした間接的な情報によって形成された「遮蔽幕スクリーンとしての書物」である。
- Ⅰ‐4 読んだことはあるが忘れてしまった本
- 事例: モンテーニュ『エセー』。彼は極端な物忘れに悩み、読んだ本の内容だけでなく、読んだこと自体を忘れてしまうと告白する。
- 要点: 読書は、知識の獲得であると同時に、不可避的な忘却(脱‐読書)のプロセスである。時間が経てば、どんなに熟読した本も断片的な記憶となり、機能的には「読んでいない」状態に近づく。このことは、「読んだ」という状態の不確かさを浮き彫りにする。
実践的応用:コメントのための戦略
第三部では、読んでいない本について語るための具体的な4つの心構えが、文学作品の分析を通じて提示される。
- Ⅲ‐1 気後れしない
- 事例: デイヴィッド・ロッジ『交換教授』の「屈辱」というゲーム。参加者は、自分が読んでいない有名作品を告白し、他人が読んでいるほど高得点を得る。
- 要点: 読書に関する完全無欠というイメージは幻想である。教養とは空白や欠落を含むものであり、それを認めることから始めるべきである。読んでいないことを告白する罪悪感や、無知と思われることへの恐怖心から解放されることが、堂々と語るための第一歩である。
- Ⅲ‐2 自分の考えを押しつける
- 事例: バルザック『幻滅』。パリのジャーナリズム界では、書評は作品内容とは無関係に、著者の社会的立場や批評家の都合によって書かれる。同じ作品が、状況次第で絶賛も酷評もされうる。
- 要点: 書物は固定された対象ではなく、それを取り巻く言説や権力関係によって絶えず意味が変化する流動的な対象である。この可変性を利用すれば、他人の評価に惑わされず、自身の観点を積極的に押しつけることが可能になる。
- Ⅲ‐3 本をでっち上げる
- 事例: 夏目漱石『吾輩は猫である』の美学者・迷亭。彼は読んだことのない小説について、ヒロインが死ぬ場面が素晴らしいと嘘をつき、相手も同調したことから、相手も読んでいないことを見抜く。
- 要点: 書物の内容は客観的に確定できるものではなく、常に解釈の余地がある。したがって、会話の文脈や聞き手の反応に応じて、その場に最も適した「幻影としての書物」を創造的に「でっち上げる」ことが許される。これは、単なる嘘ではなく、コミュニケーションを円滑にするための創造的行為である。
- Ⅲ‐4 自分自身について語る
- 事例: オスカー・ワイルドの批評理論。「批評しないといけない本は読まないことにしている。読んだら影響を受けてしまうからだ」という彼の言葉に象徴される。
- 要点: 批評の究極の目的は、作品を分析することではなく、作品を口実として自分自身について語ること(自伝)である。書物に深く没入しすぎると、かえって自己の独創性が失われる。読んでいない本について語ることは、作品という他者の影響から距離をとり、自分自身の「内なる書物」を探求し、表現するための絶好の機会となる。
結論:読者から創造者へ
本書の最終的な結論は、読んでいない本について語る行為を、単なる窮地を脱するためのテクニックとしてではなく、積極的な創造活動として捉え直すことである。
教育への示唆: 学校教育は、書物を脱神聖化し、学生たちが書物を再創造する権利を自覚させるべきである。自分の知らないことについて巧みに語る能力は、書物の世界を超えて、自己を創造するための力となる。
心理的な方向転換: 書物を神聖視する禁忌から自らを解放し、テクストが読者との対話の中で絶えず変化する対象であることを受け入れる必要がある。
創造としての言説: 読んでいない本について語ることは、作品の潜在的な可能性に耳を傾け、コンテクストを分析し、自己の内面と結びつけながら新たな物語を紡ぐ、まぎれもない創造活動である。
創造のための非‐読書: あらゆる創造は、他者の作品から一定の距離をとることを要求する。読書に没頭することは、時に自己の創造性を阻害する危険を孕む。その意味で、読んでいない本について語ることは、自らが創造者になるための第一歩となりうる。