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序論

内部統制制度は子会社には重荷のことが多い

上場企業と連結計算書類を作成している子会社(の一部)は、親会社が、金融商品取引法(金商法)の内部統制報告書を作成し、監査法人の監査を受けて届け出て、公開するのに対応し、その内部統制制度の整備・運用について、親会社(の主として内部監査室)から評価され、監査法人の監査を受ける。

親会社にとっても負担の重いといわれる金商法の「内部統制制度」について、子会社としてその整備・運用をすることは、親会社と一体となってそのような体制を整備してきた場合は格別、例えば、M&Aによってグループ入りした場合を考えれば分かるように、なかなか大変である。「内部統制報告書」は親会社が作成・報告するものであるから、子会社にとっては、迷惑だというような声さえ、聞こえてくることがあるのである。

弁護士から見た金商法の内部統制制度

会社法では、子会社の統治について、親会社が子会社の株主権を行使すること以上のことはあまり考えられてこなかったが(戦後の会社法は、戦前の財閥の弊害を踏まえた独禁法による持株会社の禁止下に進展してきたこともあるだろう。)、大和銀行第一審判決の衝撃から、会社法上設けられた内部統制システムは、弁護士としての備範囲だとしても、金商法によって企業情報の開示として上場企業に課される内部統制制度については、会計畑のマターとしてあまり深入りすることはなかった。ただ「財務報告に係る内部統制の評価及び監査の基準並びに財務報告に係る内部統制の評価及び監査に関する実施基準の改訂について(意見書)」をはじめ、会計畑の人の議論は、企業集団(グループ)において、子会社サイドに「内部統制制度」についてどのような法的根拠に基づいてどのような義務があるのかについて必ずしも十分な検討がなされていないようにないように伺われる。金商法上の内部統制報告制度の解説書を見ても、直接この点に言及したものはないようである。
会社不祥事の多くは子会社に生じた(利用した)ものといわれ子会社抜きの内部統制報告制度は実効性がないこと(特に持株会社においては、子会社が事業の主体であること)等の状況に於いて子会社の内部統制の必要性が優先され、小規模の子会社にとって重い負担となる金商法上の内部統制報告制度の整備・運用をすることについて、十分説得的な議論がなされてこなかったという経緯もあるように思われる。

子会社から見た内部統制制度

上場して投資家から資金を集め、金融機関からの借入れ等をする親会社に対して、「内部統制」に関して様々な法的規制や義務が課せられることは容易に理解できるが、小規模な子会社からすると、なぜ親会社と同等の面倒な「内部統制制度」を、整備・運用し、評価手続を受忍しなければならないのか、法的根拠は何か等について、疑問が生じる余地があると思われる。そこで、「内部統制制度」について、会社法、金商法等の位置づけを整理し、企業集団の子会社サイドにおいて「内部統制制度」を整備・運用する必要性、及びその根拠について、企業集団各社の共通の理解に資するために、「企業集団における内部統制制度」をまとめることにした。
た。今後の「内部統制制度」の円滑な整備・運用についての参考とされたい。


   

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ヘーゲルは分からない

ヘーゲルの法哲学、歴史哲学、あるいは論理学等は、読んでいて何を論じているのかが全く分からないわけではない。しかし、「精神現象学」、それも前半部分はお手上げだ。読んでいて、論じている対象が分からない、内容も分からない、言葉遣いが不快だ、等々がごく普通の反応だと思う。
今後、こういう本を手に取ることもないだろうから、もののついでに少しでも理解しようとKindle本で購入していた「精神現象学上下:熊野純彦訳」 、「超解読!はじめてのヘーゲル『精神現象学』:竹田青嗣、西研(講談社新書)」 等々を読み始めてみたが、上記のとおりの結果である。
「精神現象学」は、ヘーゲル37歳のときの発表(1807年)で、いわば「若書き」だが、なぜかやたらと翻訳されている。邪推であるが、先人の翻訳を読んでも分からないので、自分で翻訳すれば分かるだろうと考えた哲「学者」が何人もいたのだろうか。熊野さんは他にやることがいくらでもあると思うが、廣松さんのお弟子筋だろうからその「遺言」で翻訳したのだろうか(ただカント批判三部作も翻訳しているようなので、哲学の本道を歩んだのだろうか。)。熊野さんの翻訳を読んでも分からない。
「超解読!はじめてのヘーゲル『精神現象学』」は、内容を読み込みそれなりに理解しているであろうふたりが、簡潔に要約していると思われるが、それでも何が書いてあるか分からない。
思うに、「精神現象学」は、ヘーゲルがどのような地域、社会制度、組織の中で生き、どのような既存の知的言語空間で、どのような材料に基づき、どのような対象について、何を目的に書いたのかが、お手上げなのである。
ただ、前半は、意識、自己意識、理性という項目だから、どうも知覚・認知についての分析が、一方でカントをにらみ、一方で世界は神の一部だという前提の元に、ヘーゲルが知っているその当時の知的カタログを披露しつつ書かれたもののように思える。でも、「種の起源」の出版は1859年、ヴントやウィリアム・ジェームズにより心理学が成立したのは1870年代、いずれにせよ「意識」について様々な経験的な事実、現象に向き合って論じたものではなく、圧倒的な材料不足のなかで、ごく少数の哲学者の言説に向き合い、自己の観念で整合的に操作・表現したと思われる。ほぼ時代人のマルクスに対象・方法が面白く、後代のメルロ・ポンティーにも小説のように面白かったのだろうが、私が「精神現象学」を正確に理解したとして、それが私に何をもたらすだろうか。

「わかる」とはどういうことか-認知科学への転進

「精神現象学」が「意識の経験の学」だとすると、現代の「精神現象学」は、「認知科学」だろう。「認知科学」は、一方で、脳科学を、一方でコンピュータ科学を見据えて、AIで何が可能か、何が不可能かを解き明かそうとしている。
ただ「認知科学」の議論は、いささかコンピュータ科学におされて錯綜しているように見えるので、その前に、脳神経学者で、失語症を扱う臨床の脳医学者(あるいは引退されたか)の山鳥重さんの「「わかる」とはどういうことか ―認識の脳科学 (ちくま新書)」 を読み込むのがよい。
本書を読んでびっくりしたが、まさに現代の「意識の経験の学」である。著者は先人の医学、神経学分野の業績を踏まえつつ、自分の経験を元に、自分の頭で考え、心の全体像を明らかにしようとしている。著者には、この他にも、少しずつ焦点の当て方が違う「「気づく」とはどういうことか ─こころと神経の科学 (ちくま新書)」、 「言葉と脳と心  失語症とは何か (講談社現代新書)」 、「心は何でできているのか 脳科学から心の哲学へ (角川選書)」 、「ヒトはなぜことばを使えるか 脳と心のふしぎ (講談社現代新書」 等の入手の容易なKindle本があり、これらを読み比べるともっと興味深い。
山鳥さんの所論をごく簡単にまとめれば、脳と心は違うレベルの現象なので、因果関係はない。心には形のない「感情」がある、y形のある「知覚」がある、内外の情報が「心像」に構成される、記憶された「心像」がある、これを照らし合わせて、区別して、同定する。「知覚心像」に記号としての言語がある。外からの「知覚」「言語」等々で構成される状況が、記憶された「知覚」「言語」と照らし合わされることで「わかる」。「わかる」には、『全体像が「わかる」、整理すると「わかる」、筋が通ると「わかる」、空間関係が「わかる」、仕組みが「わかる」、規則に合えば「わかる」』等、いろいろな「分かる」がある。「わかった」と思うのも、『「直感的に「わかる」」、「まとまることで「わかる」」、「ルールを発見することで「わかる」」、「置き換えることで「わかる」』等といろいろある。
これらの心は、「情」、「知」、「意」とまとめることができる。
著者がもっとも力を入れ、また哲学者、言語学者ではカバーできない、脳の障害がもたらす言語使用の変容を踏まえた「言語」論であり、私も言語が共有化され、意味を持つ仕組みに興味があるので、この部分は重要だ。
上記のまとめはまとめとも言えない乱暴なものだが、非常に「分かりやすく」かつ重要なので、今後も言語論も含めて、「まとめ」、考察を充実させていきたい。

イラストで学ぶ 認知科学-「認知科学」の入口


その上で、例えば「イラストで学ぶ 認知科学:北原義典」の項目を見ると、 感覚、知覚・認知、記憶、注意、知識、考えること(問題解決、意思決定、推論)、言語等々、まさにヘーゲルの「精神現象学」が乏しい手掛かりで追及しようとした(だろう)こと、山鳥さんが脳医学を踏まえて追究しようとしたことが網羅されている。この本は、イラストといっても、心的現象と脳の部位との関係図や、論じられている問題について整理されたカラー図表等が掲載されていてとてもわかりやすい。ただ、「意識の経験」を体系的に論じようとしたものではないが、山鳥さんの所論と重ね合わせて読み進めると、面白し、AI論への入口にもなる。

詳細目次

「「わかる」とはどういうことか」と、「「イラストで学ぶ 認知科学」の詳細目次を掲載しておく。

本の森,法とルール

方法としての哲学

実定法学から「法とルール」を眺める場合、「哲学」は役に立たないと思われていることは間違いないだろう。哲学が自然科学を含む諸学を論じていた時代には、法則とか、道徳、正義とかも含意する「法」に関する哲学は大きな地位を占めていたが、現代では「法哲学」は余り相手にされない。
しかし、「法とルールの基礎理論」を考察しようとする場合、その出発点は、人の行為、社会、ルール等々、実定法学では、せいぜい前提となる「既成概念」として扱われるだけの多くの「概念」の身分、機能等の根拠を探求せざるを得ないから、方法としての哲学を視野に入れ考察することは不可欠である。

法と社会…万人が万人を敵とする闘争状態

問題のひとつは、ホッブズ、ルソー、ヘーゲル等々が切り拓いた社会契約等の社会を規律する法という問題領域であり、これが重要なことはいうまでもない。
「社会契約」はフィクションだといわれるが、それは当然で、問題はかかる「原理」に基づく「人工物」がどこまで実際に機能するのかということである。特にホッブズが捉えた「万人が万人を敵とする闘争状態から抜け出せない」ことを中心とする国家論、自然法論は、今、ネット上の「言説」の氾濫がついにはアメリカの議事堂占拠に至る「戦争」の時代には、極めてリアリティ-を持っている。実際、ホッブズが生きたイギリスでは、宗教的、党派的な対立から悲惨な殺し合いが日常茶飯事であったことを見逃すわけにはいかない。しかもホッブスは、このような状態は、能力的に大した違いのない平等な人間が、敵愾心に基づき利益を、猜疑心に基づき安全を、自負心に基づき名声を、求めるから起こるのだとする(リバイアサン第1部12章)。非常に優れた分析だと思う。

存在、認識、実践(言語)

現代の哲学が探求すべき課題は、存在論、認識論、実践論(言語論)といわれるが、「法とルール」については、行為、言語、ルール、社会、価値等々が問題になるから、現代の最前線の哲学も必要であると一応はいえる。
ただ気がかりもある。私たちの問題は、現代の複雑な課題に対応して機能するこれからの時代の「法とルール」 を定立・運用することだとすれば、これらの哲学が対象としている問題やそこで検討される方法が役に立つかである。多分、カントとフッサール、それと併行・交錯して進行してきた経験論、言語哲学が方法論となろうが、そこに足を踏み入れるとそこで侃々諤々と論じられる固有の自足的な問題に足を取られ、そこから出て来られないような気がするのである。

哲学の出発点は、主観-客観図式の隘路といわれ、どうして主観が客観を取り込めるかが問題とされるが、哲学が想定してきた主観-客観とは異なり、現代的に捉え返した主観とは、要は「進化してきた動物としてのヒトの認知」であり(これらについては、放送大学教材の「比較認知学」、「知覚・認知心理学」を参照されたい。)、客観とは、究極的には「素粒子」で形成される、「実体」をとらえがたい物質、エネルギー、自然、情報、他人、社会、人工物等々であろう。ただしヒトの客観の認知については、「言語」が大きな役割を果たしている。

これらのスキームは、言語を除けば、従前の哲学とはずれており、今までの土俵で議論を続けても、隘路から抜け出すのは困難である。ただフッサールに始まる「協働」による「共同主観」は、不可欠であろう。

というわけで、「方法としての哲学」については、ここでは使用可能な「目録」を作成するという程度の付き合いとし、哲学という泥沼に足をすくわれないようにしよう。

法とルールの基礎理論Ⅱ・補論の目録

この目録の構成

全体を6項目に分け、最初の4項を「ホッブズ・ルソーと社会契約論」、「カントと経験論」、「ウィトゲンシュタインと言語ゲーム」、「ヘーゲル・フッサール」とし、「ヘーゲル・フッサール」に全体を概観するために竹田青嗣の「哲学とは何か」を入れ込んだ。更に5項目目に「哲学全体」を再構成しようとした「廣松渉」を、最後にその他の「法とルールをめぐる哲学」を掲載する。

それぞれの項目に現時点で取り上げた書名を掲載した。書名の前に、全体を概観する簡単なまえがきを置くが、その作業は公開後にしよう。
そして各項目の詳説、詳細目次は、それぞれの補論の記事に掲載する。ただし哲学に労力を取られるのは本末転倒なので、あくまで参照に止めたい。

各補論と掲載書

法とルールの基礎理論Ⅱ・補論① ホッブズ・ルソーと社会契約論

  • リバイアサン1、2(光文社古典新訳文庫)
  • 法の原理(ちくま学芸文庫)
  • ビヒモス(岩波文庫)
  • 物語イギリスの歴史 上下
  • 社会契約論/ジュネーヴ草稿 (光文社古典新訳文庫):ルソー
  • 増補新版 法とは何か 法思想史入門 :長谷部恭男
  • 社会契約論 ──ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズ:重田園江
  • 近代政治哲学-自然・主権・行政:國分功一郎
  • デカルト、ホッブズ、スピノザ 哲学する17世紀:上野修
  • 法の精神:モンテスキュー
  • 統治二論:ロック

法とルールの基礎理論Ⅱ・補論② カントと経験論

  • 現代語訳 純粋理性批判 完全版(Kindle本)
  • NHK 100分 de 名著 カント『純粋理性批判』:西 研
  • カント入門:石川文康
  • プロレゴーメナ 人倫の形而上学の基礎づけ (中公クラシックス)
  • 永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編 (光文社古典新訳文庫)
  • 経験論から言語哲学へ (放送大学教材):勢力 尚雅、 古田 徹也
  • 功利主義入門 ──はじめての倫理学:児玉聡

法とルールの基礎理論Ⅱ・補論③ ウィトゲンシュタインと言語ゲーム(Sprachspiel)

  • 哲学探究:ウィトゲンシュタイン(鬼界彰夫)
  • ウィトゲンシュタイン入門:永井均
  • 経験論から言語哲学へ (放送大学教材):勢力 尚雅)/ 古田 徹也
  • はじめての言語ゲーム:橋爪大三郎
  • 言語ゲームが世界を創る 人類学と科学:中川敏
  • ヒトの言葉 機械の言葉 「人工知能と話す」以前の言語学:川添 愛

法とルールの基礎理論Ⅱ・補論④ ヘーゲル・フッサールと竹田青嗣

  • (ヘーゲル)
    • ヘーゲル・セレクション
    • エンチュクロペディー ワイド版世界の大思想 第3期〈3〉ヘーゲル
    • 精神現象学 上下 (ちくま学芸文庫)
    • 法の哲学ⅠⅡ(中公クラシックス)
    • 新しいヘーゲル (講談社現代新書):長谷川宏
    • 超解読!はじめてのヘーゲル『法の哲学』:竹田 青嗣、西研
    • 超解読!はじめてのヘーゲル『精神現象学』:竹田 青嗣、西研
    • 人間の未来 ヘーゲル哲学と現代資本主義 (ちくま新書) :竹田青嗣
  • (フッサール)
    • フッサール(人と思想):加藤精司
    • フッサール・セレクション
    • 現象学の理念:まんが学術文庫
    • 現象学という思考 <自明なもの>の知へ:田口茂
    • 医療ケアを問いなおす ──患者をトータルにみることの現象学:榊原達也
  • 哲学とは何か :竹田 青嗣


法とルールの基礎理論Ⅱ・補論⑤ 廣松渉

  • 廣松渉哲学論集 (平凡社ライブラリー678):廣松 渉 and 熊野 純彦
  • 新哲学入門
  • 哲学入門一歩前 モノからコトへ (講談社現代新書) :廣松渉
  • もの・こと・ことば(ちくま学芸文庫):廣松渉
  • 役割理論の再構築のために:廣松 渉
  • 権力 社会的威力・イデオロギー・人間生態系:山本健一
  • 弁証法の論理―弁証法における体系構成法 (1980年):広松 渉
  • 身心問題:廣松渉 
  • 世界の共同主観的存在構造:廣松渉 

法とルールの基礎理論Ⅱ・補論⑥ 法とルールをめぐる哲学

  • 法の概念(ちくま学芸文庫):H.L.A.ハート
  • 二十世紀の法思想:中山竜一
  • よくわかる法哲学・法思想
  • 人間にとって法とは何か (ちくま新書) :橋爪 大三郎
  • 仏教の言説戦略:橋爪 大三郎
  • 日常世界を哲学する~存在論からのアプローチ~ (光文社新書):倉田 剛
  • ワードマップ 現代形而上学 分析哲学が問う、人・因果・存在の謎
  • 科学を語るとはどういうことか 科学者、哲学者にモノ申す (河出ブックス): 須藤靖 and 伊勢田哲治
  • 規範とゲーム 社会の哲学入門 :中山 康雄
  • システムと自己観察 フィクションとしての<法>:村上淳一
  • 行為の代数学 スペンサー・ブラウンから社会システム論へ:大澤真幸
  • 〈現実〉とは何か ──数学・哲学から始まる世界像の転換:西郷甲矢人、 田口茂
  • 法と経済学の社会規範論:飯田高
  • 公共哲学 (放送大学教材):山岡 龍一/ 齋藤 純一