「分業に依存しない生活は可能か」の作成に向けて

明日、ゼロから生活を始める

世界の「持続可能性」が途絶えたとき、つまり世界が無に帰したわけではないが世界のシステムのほとんどが破綻して、これまでどおりいかなくなったとき、私たちはどうしたらいいのだろうか。要は、分業に依存できなくなった場合、「明日、ゼロから生活を始める」ことができるだろうか。

とはいえ、明日の衣食住についていきなりゼロから確保できるはずもなく、当面の生命、生活を支えることのできるモノはまだ残っているが、それがなくなったとき、どのように個(それでは狭すぎるので小集団(家族、コミュニティーの方が適切だろう)が自立できるのか、できないのか、そこへの道筋を試行錯誤してみようというのがここでの「思考実験」である。問題は、他者の財・サービスの提供を前提としない、自立するための「知識」とその実践の獲得である。

私たちの知識

さて私たちは、他者の財・サービスの提供を前提とせず、何が可能だろうか。言い換えると、私たちは何を知っていて、何ができるのだろうか。これは哲学的、思想的な問いかけではなく、現実的な問いかけである。

トースターはできますか(「ゼロからトースターを作ってみた結果」(著者:トマス・スウェイツ))、鉛筆は、コメは、ナスは、塩は、衣服は、木材の伐採と加工はできますか?「いや、ちゃんとした文献があればこれは可能だ」という人はいるだろうが、世界の「持続可能性」が途絶えたときに「文献」が都合よく利用できるのだろうか、「文献」で実践できるのだろうか。

そこで事前に「明日、ゼロから生活を始める」ための「知識」をしっかり確認しておこうという試みの本がある。

「この世界が消えたあとの科学文明のつくりかた」を読む

「この世界が消えたあとの科学文明のつくりかた」(著者:著者ルイス・ダートネル)(原書は、「The Knowledge: How to Rebuild our World from Scratch」)は、これまでにも紹介したことがある。

内容は、文明の崩壊時に残された材料を利用する猶予期間、この時期を経て、農業/食糧と衣服/物質/材料/医薬品/人びとに動力を──パワー・トゥ・ザ・ピープル /輸送機関/コミュニケーション/応用化学/時間と場所をどうやって活用できるのかという「知識」の集約と実践論である。

たとえば、農業といったって、種、土壌、道具等々、あなたは何も知らないのではないの?とまさにそのとおりである。動力、工業、通信等々、私にはすべて「ブラックボックス」である。そういう人は当然生き残れない。生き残るために頭に叩き込む必要があるし、そうでなくても、私たちが生きている現実の自然、物質を知るためにも、必読である。詳細目次は後掲する。

なお事程左様に「分業」は重要であることを述べた、マット・リドレーの「繁栄 明日を切り拓くための人類10万年史 」、「進化は万能である」を合わせて紹介しておこう・

でも日本人である私には少し違和感が…「日本列島回復論」を読む

「この世界が消えたあとの科学文明のつくりかた」を読んでいると、ここでの自然や文明のあり方、あるいは様々な道具が、どうも違うなあという思いがしてくる。

それはそうだ、この本は、イングランドの自然と文明を前提としているわけで、日本とは自然も文明も異なる。

そういう中で、持続可能な日本を、「山水郷」という観点から捉えた「日本列島回復論: この国で生き続けるために」(著者:井上岳一)の日本の自然と文化の捉え方はとても参考になる。

あるいはもう少し突っ込んで世界の気候と文化を考察した「世界が分かる地理学入門」、「気候文明史」、「30の都市からよむ世界史」等は、地球温暖化論の前提としても役立つので、ここで目を通しておくのがよいだろう。

「「豊かさ」の誕生」を読む

さて、個の自立と分業のもたらす効能への考察はここまででいいとして、「分業」があれば当然に「文明」は繁栄するのか、何があれば経済発展があり得るのか、「持続可能性」のためには経済発展は望めないのかという、ということを考えてみるのもよい。

それには、「「豊かさ」の誕生 成長と発展の文明史 上・下」( 著者:ウィリアム・バーンスタイン」がよい。

この本は、1820年からの経済発展は、「私有財産権と法の支配」「科学的合理主義」「資本市場」「輸送・通信手段」があったからだと論じる前向きの本だ。

そして「ローマクラブ」の「成長の限界論」には」見向きもしないが、それはどうだろうか。