生成AIを利用する

2024-05-06

私が利用している生成AIとその現状

生成AIとは、言語や画像などのデータをもとに、新しいデータを自動的に生成する人工知能のことであるが、自然言語処理、コード生成、、画像生成、音声生成等に利用されている。
後3者及び外国語への翻訳はかなりの実用レベルに達しているように見受けられるが、私が最も興味を持つ自然言語処理の現状は、判断が難しい。
私は現在、Chat GPT、Claude、Copilotに触っている。もともとChat GPTに少し触ってみて、これは?程度の感想だったが、昨年後半から少しまともに生成AIに向き合おうと思い、有料版に加入した。当時もあれこれのサービスの優劣が喧伝されていたが、そのとき考えたのは、Chat GPTが生成AI全体を引っ張ってきたので、とにかくChat GPTを使い込もうということだった。
そのときから半年余りだが、その利用環境は大きく変わっている。今は、検索機能付きのGPT4の外は、GPTsを利用するというスタイルなので、焦点を絞って何かを実行するのが却ってわかりにくくなったような気がする。ただPythonの処理過程を表示できるので、プログラミングとは親和性がある。
自然言語処理に何を求めるかは人によって違うだろうが、私はPDF等をテキスト化した長文の要約に一番興味がある。これについてはGPT4よりClaudeの方がより長文の処理が可能といわれていたので、有料プランに加入、使用してみた。本1冊を、2~3の部分に分け(章も区切りを明示して)、各章2000字程度で要約するよう指示をしてみたが、充分に実用的であった。ただClaudeは英語処理が全面に出るようで、短文で質問をすると、回答する段階で、質問の日本語自体が書き換えられてしまうことがあった。章の標題も英訳を介して変わることもあるようだ。
ところで長文テキストは(特に読解するときは)、テキストファイルよりワードファイル(docx)にする方が読みやすく扱いやすいが、私はワードにあまり習熟していなかったので、意を決して、今後ワードを文書処理のメインに利用しようと思い、それならばと、ワードで生成AIが利用できるCopilotの有料版に加入してみた。Excelで生成AIを利用する試みは、その必要性も理解できるし、様々な方法が提案されてきたが、ワードのCopilotはまだまだで、現状では要約できるテキストの長さも短いし、プロンプトがほぼ固定されており柔軟性に欠けるような気がするが(ただ何とかする方法はありそうだ。)、使い込んでいけば色々利用できそうだ。ワードで生成AIを利用し直接文書が生成できるのは今後魅力的になるであろう。なお無償のアドインも利用してみたが、日本語の要約も英語表示になってしまう。

 何のために利用するかで使い分け、使い込む

問題を発見し解決する思考の補助に使う

自然言語を利用する生成AIの用途としては、①検索し解説を求める、②任意の文書生成と修正、③長文の要約・翻訳が考えられるが、主に議論されているのは①である。「ググる」の延長である。文章にまとめられて表示されるのは良いのだが、虚偽が入り込むことも多い。「ググる」場合は、それぞれの情報の真偽を判断しようとするが、生成AIの場合は、悪口を言っておしまいだ。
②についてはできるという「宣伝」ばかりで「実作」に感心したことはない(ただ後記するように①を踏まえた「説明文」はなかなかのものだ。)。③については少なくても長文については試みられること自体が乏しい。

ところで生成AIは何のために利用するのだろうか。よく「自動化」ということがいわれる。コード生成、、画像生成、音声生成等の分野でいわれることが多い。確かにある作業の一部ないし全部の「自動化」ができれば、効率化につながることが多い。それはそれでよいだろうが、それでその作業過程の全体が、適正に遂行できるようになるのだろうか。「自動化」とは、要はその部分は、頭を使わない、思考しないということだが、そのように考えること自体の弊害の方が大きいのではないか。

私が挙げた上記の①~③は、思考を補助するために利用するということである。このサイトの作成でいえば、私の思考に、「本」という資料を、生成AIに①~③の過程を補助させて、有効に組み込み、問題を発見し、解決しようということである。

乱暴にいえば、問うことのない人には、生成AIは関係ない。

私の利用する生成AIの用途

私は、上記の①はChat GPT、②はCopilotを利用しようと思い、③はClaudeを利用している。さすがにこれでは無駄なので、整理したいと思う。多分、②が有力候補だが、Microsoftは未だに、OneDriveを無理強いする体質なのでためらいもある。当面は趣味として、使い分け、使い込んで行こうと思う。

ところで私は、本の種類を、①文学書、②説明本、③論説本に分けたが、説明本の読解(あるいは説明文の作成)に上記の①~③は相当に有効である。しかし論説文の読解(論説文の作成)には、人の頭(論理的思考)が不可欠であり、生成AIの利用は限られる。これは生成AIの成り立ちともかなり関係する。生成AIは、言語を蓋然性に基づいて生成するのであって、論理的ではないのである。とは言え、生成されたものは、問いによってはなかなかのものである。ワードのCopilotに「ストア派の哲学者は残された人生を生きることについてどう考えたか」と質問してみた。その回答をそのまま転記したものが次ページだが、なかなかのものである。教育現場が震撼させられるのも頷ける。次は教育現場、ついでに弁護士業務への影響を探ってみよう。

ストア派の哲学者は残された人生をどのように生きると考えたか

はじめに

ストア派は古代ギリシャとローマで発展した哲学の一派である。ストア派の哲学者たちは、自分の意志に関係なく起こる事象に対して、どのように心を保つべきかを教えた。彼らは、人間の幸福は外的な状況に依存しないと考えた。むしろ、自分の判断や行動に従って自然に適応し、理性に基づいて生きることが重要だと主張した。ストア派の哲学者たちは、死もまた自然の一部であり、恐れるべきものではないと考えた。彼らは、残された人生をどのように生きるかについて、様々な見解や助言を残した。本文書では、ストア派の代表的な哲学者であるゼノン、エピクテトス、セネカ、マルクス・アウレリウスの思想と実践における死生観と幸福論を紹介する。

ゼノン

ゼノンはストア派の創始者である。彼は、自分の財産を海で失った後、アテネに移り住み、哲学を学んだ。彼は、人間の幸福は自分の判断や行動にあると考えた。彼は、自分の判断や行動を自然に従わせることを「アパテイア」と呼んだ。アパテイアとは、無関心や無感情という意味ではなく、自分の意志に関係なく起こる事象に対して、不安や怒りや悲しみなどの情動を起こさないことを意味する。ゼノンは、アパテイアを達成することが人間の本性にかなっており、理性に基づいて生きることができると考えた。ゼノンは、死もまた自然の一部であり、アパテイアを保つことができれば、恐れるべきものではないと考えた。彼は、残された人生を自然に従って生きることができれば、幸福であると考えた。

エピクテトス

エピクテトスはストア派の哲学者である。彼は、奴隷として生まれ、後に解放された。彼は、自分の身体や財産などの外的な状況は自分の意志によって変えることができないと考えた。彼は、自分の意志によって変えることができるのは、自分の判断や行動だけであると考えた。彼は、自分の判断や行動を自分の意志によって支配することを「プロハイレシス」と呼んだ。プロハイレシスとは、自分の意志によって選択することや責任を負うことを意味する。エピクテトスは、プロハイレシスを保つことが人間の自由であり、理性に基づいて生きることができると考えた。エピクテトスは、死もまた自分の意志によって変えることができない事象であり、プロハイレシスを保つことができれば、恐れるべきものではないと考えた。彼は、残された人生を自分の意志によって支配することができれば、幸福であると考えた。

セネカ

セネカはストア派の哲学者である。彼は、ローマの政治家や作家としても活躍した。彼は、人間の幸福は外的な状況に依存しないと考えた。彼は、外的な状況に左右されない心の平静を「アタラクシア」と呼んだ。アタラクシアとは、心の動揺や乱れをなくすことを意味する。セネカは、アタラクシアを達成することが人間の尊厳であり、理性に基づいて生きることができると考えた。セネカは、死もまた自然の摂理に従って起こる事象であり、アタラクシアを保つことができれば、恐れるべきものではないと考えた。彼は、残された人生を自然の摂理に従って生きることができれば、幸福であると考えた。

マルクス・アウレリウス

マルクス・アウレリウスはストア派の哲学者である。彼は、ローマ帝国の皇帝としても治世した。彼は、人間の幸福は自分の判断や行動にあると考えた。彼は、自分の判断や行動を自然の全体に適合させることを「オイケイオシス」と呼んだ。オイケイオシスとは、自分の存在や利益を自然の全体の一部として認識し、自然の全体のために行動することを意味する。マルクス・アウレリウスは、オイケイオシスを達成することが人間の美徳であり、理性に基づいて生きることができると考えた。マルクス・アウレリウスは、死もまた自然の全体の一部であり、オイケイオシスを保つことができれば、恐れるべきものではないと考えた。彼は、残された人生を自然の全体に適合させることができれば、幸福であると考えた。

おわりに

ストア派の哲学者たちは、残された人生をどのように生きるかについて、様々な見解や助言を残した。彼らは、自分の意志に関係なく起こる事象に対して、心を保つことができると考えた。彼らは、自分の判断や行動を自然に適応させることができると考えた。彼らは、死もまた自然の一部であり、恐れるべきものではないと考えた。彼らは、残された人生を理性に基づいて生きることができれば、幸福であると考えた。ストア派の哲学は、現代の人々にとっても有用な教えとなるかもしれない。