法とルールの基礎理論Ⅰ ルール論(暫定版)

2021-01-11

取り上げる基本書

  • ルールズ・オブ・プレイ ゲームデザインの基礎 :ケイティ・サレン, エリック・ジマーマン(Amazonにリンク
  • はじめての言語ゲーム:橋爪大三郎
  • ルールに従う 社会科学の規範理論序説:ジョセフ・ヒース

課題設定

法とルールの基礎理論(法、規範、ルールが何であり、どのように機能するのか等)を「法」の考察から始めると、厖大な「法の歴史と現状」に圧倒されて視野や発想が狭くなり、現代の問題に対応するような知見を得ることはできないだろう。
そこで、法、規範を含む一般的な「ルール」論から始めようと思うが、「ルール」論にアプローチする方法の定番があるわけではない。
思いつくのは、「啓蒙思想2.0 政治・経済・生活を正気に戻すために」の著者ジョセフ・ヒースの「ルールに従う 社会科学の規範理論序説」であるが、浩瀚すぎて最初の出発点としては不適当だろうし、私の問題意識と合っているかどうかも分からない。
そこでこれは後回しにすることにして、文字どおりのゲーム(遊戯ゲーム)についての「ルール」論と、ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」論から始めるのは、どうだろうか。
といっても、難解をもって知られるヴィトゲンシュタインから始めるのは簡単なことではないので、ゲーム(遊戯ゲーム)の「ルール」論から手を付けるのがよさそうだが、実はそのために選択した「ルールズ・オブ・プレイ ゲームデザインの基礎 :ケイティ・サレン, エリック・ジマーマン」の「ルール論」もなかなか手強い。最初は簡単に紹介し、今後、検討を重ねそこから役に立つツールを抜き出していこう。その前にゲームのルールについて触れておこう。

ゲームのルールについて

ゲームのルールがどのように扱われているのか、実際にゲームを作るというコンセプトで書かれた「組み立て×分解!ゲームデザイン ―ゲームが変わる「ルール」のパワー :渡辺訓章」 を見てみよう。
ごく簡単に引用すると「要素間で何が起こるかの関連性を示した法則のうち、プレイヤーの理解を伴うものを「ルール」とします。」、「何かを行うために必要な、一連の手段をまとめたものを「アルゴリズム」と呼びます。」、「アルゴリズムは、ゲームの根幹となる「ルール」を、コンピュータに理解させるために書き換えたものとも言えるでしょう。」、「アルゴリズムがゲームのルールを示すことはあっても、まったく同じというわけではありません。人間ならば本能や感覚で理解できそうな部分も、きっちり順序立てて記述する必要があるのです。」。
これが入口としていいかどうかは分からないが、「アルゴリズム」を、自然や社会の現実的な仕組みと捉えれば、ヒトの間の「ルール」との関係がある程度イメージできるだろう。

「ルールズ・オブ・プレイ」を読む

ゲームと現実社会のルール

本書の原書は2004年の刊行で、2010年以降に翻訳本が上下で、絶版後、2019年にKibdle本が4分冊で出ている。翻訳者側(山本貴光氏)の都合だろうが、4分冊というのは、扱いにくくて仕方がない。ただ原書刊行時は、デジタルゲームの普及は端緒に就いたばかりで論述の主眼はアナログゲームに置かれているが、それがかえって人間にとっての「ルール」論として価値を有することになった。

全体は、4ユニット(Kibdle本で4分冊)に分かれ、1.核となる概念、2.ルール、3.遊び、4.文化から構成され、各ユニットがそれぞれ10項目程度に分かれている(後記詳細目次参照)。本書が、ゲームデザインに様々な観点から焦点を当てて論述された本であることは間違いないが、遊戯ゲームのルールと、現実社会のルールとは関係ない(適用できない)のだろうか。極めて大雑把に言えば、ルールがあり、多くの場合登場主体(人・組織)がそれに従い、他の主体や人工物と協調、対峙して行動し、何らかの結果に至るというゲームの過程は、現実社会のシミュレーションたり得る。とりわけ、遊戯ゲームにおいてルール(やその他のゲームの要素)を変容させると結果がどのように変容するのかという検討は、ゲームデザインにおいて極めて重要であり、そのために厖大な時間、費用を投入して何度もシミュレートし、少しでもユーザーに受け入れられる遊戯ゲームをデザインしようとしていることを考えれば、恐らく「立法」過程における努力は、圧倒的に不足している(今までは気がつかれなかったろうが。)。
次項で、本書で検討されている様々な分析ツールを法や社会規範にも応用すべく(遊戯ゲーム固有の問題は置いて)検討しよう。

ツールの検討

本書全体の構成と参照されている本

全体は、上記のとおり、核となる概念、ルール、遊び、文化から構成されているが、「遊び」は、行動と、「文化」は、社会と読み変える(あるいは文化のまま)ことができるだろう。なお、所々の項目の最後に参照文献が簡単な内容を摘示して挙げられている。たくさんあるのだが、私が注目する5冊のうち、「遊びと人間:ロジェ カイヨワ」, 「ホモ・ルーデンス 文化のもつ遊びの要素についてのある定義づけの試み:ヨハン・ホイジンガ」が挙げられているのは当然だが、次の3冊は、本書のレベルを示している。

  • 複雑性とパラドックス なぜ世界は予測できないのか?:ジョン・L・キャスティ
  • 文法的人間   Information,entropy,language,and life : J.キャンベル
  • キリギリスの哲学 ゲームプレイと理想の人生:バーナード・スーツ

だから「なかなか手強い」のである。以下、本記事を公開する時点では重要な項目の名称だけ挙げ、おって使えるツールとして紹介しよう。とりわけ「ユニット 2」は、重要である。

「ユニット1 核となる概念」について

ここでは、全体の図式が提示されている。この部分の現実との対応関係の読み替えは適当でいいだろうが、重要な項目が多い。「3. 意味ある遊び」、「4. デザイン」、「5. システム」、「6. インタラクティヴィティ」、「9. 魔法円」は注目したい。

「意味ある遊び」

「 デザイン」

「5. システム」

「6. インタラクティヴィティ」

「9. 魔法円」

「ユニット2 ルール」について

このユニットの「11. ルールを定義する」と「13. ディジタルゲームのルール」 は参照すればいが、あとの項目はいずれも重要である。

「三つの水準のルール」

創発システムとしてのゲーム」

「不確かさのシステムとしてのゲーム」

情報理論システムとしてのゲーム」

情報システムとしてのゲーム」

サイバネティックシステムとしてのゲーム」

ゲーム理論システムとしてのゲーム」

対立システムとしてのゲーム」

「 ルールを破るということ」

「ユニット3 遊び」について

「経験の遊びとしてのゲーム」

「楽しみの遊びとしてのゲーム」

「意味の遊びとしてのゲーム」

「物語の遊びとしてのゲーム」

「シミュレーションの遊びとしてのゲーム」

「人づきあいの遊びとしてのゲーム」

「ユニット4 文化」について

「文化の表現法としてのゲーム」

「開かれた文化としてのゲーム」

「文化的な抵抗としてのゲーム」

「@文化的な環境としてのゲーム」

「言語ゲーム」から見る

位置づけ

次に、後期ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」を取り上げるが、哲学固有の文脈で、後期ヴィトゲンシュタインを検討するのはすぐには手に余るので、「言語ゲーム」とH.L.A.ハートの「1次ルールと2次ルール」を結び付けて理解している「はじめての言語ゲーム:橋爪大三郎」だけを取り上げてみよう(ヴィトゲンシュタインとハートの関係を指摘した本は多くはないが、「二十世紀の法思想」(著者:中山竜一)の第2章、3章に、ウィトゲンシュタインのハートへの影響が明記されている(法とルールの基礎理論)。)。

更にここから「哲学とは何か:竹田青嗣」や「規範とゲーム:中山康雄」に触発され、他の哲学的思考も視野に入れることができる。

前者は、「言語ゲーム」についての記述があることから目を通したものだが、その内容は率直にいって驚いた。哲学には、存在論、認識論、言語論の三大難問(三つの謎)があり、哲学者とは、基本的にこれらの問題を切り拓きつつ自分が対象とする問題(神、自然、国家、社会、人間等々)を検討するが、三大難問が、その検討に混乱、倒錯をもたらしてしまう。しかし、三大難問の基礎となる認識論はニーチェ(ユクスキュルの「生物から見た世界」につながる面を考えればよい。)とフッサールの現象学で解けており、それにつれて存在論や言語論、その他これらに付随する哲学上の謎はすべて解けるのだとする。当然、どこまで本当かという疑問はあるが、気持ちをハイにする本だ。

後者は、「法とルールの基礎理論」において、要旨「「はじめての言語ゲーム」をあげて、示唆的ではあるものの、精緻化されることはなかったとし、著者は、「社会的規範や(社会的)ゲームを基盤として人々の活動原理を明らかにすること」を目的として、規範体系、ゲーム体系を提示し、後者の中に、言語ゲーム、ゲーム理論を位置づけ、全体の構造を明らかにしようとしている。更に、生活、組織、法体系、経済活動等を、規範。ゲームの観点から分析しており、現時点での私の関心を十二分に満たしてくれる内容になっている。加えて、法体系では、法文の分類、法律の分類、法的推論、法実践(裁判)の分析にも及んでおり、このような関心を持つ哲学者がいたことにいささかびっくりしている。」としたが、ようやくこの本を、批判的に捉えることができる吐天にたどり着き筒あるといえるだろう。

「はじめての言語ゲーム」を読む

言語ゲームとは

ここでは、「はじめての言語ゲーム」から適宜引用しよう。

言語ゲームとは、規則(ルール)に従った、人びとの振る舞い(の一致)である。「ルール」を理解するのと「ルールを記述する」のは違う。なにかを理解したり、なにかができたりすることのほうが根本で、それを説明することのほうは、二次的(派生的)である。言葉はなぜ、意味をもつのか。  言葉はなぜ、世界のなかの事物を指し示すことができるのか。  それは、言葉が、言語ゲームのなかで、ルールによって事物と結びつけられているからである。人びとの感覚が一致しているから、言葉の用法が一致する、のではない。言葉の用法が一致しているから、人びとの感覚が一致しているという確信が生まれるのだ。(この確信は、確かめようがないから、錯覚のようである。しかし、間違っていることを確かめられるわけでもないから、錯覚とも言えない。)。

この世界には、意味や価値がそなわっている。だから、生きるに値するものになっている。  ではなぜ、意味や価値がそなわっているのか。それは、言語ゲームがそれを成り立たせているからだ。

法との関係

「人びとが法のルールに従うこと。これが法律の基本である。法のルールがテキストに書かれることは、それに比べれば二次的である。──これが、ハートの基本的な考え方だ」とし、それを言語ゲームのルール、論理学と対応しているとする。ただハートと関係づけることが重要ではないので、言語ゲームと人の行為についてをもう少しまとめてみよう。

「ルールに従う」を読む

書評の紹介

本書が翻訳された2013年当時に日経新聞に掲載された小関広洋さんの書評には、「人間社会がどのように機能しているかについては、良く分かっていない。本書は「ルール遵守(じゅんしゅ)」という人間の社会行動に焦点をあて、この問いに答えようとする。20世紀の社会科学とくに経済学は、期待効用理論の台頭によって、人間の道徳的側面が行動に与える役割を軽視してきた。しかし、実は道徳性こそが人間の合理性の根本を支えているのであり、かつ道徳の源泉は多くの哲学者が言うような形而上学的なものではない。「ルールに従う」という道徳的規範は、言語と同様に人間の「規範同調性」に支えられ、長い時間をかけて蓄積されてきた文化的人工物である。本書は人間社会のより大きな側面、すなわちテロや戦争など国際問題を考える上でも、大きな示唆に富んでいる。道徳的規範は文化依存的である故に、強い内集団バイアスを持つが、異なった集団間においても、人間はインタラクションを通じて規範のシステムを変容させることができるからである。」と紹介されている。

内容の概要

本書の概要は、翻訳者によって以下のように要約されている。このレベルまで、本書の言葉遣いと論理の運びを頭に入れれば、本書の解読に入れるだろう。なお、原書(Following the Rules : Practical Reasoning and Deontic Constraint)はkindle本でも入手できる 。

ざっと見ると、私の問題意識とかなり重なっているようだ。

「原理」を組み込んだ合理的行為の理論の構築(第1章一第3章)

 ホッブズ以来発展してきた主体の「合理的意思決定」のモデルは、「信念(belief)」と「欲求(desire)」という2つの状態を組み合わせることで特定の行為を導き出すという基本的構造を持っている.それは、確率論を組み込んでかなりの精緻化を見せてきたものの、今日の経済学において標準的とされている期待効用理論にも引き継がれている構造である.確率論を組み込んだ枠組みでは、「信念」は不確実性の状況において、どのような世界の状態がどのような確率で生じるのかということに対する予想を現わす用語である.また、「欲求」は現在の標準的な言葉で表現すれば、行為と世界の状態によって決定される「結果」の集合に対して主体が持つ選好順序のことを意味している.
 これまでの哲学的文献においてこのモデルは「実践的合理性の道具的把握」と呼ばれ、それは「帰結主義」と「欲求の非認知主義」という2つの哲学的立場を必然的に伴うものと思われてきた.帰結主義とは、主体が行為を選択する際に評価する行為の価値が、行為それ自体から生じるのではなく、行為が最終的にもたらす結果の価値から生じるという考えである.また、欲求の非認知主義とは、欲求は信念と異なって、合理的に改訂できるような対象ではないという見解である.しかし、ヒースはこの2つの前提を周到な議論で退ける.
 合理的意思決定モデルの上述した基本的構造は、個人的意思決定という「非社会的文脈」においては問題とならないが、社会的インタラクションを含む「社会的文脈」においては問題含みとなるとヒースは言う.現在標準的なサヴェッジの期待効用理論では、行為は世界の状態と組み合わさって結果を生み出す.そして、各結果に対して効用を持つ主体はもっとも期待効用の高い行為を選択することになる.これに対して社会的インタラクションのゲーム的状況においては、自分が選択する行為と組み合わされて結果をもたらすべき「状態」が外生的に与えられていないばかりか、相手プレーヤーが選択する行為そのものになっている.しかもこのことがお互いに生じているから、お互いに行為を決定することができない状態に陥ってしまうのである.
 ゲーム理論の研究プログラムは、ここで発生する「読み合い」の無限後退を停止させる均衡概念を開発することで、この問題を「解決」してきた.ゲームの均衡が実現している状態においては、各主体はお互いに相手の(均衡における)選択によって信念を形成し、それを所与として最適な結果をもたらす行為を選択しているので、実践的合理性の道具的把握の構造はそのまま保持されることになる.
 こうしてゲーム理論は実践的合理性の道具的把握を社会的インタラクションヘと拡張することに成功しているように見えるが、ヒースはこれに対して批判的である.彼はその理由をいくつかあげている.
 第1に、実験ゲーム理論が明らかにしてきたように、現実の人間はゲーム理論が予測している以上にコーディネーションや協力に成功する傾向を持っていることである.たとえば有名な「囚人のジレンマ」と呼ばれるゲームを匿名的な条件のもとで1回だけプレーするような状況に置かれたとしても、被験者たちはかなりの頻度で「協力」を選択することがよく知られている.これは、90年代以降に標準的経済学を揺るがし、専門家の間でもその前提条件に対する強い懐疑を促す動因となった知見である.ヒースはこのことを重視し、社会規範の理論へと目を向ける.
 社会規範に関する社会学的研究が明らかにしてきたことは、実践的合理性の道具的把握の立場に立つ人々が主張してきたように、社会秩序は各主体がサンクションの存在によって道具的に動機づけられる結果として成立しているだけではないということである.人間は誰であれ社会化のプロセスを経験する.1次的社会化と呼ばれるプロセスにおいて、人は社会規範を一定程度重視するという熟慮上の重みづけをすることを学習し、2次的社会化と呼ばれるプロセスにおいて、特定の文化的文脈において特定の行為を社会規範として学習することで、社会規範を内面化するのである.そこではサックションは人々が規範に対して十分な熟慮上の重みづけをしなかったこと(あるいは動機づけられた逸脱)に対して向けられるのであって、単純に特定の行為の違反に対して向けられるわけではない.ゲーム理論が現実の人間の社会的行為の説明に失敗してきたことは、このように社会秩序を支える行為の選択が道具的合理性だけによって保持されているわけではないことと深く関連しているのである.
 第2は、実践的合理性の理論において、帰結主義的立場を選択することに十分な哲学的理由が存在しないことである.ヒースは、行為と結果をどのように区別したらよいかという哲学的論争をレビューすることでこのことを議論しているが、その詳細は本文に任せよう.それよりも重要なことは、個人的・非社会的な意思決定の状況と社会的な意思決定の状況では、問題の難しさが根本的に異なることである.すでに述べたように、ゲーム理論は「均衡」という概念を用いることにより、非社会的文脈で用いられる「信念」と「欲求」の組み合わせによる行為の選択という基本構図を、そのまま社会的インタラクションの状況でも使用できると考えている.しかし、社会的インタラクションを含む状況では、人間がそれ以外の新たな認知資源を用いていると考える方向性もありうるだろう.それはルール遵守の行動において、われわれが日常的に行為そのものに対して価値を与えている仕方の中にも見られるものである.
 最終的にヒースは、ルール遵守の際に人々がそうしているように、人々が行為それ自体に対して価値をおくような合理的意思決定のモデルの構築を提案する.行為それ自体に対して評価を与えることをヒースは「原理(principle)」と呼ぶ.このようにして彼は,結果に結びついた状態としての「欲求」、状態に結びついた状態としての「信念」、行為に結びついた状態としての「原理」を並立させた実践的合理性の理論を提案するのである.具体的な定式化とその理由については、本文の(3.1)式および(3.5)式を巡る議論をご覧いただきたい.
 また、ヒースはこの定式化を具体的なゲーム理論的分析に応用してもいる.詳細は本文に譲るが、コーディネーション・ゲームの複数均衡を解決するために上記の理論を用いている部分もゲーム理論に興味を持つ読者にとって大変興味深い部分であろう

志向的状態の発生と選好の非認知主義に関する議論(第4章一第5章)

 上述したように、ホッブズの「実践的合理性の道具的把握」は2つの部分を持つ.第1の部分をなす「帰結主義」は、第1章から第3章までの議論で退けられた.ここからは第2の部分である「欲求に関する非認知主義」が取り上げられる.そのためにヒースは、信念、欲求(選好)、原理の本質を掘り下げ、それがどこから発生したのかという問題に取り組む.そうすることで第5章で「選好の非認知主義」を批判し、第7章「超越論的必然性」で「われわれは合理的である限り、規範的でなければならない」という主張を展開するための地ならしを行っている. 実践的合理性の基本的な構成要素である信念、欲求、原理はすべて、現代の哲学において「志向的状態」と呼ばれるものである.ここで「志向的」とか「志向性」という言葉は、それが何かに関するものであり、内容を持つということを意味する哲学用語である.志向性を持つ主要な存在物としては思考と言語があるが、19世紀までは思考が持っている志向性(心的志向性)に対して説明上の優先順位が与えられ、言語が持つ志向性(意味論的志向性)はそこから派生していると考えられてきた.この順序を逆転させ、意味論的志向性がより根本的(ないしは同程度に根本的)と考えるようになったのが20世紀に起こった「言語論的転回」である.思考が内容を持つ限り、それは言語表現を持つものである.すなわち、志向的状態とは命題的内容を持つ状態であるということができる. 信念や欲求が言語的構造を持っているということは、それが社会的イッタラクションに先立って与えられると考えることをもっともらしくないものにする.ホッブズは、人々が志向的状態を完全に備えた状態で社会的イッタラクションに入ることによって社会秩序を形成すると考えていた(「ホッブズ的説明戦略」).しかし、そもそも言語が社会的インタラクショッを通して学習されるものであることを認めるならば、言語によって表現された命題的内容を持つ信念や欲求の説明は社会的インタラクションに関する説明から導かれるべきである. 言語や志向的状態の発生を説明する哲学的理論は2つの段階に分けられる.第1段階は、志向的状態を前提とせずに、人々のおこない(conduct)にどのようにして規範性が生じるのかを説明することである.志向的状態を前提とした人間のおこないは「行為(action)」と呼ばれ、志向的状態を前提としない人間のおこないは「行動(behavior)」と呼ばれるので、この語を用いるならば、最初に「人間行動の理論」の枠祖みの中でどのようにして原初的な規範性が発生するのかを説明する必要がある.次に第2段階として、どのようにして言語や志向的状態が発生するのかを説明することになろう.ここでヒースは、近年ロバート・ブランダムによって展開されてきた説明戦略-言語哲学のプラグマティズム的転回-に沿って議論を展開する.まず、志向的状態を前提としないで、どのようにして規範性が立ち上がることが可能なのだろうか(ブランダムはこのような規範を「実践に内包された規範」と呼んでいる).行動に対して規範的評価を与える有力な候補はサンクションである.特定の行動パターンが肯定的にサンクションされたり、否定的にサンクションされたりすることで、行動が暗黙的な規範的評価に服することになり、共同体の実践において、サンクションされた行動に規則性が生じるとすれば、それを「原初的規範性」と呼んでよいであろう.ここで、サンクションをいかに適切にサンクションするのかという高階のサンクションの問題が発生するが、ヒースは2人の主体が互恵的にサンクションすると考えるだけで、この問題は回避されると主張する. 次に言語の発生の説明である.ここではゴッドロープ・フレーゲの「文脈原理」一文全体こそが言語的意味の第一義的な担い手であり、その文の意味への貢献によってそれを構成する語の意味が派生するという考えーが力を発揮する.文脈原理によれば.われわれが言語を用いて何かをするのは文によってである. ここでウィルフリッド・セラーズによって展開された言語ゲームのアイディアーそれは本書において「理由を与えたり求めたりするゲーム」とか「主張ゲーム」と呼ばれているーが用いられる.言語的交換においてわれわれが主張するとき、その主張は一定の「規範的地位」を持つコミットメントとしての「意味」を持つ.われわれはその主張をする権利を付与されていなければならないし、さらなる主張を行う権利を付与されるのである(チェス盤における駒のポジションと移動のルールと類推的である).チェスとこのゲームが異なるのは、このゲームのプレーヤーにはゲーム外の状況によって主張をする権利が与えられることもあるし(言語参人手番)、言語ゲームによってゲーム外の行動の資格が与えられることもある(言語退出手番).また、あるポジションがある人によって取られると、他の誰でもそれに対する権利を付与されることになる.われわれがこのような言語ゲームのルールを把握したときに、表現の意味が発生する.そして、部分文的要素の意味は、それが現われる文の推論的性質に対してなす貢献を通して決定される. こうして外的な社会的実践としての言語がひとたび成立すると、それは個々の言語使用者の認知能力を増幅する.われわれの脳をコンピュータとするならば、言語は「究極のアップグレード」である.言語はわれわれが自分の行為を計画する際に用いる道具を与えてくれるが、こうした能力によって、意思決定理論がモデル化しようとしてきたような「志向的計画システム」が成立する.期待効用の最大化は、言語使用者に独自な種類の能力なのである.信念と欲求が志向的状態であることをひとたび認めるならば、欲求が合理的熟慮のコントロールの範囲外にあるとする「欲求の非認知主義テーゼ」を保持することは困難となるはずだが、西洋哲学において、このテーゼは伝統的に当然視されてきた.ヒースは第5章「選好の非認知主義」において、非認知主義の1つの定式化としてヒューム主義的動機理論を検討し、これを退けている.ヒューム主義的動機理論には2つの要素がある.第1の要素は、「すべての行為はある欲求または選好に対する言及を通して正当化される必要がある」という主張を確立することを目指す「目的論的論証」である.第2の要素は、「欲求それ自身はさらなる欲求に対する言及を通してのみ正当化できる」という「欲求イン・欲求アウトの原理」である.従来、欲求に対する非認知主義を確立するには、これら2つの論証を行うことで十分であるとされてきたが、ヒースはこのどちらの立場も非認知主義を確立することに成功しないとしている.この2つのうちより真剣な検討に値するのは、欲求イン・欲求アウトの原理である.この原理を用いた「欲求の非認知主義テーゼ」は、欲求をアウトプットとして生み出すどのような熟慮のプロセスも、欲求をインプットとして受け取らなければならないが、このことからすべての欲求が熟慮のプロセスであることは不可能であると結論づける.すなわち、動機づけられない欲求が存在し、それが他の欲求の基礎とならなければならないのである. この論証は認識論における基礎づけ主義者たちが用いる「後退論証」とまったく同様の形式をとっている.すなわち、信念を正当化できるものが信念だけであるとすると、この正当化の連鎖は無限となるか、循環するか、それ自身は正当化を要しない特定の信念で停止するかのいずれかである.ここで無限の連鎖や循環性を否定するならば、それ自身は他の信念による正当化を要しない「基礎的信念」が存在するはずである.信念の場合、経験主義者たちは単純な観察文がこうした基礎的信念を構成すると考えていた.同様に欲求の正当イヒには他の欲求の正当化が必要だとすると、「動機づけられていない欲求」が存在するはずである.そのもっともらしい候補はわれわれの身体的状態-ヒュームのいう「情念」-である.しかも、信念は共有されている外部世界に基礎づけられるので、人々の間で合意できるという期待が成立するが、欲求の場合には個人の身体状態に基礎づけられるので、合意は期待できないことになる. 認識論における基礎づけ主義は、基礎的信念からの演鐸によって導出される理論的信念と基礎的信念とに信念を分類し、後者を経験との照合によって確認することで、われわれが確実に真である命題を確保できる道筋を明らかにしようとする企てである.しかし、W・V・O・クワインの「経験主義の2つのドグマ」以来、信念の1つひとつを経験によって照合し確認することはできず、各信念は信念全体の集合と世界との関係によって確認されると考えるようになっている.欲求についても同様のことが言えそうである.それぞれの基礎的な身体的欲求がその背景にある身体的状態に「几帳面に(punctnally)」関係しているというよりも、身体的欲求の集合自体が身体的必要性のモデルのようになっているのである.ヒューム主義者は身体的状態と身体的欲求とを同一視する傾向を持つが、実際には生理学的刺激は散漫で非決定的な状態であり、これに一定の秩序をもたらして欲求として整理することをしているのは志向的計画システムである.

規範的コントロールなしには合理的でありえない(第6章一第7章)

 道徳哲学者たちは人間の協力性向についてさまざまな説明を提供してきたが、自然主義的パースペクティブからはこれはどのように説明できるのだろうか.第6章「自然主義的パースペクティブ」はこの問題に関して、進化生物学的観点からの棚卸しが試みられる.自然主義的な(すなわち自然科学的な)検討を加えるには、「利他主義」という言葉-それを行う生命体にとって不利益となるが、他の生命体にとっては利益となる行動-を使用する必要がある. 動物の世界における利他的行動を説明できることが知られている、もっとも異論の少ない2つのメカニズムは「血縁選択」と「互恵的利他主義」である.これらはラフに言えばそれぞれ人間の「共感」と「友情」に関係する利他主義にかかわるものである.しかし、人間が遺伝的に無関係な個体間での大規模な協力を示していること一超社会性-を説明するには、このどちらも十分でないことが詳細に論じられる.このことを説明するために提出されてきたさまざまな理論が検討されるが、最終的に、ヒースが推奨するのは、ピーター・リチャーソンとロバート・ボイドによって発展されてきた生物学的進化と文化的進化を組み合わせた「二重継承理論」である. 近年、人間の子供が模倣的学習に異常なほど大きく依存していることが注目されてきた.マイケル・トマセロの研究によれば、人間の子供はチンパンジーとは異なり、自身自身の知性や目的が課する「フィルター」を取り除いた、純粋に模倣的な学習を行う.このような正確な模倣は累積的な文化的伝達の可能性を生み出す.こうして、われわれは遺伝的に有利な行動パターンと文化的に伝達された行動パターンの両方の蓄積の恩恵を受けることができるようになったわけである. ところで、文化的継承システムが生み出す行動パターンが生物学的な進化が生み出すそれと乖離するためには、文化的変異が獲得される仕方にある種のバイアスが存在しなければならない.その有力な候補となるのが、これまで社会心理学者たちが強調してきた人間の「同調バイアス」である.同調バイアスによって、文化的パターンの再生産のダイナミクスは大きな影響を受ける.それは進化生物学の領域において、もっともらしくないとして退けられてきた集団選択の力を文化進化の領域において非常に強力なものにする.同様に、同調的模倣を行わない人々を罰する性向として「道徳的懲罰」が生ずると、さらに同調的模倣の効果が増強される. こうして、もともとは生物学的進化によって提供された規範同調的性向は、それ自体としては利他的行動や利己的行動に対して中立的なものにすぎないが、それが文化的進化のプラットフォームとして機能するようになると、利他的に行為する人々が一定数存在している集団に有利に作用するようになる.人間の利他主義はこのように、文化的パターンとして発生すると考えられる. 規範同調的性向は先に述べた「実践に内包された規範」の現実における展開にとって必要なビルディング・ブロックともなる.さらにそれは「理由を与えたり求めたりするゲーム」のような社会的実践を可能にし、言語や志向的計画システムをも発生させる.ルールに従うことこそが、われわれを現在あるような知的生物にしたのである. ヒースは、自然主義的なパースペクティブを通して得られた以上の議論を 518道徳哲学に結びっけ、道徳哲学上の含意を引き出そうとする.ここで取り上げられるのは、人々が仮に正当化可能な道徳的判断を見いだしたとしても、それに基づいて行為する動機を持たない可能性があることを主張する「動機的懐疑主義」である. 動機的懐疑主義の問題に関しては、ヒュームの「懐疑論的解決」をベンチマークにすることができる.ヒュームは、懐疑論者の主張を受け入れるものの、事実の問題として、それが何ら深刻な問題をもたらさないことを示そうとする.このことを示す際に、ヒュームは道徳性を単一の原始的性向一共感-から生じた統一的現象として扱っていたが、上で述べたような進化論的パースペクティブは人間の向社会的行動が複数の起源を持つことを示している.われわれには懐疑論的解決を展開するための多くの強力な資源一血縁選択、互恵性、規範同調性-が利用可能なのである.実際、道徳性はこれらが絡みあった複雑な現象である. たとえばショーン・ニコルズは、他者に害をもたらすことを禁止する道徳の場合に、文化的に伝達された「社会規範」に、ルール遵守を強化する「感情反応」が組み合わせられていることを示している.感情反応は自然選択によって「適応的無意識」のレベルで生み出されたものである.その意義は、危害を禁じる規範が文化進化の中で再生産される可能性を高くするような仕方で、文化進化に対してバイアスを与えているということにある.こうして、われわれは事実の問題として、社会化された大人が道徳性を重視するということ、そしてこれが安定的な均衡を構成していることを示すことで、懐疑主義的な疑いを和らげることができる(「懐疑論的解決」). しかし、この懐疑論的解決にも盲点が存在する.それは、なぜわれわれが道徳的になるのかではなく、逆に、なぜわれわれは自然な感情反応を消し去り、不道徳になる努力をしないのかという問題である.われわれはもはや進化的適応環境に生きているわけではないので、以前は意味のあったヒューリスティクスはもはや上手く作動していないかもしれない.とりわけ、1回限りの囚人のジレンマ・ゲームでも協力するというような無制約の協力的性向を取り除き、道具主義的な合理性に基づいて協力が自己利益にとって意味あるときにのみ協力した方がいいのではないだろうか.ヒースは、血縁選択と互恵的利他主義に基づく協力的性向に関しては、こうした議論に反論することが難しいと考える一方で、規範同調的性向に関しては、合理的主体が除去することを選択できるようなものではないと主張する.その論証の道具立てとして用いられるのが、[超越論的論証]である.これはラフに言うと、次のような議論である.合理性は言語の使用を含むが、言語を学習することは規範的に規制された社会的実践をマスターすることを必要とする.したがって、規範的コントロールは合理的主体性の前提条件となるということである.意志の弱さと自己コントロールについて(第8章) ここでヒースは哲学者が伝統的に「意志の弱さ」と呼んできた問題について論じている.これは、なすべき行為を決定した後でも、実際にそうするかどうかはわからないという現象のことである.多くの哲学者たちは、すべてを考慮したうえでXを行うべきだと決定しながら、そうしないヶ-ス~意図的・反選好的選択一の例が存在していると想定し、それを「アクラシア」と呼んできた. ヒースはまず、これまで例として出されてきたアクラシアは厳密な意味でのアクラシアではないかもしれない可能性について詳述する.すなわち、一見アクラシアに見える現象は、(1)志向的計画システムによらない非意図的行動か、(2)御しがたい刺激に直面した際の選択か、あるいは(3)選好のダイナミックな不安定性の結果として生じた選択として説明が可能なものである. ここでとりわけ重要なのは、選好のダイナミックな不安定性である.哲学者たちは伝統的に時間選好や割引を不合理的なものとして忌避してきたために、選好の動学的安定性を仮定する傾向にあった.しかし今[Jでは割引に関する洗練された理解によって、一見して意図的・反選好的選択のように見えるものが、実際には不合理な選択ではないことが明らかにされてきた.今では多くの経済学者に知られるようになった「双曲割引」である. 経済学者が伝統的に採用してきた時間選好の表現は、どの時間においても一定の割引率を持つ仕方一指数割引-であったが、それは経験的観察に基づくものではない.近年は、人間が双曲割引と呼ばれる時間選好を持つという経験的証拠が積み上げられてきた.双曲割引では、同じ長さの期間の遅延(たとえば3年)を我慢しなければならないが、その状況が近くに発生するか(たとえば現在)、遠い将来に発生するか(たとえば6年後)で、人間 520は割引の仕方を変更する.近ければ近いほど割引率を大きくするのである. 今、遠い時点に大きな効用を獲得する見込みを持つ・と、それより手前の時点でxより小さな効用をもたらすyが存在すると考えよう.指数割引を行う主体の場合には、時間が経過する過程でjrとyの選好が逆転することがない.しかし双曲割引を行う主体の場合、現在時点ではズを選好するが、丿を選択できる時間が近づくとyを選好してしまうという現象が発生しうる.ヒースは依存症の例をあげるとともに、これまでアクラシアと考えられてきた多くの事例が、人間が双曲割引を行うことによって説明できると主張する.また、双曲割引を行う人はその時点で、自分自身のすべてを考慮した上での判断と整合的に行為しているのである. もちろん、双曲割引を行うよりも指数割引を行った方がよいという明白な理由が存在するので、人々は自分の選好を変更しようとしたり、事前の選好に沿った選択ができるように努力をすることができる.より一般的には、自分の割引率を小さくして将来を重視することが望ましい状況がいくらでも存在するだろう.そのようなことを達成するには、ある程度の自己コントロールが必要である.選好の動学的不整合性に対処するために何らかの方法で介入するような自己コントロールを能動的な自己コントロールと呼ぶが、それには(1)意志力による方法、(2)自己管理による方法、(3)環境管理による方法、(4)他者の協力に頼る方法、(5)ルールを作り、これに頼る方法などがある. 哲学的伝統は重要な自己コントロールの唯一の形態は「意志力」であるというように、外的コントロールに対して内的コントロールを特権化する傾向を持ってきた.しかし、ヒースは本書において一貫して、「人間の脳の『生来の』認知能力を、それを増幅するために用いている外的メカニズムー社会的、文化的、物理的資源-から分離することはできない……両者は分離不可能であるだけでなく、それらを分離しようと欲することは奇妙なことでもある]という外在主義的な立場を取っている.こうした観点からは、外的コントロールに対して内的コントロールを特権化する理由はない. われわれは認知的負荷の大きな作業をするときに、しばしば環境を「外的足掛り(extemal scaffolding)」として、それに負担を負わせることをする.道徳についても同様のことを言うことができる.道徳性の場合の足掛りは「社会的制度」である.

複雑な文化的人工物としての道徳(第9章一第10章)

 近代の道徳哲学は、道徳を少数の原理の集合から公理論的に説明しようとする試みに多大なエネルギーを費してきた.この試みに特徴的なのは、道徳とエチケットのような慣習的・黙約的な社会規範とを峻別する傾向であった.同様に、正しいとか間違っていることに実際にかかわっている本来の道徳性-これはローレンス・コールパークが「後黙約的道徳性」と呼んだものにほぼ等しいーは、人々が正しいとか間違っていると考えているだけの「黙約的道徳性」と根本的に異なると考える傾向も存在してきた.しかしヒースはこの傾向を拒否する.後黙約的道徳性は、黙約的道徳性に暗黙に存在している義務の構造を明示的に述べるようにデザインされた表出語彙なのであって、その権威を黙約的道徳性に依存している.他方、黙約的合理性は人間が何千年もの歳月をかけて生み出され、人々が日常的に直面する課題に対する調整をするための知恵を組み込んだ複雑な文化的人工物である.これが単一の原理から導出可能であると信じることは、エミール・デュルケムが道徳の「一端」を「基礎」と勘違いすることだと指摘したような間違いを犯すことである. 道徳を世代から世代へと再生産される文化的人工物として取り扱うアプローチを指向してきた点において、進化理論家たちは正しかった.進化論的パースペクティブは人間同士の利他的ないし協力的行動を説明する上でクリアしなればならない問題点を明確化することに多大な貢献を果たしてきた.しかしながら、進化理論家たちの多くも問題を単純化しすぎている.彼らはしばしば、道徳をゲーム理論の戦略のような単純な文化的パターンとして捉え、たとえば再生動学のような道具を用いて分析しようとしている.しかし、われわれが道徳現象を理解する上で重要な点は、再生動学においてはブラック・ボックスとされていることの内部にある.道徳は簡単なゲームの戦略として定式化することができない非常に複雑なルールの集合であり、自然言語に似ている存在なのである.