「社会保障」という「窓」を通して社会の構造を理解する

教養としての社会保障」を読む

著者:香取照幸

社会保障制度を理解する

「公共政策」という「窓」を通して社会を理解する上で,社会保障制度(継続して実行される「公共政策」を「制度」と呼んでいいだろう。)は,政府の活動における比重からいっても,果たす役割からいっても,もっとも重要である。

そこで厚労省の元官僚の香取さん(帯には,年金を改革し介護保険をつくった異能の元厚労官僚とある。)が書いた「教養としての社会保障」(以下「本書」という。)に目を通してみた。日本の「社会保障」の現況とその問題点,今後の方向性について,資料を添えて要領よくまとめられている。

社会保障制度の概要

社会保障制度の主要な部分は,ⅰ年金,ⅱ医療,介護,雇用,ⅲその他の給付に分けられるだろう。

本書によれば,ⅰの「年金は現役世代が高齢世代を支える制度、世代間扶養の順送りの制度であるが,年金制度は現在、約130兆円の積立金を持っている。今後の高齢者人口比率が高い厳しい25年を乗り切るために、この積立金の活用に加えてマクロ経済スライドという仕組みで給付を調整しようというのが、2004(平成16)年の年金制度改正だ。マクロ経済スライドというのは、簡単に言えば現役世代が負担できる範囲内で年金給付を調整する、という仕組みである。」。

ⅱ医療,介護,雇用は,みんなで「保険料」を出し合い,給付が必要となった人を支える共済制度だ。介護保険はこれがなければ高齢者の処遇が大問題になっていただろうから,その導入は高く評価できる。

ⅲその他は政府が費用を負担する「公共政策」と分析することができよう。

といっても,ⅰにもⅱにも,税金,国債発行分から巨額の資金が持ち出しになっているのだろう。

しかしそれぞれは,異なる経緯で設計された異なる入出金がある異なる制度である。現在これらの各制度が大きな問題を抱え,将来どうなるかという議論をするときには,とりあえずそれぞれを分けて議論すべきであろう。一緒くたに少子化,高齢化,デフレに責任があるとするのは,問題を覆い隠すだけである。

少子化というのは数値はともかくその趨勢は誰にも分っていたし,高齢化は足し算さえできれば誰でも計算できる。

デフレ(失われた20年)というのは振り返ってみた話で,バブル崩壊後の気持ちもなえる状況の中で見込むべき経済成長率は最小の数値だろう。

これらについて,社会保障制度を運営するうえで,どの時点のどの予測が違っていたから,現在の危機的な状況に陥ったのか,厚労官僚にこそ,冷静な分析を望むのが当然である。

問題の分析と著者の立ち位置

この点,著者の立ち位置は,とても気になる。

著者は,現在社会保障制度が危機的な状況にあることについて「犯人探し」をすべきではないというが,「原因探し」をすべきである。どういう予測のもとに,どういう制度を立ち上げ,あるいは変更し,予測がどうなったから,現在の状況に至っているのか,そのことについて,制度遂行にあたった政府機関に問題はなかったのかについて,冷静な分析がなされるべきである。それがあってはじめて市民として負担増が納得できるというべきである。

ⅰが最も難しい問題であることは容易に理解できる。市民としては老後に備えた任意の貯蓄はむつかしから強制徴収の制度に耐えるのである。これらについては今までどれだけの持ち出しがあったのか,マクロ経済スライドにすることで現役世代の負担がどうなり,年金給付がどうなるのか。

著者は,ミクロとマクロという言葉を持ち出し,市民は目の前の利害にとらわれ,役人や政治家のように全体の制度がわからないというが,役人や政治家がマクロがわからず制度設計をし,空手形をきったから,市民が責めたくなるのではないだろうか。

ⅱについて,日本の医療保険制度は,皆保険で効率的であると胸を張るが,病気,老化はだれもにも問題は分かりやすいし,市民に自分自身のために病気,要介護状態にならないというインセンティブがある。そして制度が民間の現場の血のにじむような努力に支えられているからそうなっているのは明らかである。厚労省が,政治家に責められて,たばこの被害の防遏から後退していることは,何とかならないのか。

社会論,経済論について

社会保障の機能の基本は上記のとおりであって,これぐらいなら誰にでもわかっている。わざわざ「社会の活力の源泉は,個人の自立と自由な選択に基づく自己実現」であるという議論を持ち出されてお説教される理由はない。

経済論も,試論,仮説であって,それだけのことである(なかなかよくまとまっているとは思うが。)。筆者が元厚労官僚の立場で力説しても,居酒屋政談といわれるのは仕方ない。

著者は,危機的な状況にある社会保障制度の「改革」を,社会論,経済論で下支えしようと思ったのだろうが,そうであれば,まず原因論を科学的に展開すべきである。そのうえで,科学的な社会論,経済論を展開すれば,もっと受け入れやすい本になったであろう。

なお,厚生労働白書も一読されたい。

詳細目次

 

はじめに~この本を手に取ってくださった方へ

第Ⅰ部 社会保障とは何か~制度の基本を理解する

第1章【系譜、理念、制度の体系】 ギルドの互助制度を手本としたビスマルク

(1) 社会保障の系譜──近代産業社会とともに生まれ、それを支えてきた社会保障制度 (2) 福祉国家の理念 (3) 社会保障は壮大な制度の体系である (4) 社会保障の理解の難しさ──ミクロの風景とマクロの風景の違い (5) 合理的無知と公教育の欠陥

第2章【基本哲学を知る】 「共助」や「セーフティネット」が社会を発展させた

(1) 社会保障制度の教科書的理解 (2) 「共助」の意味──個人のリスクの分散・自助の共同化 (3) 社会全体のリスク回避費用の最適化 (4) セーフティネットの真の意味

第3章【日本の社会保障】 戦後日本で実現した「皆保険」という奇跡

(1) 日本の社会保障の特徴 (2) 皆保険・皆年金の奇跡──公平と平等を重視した制度設計 (3) 職域保険と地域保険 (4) 高度成長との二人三脚 (5) 社会保障制度の曲がり角──前提条件を失った社会保障 (6) 日本の社会保障の現状と評価──世界一の医療制度

第Ⅱ部 マクロから見た社会保障~社会保障と日本社会・経済・財政

第4章【変調する社会・経済】 人口減少、少子化、高齢化で「安心」が揺らぎ始めた

(1) 人口減少、少子化、高齢化の衝撃 (2) 人口オーナスとライフサイクルの変化 (3) 経済縮小と消費縮小──構造的デフレーション (4) 長期不況・デフレのインパクト──格差社会の出現 (5) マクロ経済の異常事態

第5章【産業としての社会保障】 社会保障はGDPの5分の1を占める巨大市場

(1) GDPに占める社会保障の規模 (2) 経済を支える社会保障(3) 貯蓄から消費へ

第6章【国家財政の危機】 次世代にツケをまわし続けることの限界

(1) 巨額の財政赤字──世界最大の債務大国 (2) 財政赤字はどこから生まれる? 最大の歳出項目は? (3) 財政赤字削減、どうやって実現する? (4) 経済成長と財政再建──なぜ基礎的財政収支が重要なのか (5) 大きすぎる財政赤字のもう一つの弊害──政府の機能不全 (6) 社会保障の財源と国家財政 (7) 社会保険料負担──企業負担は重いのか、軽いのか?

第Ⅲ部 日本再生のために社会保障ができること

第7章【目指すべき国家像】 「将来不安」を払拭するために何をすべきか

【1】目指すべき国家像・社会の姿を考える視点 (1) 『同時代=共時』の視点 (2) 『歴史=通時』の視点 (3) 個人と社会をつなぐもの──「官」と「公」

【2】社会を覆っている「不安」──日本社会が抱える課題 (1) 経済や社会の将来への不安 (2) 日常の中の不安(3) 制度や政策に対する不安

【3】不安の背景にあるもの──社会経済の大きな変化 (1) 安心社会の揺らぎ──「雇用」「家族」「地域」を軸とした生活保障の崩壊 (2) 世界経済のグローバル化と「構造改革」 (3) 社会の不安定化──社会統合の危機 (4) 危機に瀕する国家財政──財政制約による国家の機能不全

第8章【新たな発展モデル】 北欧諸国の成功モデルから学べること

【1】「転換期」にあるという自覚

【2】北欧の成功──新たな成長モデル (1) 知識産業社会への転換(2) 教育・労働・社会保障政策の転換 (3) 福祉から就労へ(from welfare to work) (4) 知識産業社会における労働とは

【3】目指すのは「安心と成長の両立」 (1) 経済と社会保障の協働関係の再確認 (2) 改革の難しさ──政治の役割とポピュリズム

第9章【改革の方向性】 「安心」を取り戻すために、どう改革を進めるべきか

【1】安心社会の基盤をつくる (1) 自立と連帯、競争から共生へ (2) 新しいルールの創造(3) 社会的包摂

【2】持続可能な社会をつくる (1) 人口減少社会を乗り切れる持続可能なシステム (2) 女性が働きながら家庭を築き、子どもを産み育てられる社会

【3】社会経済の変化に対応できるシステムへと自らを改革する (1) 持続可能な制度をつくる (2) 簡素で効率的な制度へ (3) 制度運用の効率化

【4】成長に貢献する制度をつくる (1) 雇用の創出 (2) 地域経済を活性化させる

付 章【提言】 人口減少社会を乗り切る持続可能な安心社会のために

【1】年金と雇用 (1) 年金と雇用を一体とした制度設計 (2) 雇用の流動化に対応した現役世代の安定的・良質な雇用保障 (3) 被用者保険の適用拡大 (4) 雇用調整重視から人材育成重視への政策転換

【2】サービス保障──医療、福祉、介護 (1) 改革のポイントと方向──実体ニーズの増大を踏まえた提供体制の効率化 (2) 我が国の医療・介護サービス提供体制の特色 (3) 医療介護提供体制の改革 (4) サービスを支える人的資源とインフラの整備 (5) 診療報酬体系・介護報酬体系の改革 (6) 予防・健康づくりの意味 (7) 短期的な改革──負担と給付の見直し

おわりに 参考文献リスト