やっと再開できる-これから先も書き続けよう

2021-08-30

致命的なエラーからの復旧

長い間、投稿や固定記事の作成を怠っていた。最初の頃の懈怠の原因は、調べはじめた国際法や国際関係は今まで余り考えていなかった分野だったので、できるだけ幅広く今までは避けていた本も読もうとしたのと、そうすると予想されたようにこの分野は事実やデータに基づかない独断的かつ感情的な(要は「政治的」な)記述も多く、頭に渦巻く情動の嵐に飲み込まれないためには読み慣れることが必要だと思っているうちに、時間だけが経っていったことだとしておこう。

そうこうして頭の嵐も収まってきたのでそろそろ再開しなくては、でも資料が膨れ上がってしまった、整理が大変だ、しかも暑いとやる気がなくなるね、などとブラブラしているうちに、天罰が下り、1ヶ月ほど前、いきなり「致命的なエラー」が発生したとして、このWebへのアクセスができなくなってしまった。

これまではそうなっても、見よう見まねで何とか復旧させてきたが、今回は、レンタルサーバー上でのいろいろな問題もありそうで、どうにも私の手に余る、PHPとMySQLから始めるのではそれだけで日が暮れてしまう、どうしよう、とりあえずWordPress.comを復活させよう、エー、これは英語バージョンだと、迷走・煩悶していた。そんなとき仕事で関係がある会社の人と別の話しをしているときに、その会社がWeb開発をしていることに気がつき、WordPressがダウンしているのだけれど相談できますかと聞いてみたところ、得意にしている人がいるという。それで「症状」と伝え、レンタルサーバーへアクセスしてもらったところ、2時間足らずで復旧した。レンタルサーバーにインストールされているWordPressファイルの一部が壊れていて、一部不足していたので、それをインストールし直した、どうしてこうなったかはわからないが、かなり珍しいことだ、という。いやあ助かった。でもこれでは自分で修復するのは無理だ。とにかく、MySQLも含めてデータのバックアップをしておいて、なにかあればそこから修復できるようにしておかなければ、と深く反省したのであった。でもこの記事作成の時点で、バックアップのプラグインは使用開始できていない。なんせ、面倒くさそうなので。トホホ……。

関心が移動する1-歴史と国家へ

懈怠の期間が半年余りあっただろうか。国際法や国際関係はそれでまとめることとしているうちに、関心の焦点が次第に違うことに移っていく。

まずは国際法・国際関係を支える「戦争」を生む歴史、「戦争」をする主体としての政治権力・国家論。

歴史への視角

歴史への関心の持ち方もなかなか難しい。歴史の「残された資料」は(最近の科学的手法はこれを大きく拡大しつつあるとはいえ)圧倒的に限られていて、厖大な全体の流れのごくごく一部しか見えてこないことを重々承知する必要がある。限られた資料で歴史の全体像を捉えるという意欲は大切だが、所詮誤りだらけでわかりっこな。確実な小さな部分的真実を積み重ねて自足する必要がある。

もっともすべての資料が残されていても、今度は厖大な全体像に押し流され、骨格さえ見えてこない。現在進行形の「現代史」を考えればよい。

問題は切り取り方の「筋の良さ」だろうか。

私が基本に据えたいのは、それぞれの時代において、財・サービスがどのようにどのくらい作られ、どのように移動・取得・分配・消費されているか、その仕組みはどうか、それに伴ってどのような人の(政治的・文化的)行動がなされたのかということだろうか。

歴史を広い意味での経済や政治権力・国家、あるいは文化という枠組みを立てできるだけ定量的に理解する必要があるということだ。

国家・戦争論

「国家」は、支配者が権力行使(主として税の収奪)をする地域によって劃された「共同体」で、「国民国家」は、「人の集団」(国民)が地域(国家領域)を形成しているという倒錯に基づく「想像の共同体」といえようか。

 国家はなぜ連綿と戦争をしてきたのか。ひとつは地域を拡大することに基づく経済的な略奪(への期待))目的だろうし、ひとつは隣接する他の「共同体」への「異人恐怖・憎悪」とまとめることができよう。「正義の戦争」など、ある流れの中で、ある部分を、ある角度で切り取ったときに、当事者がそう主張するのも理解できなくはないという程度の問題だ。

19世紀後半以降、戦争の法である国際法が一般化したことにより確立した「国民国家」の時代にも両者があるのだろうが、一方で「国民国家」の生産性や戦争能力(惨禍)が拡大し、一方で少し考えれば、「国民国家」が他の「国民国家」から収奪する理由がないことは明らかだから、冷戦も含め、最近は後者に収斂しているといえるだろう。つまり、実質的な経済的な利得を目的とする戦争は存在しなくなり、他の「共同体」が隣接(侵略)することによる「異人恐怖・憎悪」という争いだ。しかしこれは本来その「共同体」の現実的な内容を(現に身体的に存在する人との交流を通じて)良く知れば次第に「恐怖・憎悪」は解消され実質的な争いはなくなることが期待される。ただ、歴史的な過程で殺戮が繰り返された場合、政治権力が「国民」を離れ独走する場合、加えて「宗教・思想」という現実の存在を超える観念が政治権力(人)を使嗾するような場合は、なかなか解決困難だ。今法じれれている国際紛争は、「内戦」も含めてほとんどこれに該当しそうだ。しかも現在進行形の、サイバー戦争、AI兵器という、現実に人が接触しない「武器」によって、上記の「恐怖・憎悪」が煽られる「観念的」な形態の戦争を活性化し、今後、ますます勢いを持つように見える。

歴史の中心

現在の科学、学問が、ヨーローパの自然科学、資本主義の隆盛、政治支配と共に、普及したことから、ヨーロッパ中心史観は根強い。

ヨーロッパを含む歴史は、遊牧民が活動するの中央アジアを中心にして、西ユーラシアのメソポタミアと東ユーラシアの中国が草原の道とシルクロードで結ばれ、そこで遊牧民と農耕民の基本的な差異(どのような財・サービスが、どのようにどのくらい作られ、どのように移動・取得・分配・消費され、その仕組みはどうか、それに伴ってどのような人の(政治的・文化的)行動がなされたのか)に基づく、交易と略奪の歴史が繰り広げられてきた。

西ユーラシアについて、ギリシア、ビザンティン帝国(ロシア正教)、更にはイスラームも含め、メソポタミアがずっと中心だ(といっても語族は複雑に入り組むが)。

西の辺境のヨーロッパは、16世紀以後、大航海時代、植民地支配、自然科学の展開、産業革命、資本主義の勃興によって、現代の主流になった新参者だ。ローマ帝国がヨーロッパにつながるようなイメージもあるが、その継承者はビザンティン帝国であって、西ローマ帝国は滅亡し、周辺ヨーロッパの興亡に飲み込まれてしまった。

東ユーラシアの中国は、中国自体が、遊牧民と農耕民を基盤とする政治権力による抗争を重ねる歴史の中にあり、更にその政権がシルクロードを通じて交易により財・文化を得てきた。中国から見た「シルクロード論」はとても楽しい。少し古いが、NHKの特集もとても面白い。

モンゴルによる東ユーラシア、西ユーラシアの侵略・統治はその最大の統一劇場だ。

このように見てくるといろいろなことがわかりやすくなる。取り急ぎ、次の本を紹介しておこう。

  • シルクロード世界史:森安 孝夫
  • 世界史序説 ──アジア史から一望する (ちくま新書):岡本隆司
  • イスラーム世界史 (角川ソフィア文庫) :後藤 明
  • 衝突と共存の地中海世界 古代から近世まで (放送大学叢書) :高山 博 本村 凌二
  • 教養としての「世界史」の読み方:本村 凌二
  • 世界史とつなげて学ぶ 中国全史:岡本 隆司
  • 世界史の誕生 ――モンゴルの発展と伝統 (ちくま文庫):岡田英弘

更に戦争を支える、馬、鉄器、火器、更に鉄道や原子力に至る様々な現代兵器、サイバー戦争、ロボット・AI兵器の興亡も関心の範囲だ。

これらを支える本は追って紹介しよう。

ところで2日前(8月28日)に、「シルクロードとローマ帝国の興亡 (文春新書):井上 文則」 というKindle本を入手した。この本こそ、この間私が蓄積してきた中央アジア(シルクロード)中心史観を西側からまとめる本かと思ったが、実は、ローマ帝国と海のシルクロードを介したインドとの交易に的を絞り、西ローマ帝国の滅亡と共にこれが滅亡したという観点に立つ西ローマ帝国中心本で、中央アジアは(陸路)ではたいしたことはできないでしょうという言い方でいささかがっかりしたが、一方、海のシルクロードの交易商品の内容、規模、そこから上がる利益を、ローマ帝国の財政規模と対比して論じた定量的な市点のある本であり、その意味ではとても満足だ。

なかなか一筋縄ではいかないことが楽しい。

夏の4書

そうこうするうちに夏も終わりつつあるが、以上に関連する4書を挙げておこう。いずれも比較的新しい翻訳書で、いずれも紹介に値する。ただ紹介は追ってだ。

  • 世界の起源 人類を決定づけた地球の歴史:ルイス・ダートネル
  • Humankind 希望の歴史 上・下 人類が善き未来をつくるための18章 (文春e-book) :ルトガー・ブレグマン
  • 反穀物の人類史―国家誕生のディープヒストリー :ジェームズ・C・スコット(Amazonにリンク
  • デタラメ データ社会の嘘を見抜く (日本経済新聞出版):カール・T・バーグストローム, ジェヴィン・D・ウエスト

関心が移動する2-生命・動物・ヒトの行動

ところで、過去の歴史を担う人が、どのように行動したか(財・サービスを扱い、戦争したか)について、現代の枠組みをそのまま当てはまるのは不適切だ、

そこでは、生命・動物・ヒトの進化を踏まえてその行動を理解すべきだ。

もちろん今までも、このような観点を含めて検討を試みていたが、ここで改めて簡潔に検討しようと思った。いずれの放送大学の教材を挙げよう。

  • 生物の進化と多様化(放送大学):二河成男(編著)
  • 比較認知科学(放送大学):藤田 和生(編著)
  • 総合人類学としてのヒト学(放送大学):高倉 浩樹(編著)

これらをみると、スキナーの「行動分析学」をどう位置づけるかが、今でも揺れているように思う。私は心的世界をわからないとして分析することは一つの視角としてアリと思っているが、この派の人が心的世界を「ない」といいたがるのは困ったものだと思っている。

より面白い本として動物と文化人類学の本を挙げておこう、

  • 動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか:フランス・ドゥ・ヴァール
  • 文化人類学の思考法:松村圭一郎, 中川理, 石井美保
  • 人類学とは何か:ティム・インゴルド

関心が移動する3-その他

心的世界論はこれからも中心的な課題で、山鳥重さんはなかなか抜け出せない。ただ原理論をかみしめていても前に行けないので、例えば、知的生産論-ノート論やSFを踏まえた創造論も面白い。目標達成論、依存からの脱出論は今後も追い続けよう。

コロナ禍論も、そろそろ何か発言してもいいだろう。

そういえば、経済原論(それにつられて経済史)も少し読んだ。マルクスの目に入っていたのは、財・サービス論の一部という気がする。はやく「私の趣味はSNAです」と宣言し、歴史を定量的に解析したい。

積み重ねよう

これまで私はこのWebで関心のあるすべての問題を、全部見通して突き通そうと思っていた。でもそんなことはこの情報の氾濫の中で無理・無駄とやっと思えてきた。市井の考察者にふさわしく、小さな考察を重ねていこう。ただ視座はできるだけ広く大きくという志だ。