50年前の私に会う

2021-03-18

 大竹29・30会イースト

2014年11月16日(日)に、大竹29・30会イーストという名の大竹小学校(中学校)の同窓会があった。29・30(ニーキューサンマル)というのは、昭和29年、30年生まれ、イーストというのは東日本である。大竹といってもほとんど知らないだろうが、大竹市は、山口県との県境にある「パルプ、化学繊維、石油化学等の大企業を誘致し、瀬戸内地域で有数の臨海工業地区に発展」したが、残念ながら今人口減少の一途をたどりつつある広島県の地方小都市である(今の人口は2万8000人くらい。)。一時は「公害の街」であったが、最近は相当改善されたものの、いまでも工場街を通ると「化学臭」がするようだ(でもすぐに慣れて気がつかなくなってしまう。)。しかし市の北部には自然が残されており、川遊びができる蛇喰岩や、栗が採れる栗谷、クライミングもできる三倉岳は、どれも楽しいスポットだ。子供達が小さいときには帰省してよく遊びに行ったし、三倉岳にも。2度は登ったかな。

同窓会にいた50年前の私

私は、中高は広島市内にある私立に行き、大学は東京に来たので、大竹小学校の同窓生とは、中高、大学で一緒だった人以外は、実に48年ぶりの再会になる。

当日会場の場所が分からずにうろうろとしていて少し遅れてしまったが、世話役として会場のビルの入口まで迎えに来てくれた5、6年の時に一緒のクラスだったS君の面影は分かったが、会場にはあと16人。S君以外には5、6年で一緒だった人はいないみたいで、あまりピンと来る人がいない。実は当時の大竹小学校は7クラスもあって、しかも、1、2年、3、4年、5、6年と持ち上がりなので、一緒のクラスにならなかった人も随分いる計算になるから、知らない人もいるのは当然なのだが、それにしてもわからない。大竹の方では、これまでにも数回同窓会が行われたようだし、連絡を取り合う人もいるようで、みんなの話は弾んでいるが、私には?

でも当時の先生の写真が紹介され、近況報告も兼ねて、どのクラスにいたとか、あんなことがあったとか、あいつはどうしているとかいう類の話が重なっていくにつれ、私もだんだんと小学生だった48年前から54年前に連れ戻された。飛び交う、広島弁、より正確には大竹弁。そして出席者の入学したときと卒業したときの写真が卒業アルバムから切り抜かれて、プロジェクターで映し出された。

私の写真。そこには50年前の私がいた。より正確には54年前の私と48年前の私がいた。何とまー・・・。

同窓会の本番はあっという間に終わって、2次会、3次会。本当に楽しい時間が過ごせた。だから飲み過ぎた。あのころは、少なくても大竹のような小さな街では、ドコドコのダレダレさんという位置づけが確かに生きていた。だから人の存在に、強いリアリティーがあるから確かに私も存在していたことが分かる。大竹弁に乗って。

反省会と忘年会

その後、法律関係の加除出版の会社に勤めているSM君から連絡があり、事務所に来てもらって、「整備場」唯一の「5時から居酒屋」の食堂「ブルーコーナー」で楽しくお酒を飲み、ずっと単身赴任をして頑張って仕事をしていることや、奥様とのなれ初め、やっとできた美人の娘さんの話等々を聞いた。私は孫の話かな。ミュージシャンのオサム君とも連絡を取り、今度一緒に飲もうということになった。そしてしこたま飲んだ。

でもそのとき、世話人の反省会に出席することを勧められ、昨日(2014年12月14日)、勝手に世話人の反省会へオブザーバーとして出席し、結局、S君、SM君、オサム君等々、11人の世話人と2度目の再会を果たした。まあたいしたことも反省しないまま、軽く一杯やったが、その段階で日本酒を飲み過ぎた匿名の奥様は脱落。オサム君がギターを持ってきて翌日誕生日のSM君へハッピーバースデイを歌ったが、そのことよりオサム君はその場にいた全員の誕生日を覚えていて披露。どういう記憶法か、能力か。異能の人だ。そのまま居酒屋で忘年会へ。

そして私の家のすぐ近くにあったガラの広場で野球をしたことや幼稚園の時代の話へ。幼稚園は、「大竹中央幼稚園」だ。Aさんが、幼稚園の写真まで持ってきていた。あ!これが私だ。56年前の私。またまた大竹弁で盛り上がった。そしてまた飲み過ぎた。

まとめ

大竹のもんは、ぶち、酒を飲むのお。