戯れ言日録

年賀の挨拶の次が、残暑見舞いというのは、時候の挨拶としては間違いではないだろうが、ブログではないですね。それはともかく、近況報告をしておきます。

会社の近況

私は、羽田空港におけるビジネスジェットの格納庫事業の「再生」「再建」に関与しているが、その将来像がきちんと固まれば、状況をきちんと報告しようと思っていたが、その機会がないまま時間だけが過ぎてしまった。少なくてもこの4月には何とかなるだろうと思っていたが、当局の不可解な対応によって事態はかえって悪化してしまった。今後の我が国のビジネスにとって不可欠な国際交流の重要な一翼を担うはずの羽田空港における格納庫事業は、残念ながらその将来が見通せない状況にある。その原因について、現段階で私的に分析、情報発信するのは、まだ時期尚早と思うので、今しばらく現状打開に努力したい。このままでは、これまでこの事業に期待し、力を貸してくれた多くの人に、迷惑だけをかけてしまうことになるのが心苦しい。

私の近況

科学へ

格納庫事業が上述したような状況なので、気持ちは何となくさえないのだが、冷静に考えれば私がなすべき課題は多い。

まず年初に掲げた「ここ最近の文字どおりの科学のビッグバンによって、少しずつ「真実」が明らかになってきていると予感させられる」との思いは、ますます強くなっている。

その主たる対象は「物質、宇宙、生命、意識」等々の「自然」であり、その中核は人を生物の遺伝、進化の流れの中で理解するということであるが、「自然科学」以外に、人の共同性である社会を「人の交流(関係)」と見て、その交流のビッグデータの解析、意味づけによって新たな知見を得ようとする「社会科学」もその緒に就いたと言えるであろう。

私はこれらの生物の遺伝、進化を中心とする最新科学を、何とか人の生活・仕事に生かせないかと考えている。

ただ私は科学を絶賛し、その提灯持ちをしたいのではない。科学と、人が通常行っている、生活・仕事の領域での活動は、その対象も、認識・認知方法も区別されるものであり(カーネマン「ファスト&スロー」の、システム1(速い思考)、システム2(遅い思考)を念頭に置いてもいいであろう。)、科学は今まで主として「工学技術」という形で後者に関与してきたが、それ以上に科学を生活・仕事に生かすべき方法は確立されていない。科学者が後者について発言しても、それは「科学的」ではない。科学者の行動も「科学的」ではない。

これとは別に、科学は、そのほとんどが「仮説」であるということも重要である。私は、10年前、20年前には分からなかったことが分かってきたとする最新科学の紹介がゾクゾクするほど大好きだが(アプリのnatureダイジェストを愛読している。)、よく考えれば最新科学は、今そうであるように、10年、20年経って振り返れば、全く古びたものになっているし、その何割かはそれ自体、間違いであったとされるだろう。だから、「仮説」という感覚もとても重要である。

生活・仕事、共同性へ

そのような科学を人の生活・仕事に生かすといっても、生活や仕事は誰もがやっていることであって、大事なのは、システム1(速い思考)によって動かされる生活・仕事の流れやその固有の価値観を相対化し、遺伝・進化の中で遠望する「智慧」だろう。そこから何が生み出せるだろうか、歩き始めた以上、やるしかない。。

更に人の共同性が国家という組織を構成することは、現在ではそれなりに理由があるが、とても残念なことだが、今国家を介して人が激しく対立し、国家内でも、人の自由や協調性に反する動きが目立っている。国家は「仮説」の最たるもので実体はなく人の交流(関係)があるだけだという、当たり前の事実から思考することは、実はとても難しい。これをどのように科学によって切開できるか。

仕事へ

といっても、素人「科学者」、「哲学者」としての興味は興味として、私の仕事は弁護士だから、これらの感覚を生かすため、国家が定立する法が、人の共同性のルール(規範)として、合理的、効率的で、必要最小限のものであるよう、司法、執行の面で関わる必要がある。また立法提言もしていこう。

孫娘と山

孫娘は3歳を超えて、ますます活発になってきた。私は折に触れて孫娘の写真を撮るが、その大半は、後ろからの、ぼけた写真である。一番いいシーンは、見ほれてしまって写真どころではないから。

やっと歩くことにも慣れてきたようなので、そろそろ山にも行けるかな。9月の休みには、入笠山に行くゴンドラに乗って、うろうろすることも計画している。

最後に

長々と近況報告をしてきたが、やはり観念を頭の中で転がしていても雲散霧消してしまう。本を読んだり考えたりしたら、できるだけ報告した方がいい。今のところの第1候補は「ヒトの起源を探して」(Masters of the planet )である。

読み返してみると抽象的で分かりにくい文章でした。

戯れ言日録

北澤義博さん

北澤義博弁護士が亡くなってもう2年が経過した。北澤さんは、情報公開制度の制定をリードしたり、大宮法科大学院で副学長をつとめたり、とても有能な弁護士だった。

私は北澤さんが所長をしていたフロンティア・ローと一緒に仕事をしようと思ってごく近くに事務所を設け、合同することについて何度も声もかけてもらったのだけで、結局、実現しないまま北澤さんは逝ってしまった。とても心残りだ。

今般、北澤さんの「遺稿・追悼集」に寄稿を求められたので、そのまま掲載する。
改めて北澤さんのご冥福をお祈りしたい。

北澤さんと私

誰もが認めるだろうが、北澤さんは本当にダンディで素敵だった。私がご一緒したのは、大体アフターファイブだったから、イタリアンでワインのボトルを傾けたり、花たろうで久保田の4合ビンを抱えたりする北澤さんの姿の記憶は鮮明だが、そこで何を話したかは朧気だ。でも私と北澤さんの間には、「遅れてきた青年」としての世代的な共感があり、これから何をすればいいんだろうということが共通する無言の課題だったと思う。

いつか北澤さんと何か勉強でもしようよという話になって、私が「科学」というと、「科学的社会主義」と思われて苦笑されたことがあった。でも本当は、最近になってやっと「科学」が、人間の身の丈をはずれた極大の宇宙から極小の素粒子までを読み解くことができはじめたので、そういう中で自然、生命、人間のありようを考え、制度を構想しようということだったのだが話はそのまま立ち消えになった。

北澤さんは弁護士や法教育者として颯爽と充実した道を歩んだが、私は、非科学的で権威主義的な価値観に基づく制度が嫌いだから、弁護士になりきれなかった。振り返れば科学者の方が面白かっただろうが、でも機は熟しているのだから、「科学」を踏まえた人生最後のあがきをしたいと思っている。北澤さんは、いつまでも現実と向き合わない奴だといって、またもや苦笑しているだろうな。余りにも早く逝った北澤さんのご冥福をお祈りしたい。

戯れ言日録

言い訳から

前回の投稿が、5月26日の「さわやかな初夏のお出かけ」だから、あっという間に2ヶ月が経ち、盛夏になってしまった。投稿する度に間が空いたことの言い訳をするのもみっともないが、それにしても私に降りかかるWOL(私が関与している会社)の重みは、一難去って又三難と表現するのがピッタリの状態で、なかなか投稿する気分にはならなかった。

でも今日こそは重い腰を上げよう。WOLについてはまだ激動の最中なので現状を語ることはできないが、まったく次から次にいろいろなことが起こる。想像だにしなかったこともある。その原因は抽象的にいえば、善意、悪意とりまぜて、多くのプレーヤーが、自分の立ち位置(利害)からWOLを自分にとって最善なようにオペレートないしコントロールしたいと思うからであろうか。でもそうすると、どうしてもWOLの格納庫が、羽田空港に飛来するBJ機が再び安全・快適に飛来していける整備格納の拠点として歩んでいかなければならないという前提がおざなりになってしまう傾向がある。だれも二兎は追えないが。

でも次回、WOLについて語るときは、明るい未来について語りたい。

私の救い1

今の私の救いは、劇的な展開を遂げつつある「科学」だ(いまでは、本当は「宗教」である「科学的社会主義」の「科学」ではないよ、というような冗談も、通じる人はわずかになってしまった。)。

例えば私の枕元にはだいぶ前から「nature科学 系譜の知 バイオ(生命科学)、医学、進化(古生物) 」が置いてある。同じシリーズには、「nature科学 未踏の知 地球(地球文明)・環境・宇宙」、「nature科学 深層の知 物理数学・物理化学・工学・ロボット」がある。これを時折めくるだけで私には至福の時間が訪れる。その新しい知見に圧倒される。でも理科系でない文化系「科学オタク」としては、次の2点についてコメントしたい。

ひとつは、だいぶ以前だが、「超能力」を擁護するスタンスとして、「科学ではまだ分からないことがある」といういうようなことがいわれたが、実はそんなのは当たり前で、現在の科学で分かっていることがほんのわずかで、分からないことだらけ。しかもこれまで分かっているとされたことも、七転八倒状態で、日々見直されているという方がが正しい。あまり動かないのは、何個かの思考規則(数式)とこれに基づいて記述されるある範囲の自然の現象ぐらいではないだろうか。だから今の「科学」は本当に楽しい。

そうはいいながら学者と称する「科学」の担い手は、自分が関わる「最新の科学」を絶対視する抜きがたい習性を持っている。自分が関わっている「科学」もまた激動やむなきその「科学」の一員であるという第3者には当たり前の感性が、どこかに飛んで行ってしまう。だから「科学」の知への応用、現実への適応は、異分野の素人が参加して行うのがいい。可能ならばだが。

久しぶりに確認したくなったが、このような問題を考える出発点となる最近の本は、「哲学入門」(戸田山和久:ちくま新書。KINDLE版も出ている。)、次に、玉石混交だが、ある種の核心をついてしまった「データの見えざる手 ウエアラブルセンサが明かす人間・組織・社会の法則」(矢野和男:草思社。これもKINDLE版も出ている。)だ。ついでに初めて取り上げる本だが「科学の眼で人の社会を観る 進化論的世界観」(市川惇信:東京図書出版。これもKINDLE版あり)は、発想は古色蒼然という感じではあるが、その前提でそれなりにピントが合っていると思う。

これからは、経済も、政治も、法律も、「科学」の洗礼を受けなければならない。率直に言って、床屋政談以上の本に巡り合うのはまれだ。でも「科学」が救いとは、あまり楽しくないよね。

私の救い2、3

私の救い2は、夏山だ。ほとんど毎朝、羽田空港でバスからモノレールに乗り換えるが、ザックを背負った登山者を多く見かける。本当にうらやましい。登山と言えば夏山で、登山口からある高度までは、汗だらけになって苦しいが、頂上に近づけば風も吹きわたり、その心地よさは経験者しかわからない。そう朝日岳がおもいだされる。と書いたものの、初心者のころは、ずっと苦しかったな。今も運動不足の極地できっと苦しいだろう。それでも夏山に行きたいが、残念ながら予定はない。

そして私の救い3は、言わずと知れた孫娘えみちゃん。えみちゃんを置いて夏山に行けるだろうか。少なくても2歳になった一番かわいい盛りに。

だから本当の救いは結局えみちゃんと見る山の本と科学本。

私の道はどこに通じているのだろう。