一難去って又三難

言い訳から

前回の投稿が、5月26日の「さわやかな初夏のお出かけ」だから、あっという間に2ヶ月が経ち、盛夏になってしまった。投稿する度に間が空いたことの言い訳をするのもみっともないが、それにしても私に降りかかるWOL(私が関与している会社)の重みは、一難去って又三難と表現するのがピッタリの状態で、なかなか投稿する気分にはならなかった。

でも今日こそは重い腰を上げよう。WOLについてはまだ激動の最中なので現状を語ることはできないが、まったく次から次にいろいろなことが起こる。想像だにしなかったこともある。その原因は抽象的にいえば、善意、悪意とりまぜて、多くのプレーヤーが、自分の立ち位置(利害)からWOLを自分にとって最善なようにオペレートないしコントロールしたいと思うからであろうか。でもそうすると、どうしてもWOLの格納庫が、羽田空港に飛来するBJ機が再び安全・快適に飛来していける整備格納の拠点として歩んでいかなければならないという前提がおざなりになってしまう傾向がある。だれも二兎は追えないが。

でも次回、WOLについて語るときは、明るい未来について語りたい。

私の救い1

今の私の救いは、劇的な展開を遂げつつある「科学」だ(いまでは、本当は「宗教」である「科学的社会主義」の「科学」ではないよ、というような冗談も、通じる人はわずかになってしまった。)。

例えば私の枕元にはだいぶ前から「nature科学 系譜の知 バイオ(生命科学)、医学、進化(古生物) 」が置いてある。同じシリーズには、「nature科学 未踏の知 地球(地球文明)・環境・宇宙」、「nature科学 深層の知 物理数学・物理化学・工学・ロボット」がある。これを時折めくるだけで私には至福の時間が訪れる。その新しい知見に圧倒される。でも理科系でない文化系「科学オタク」としては、次の2点についてコメントしたい。

ひとつは、だいぶ以前だが、「超能力」を擁護するスタンスとして、「科学ではまだ分からないことがある」といういうようなことがいわれたが、実はそんなのは当たり前で、現在の科学で分かっていることがほんのわずかで、分からないことだらけ。しかもこれまで分かっているとされたことも、七転八倒状態で、日々見直されているという方がが正しい。あまり動かないのは、何個かの思考規則(数式)とこれに基づいて記述されるある範囲の自然の現象ぐらいではないだろうか。だから今の「科学」は本当に楽しい。

そうはいいながら学者と称する「科学」の担い手は、自分が関わる「最新の科学」を絶対視する抜きがたい習性を持っている。自分が関わっている「科学」もまた激動やむなきその「科学」の一員であるという第3者には当たり前の感性が、どこかに飛んで行ってしまう。だから「科学」の知への応用、現実への適応は、異分野の素人が参加して行うのがいい。可能ならばだが。

久しぶりに確認したくなったが、このような問題を考える出発点となる最近の本は、「哲学入門」(戸田山和久:ちくま新書。KINDLE版も出ている。)、次に、玉石混交だが、ある種の核心をついてしまった「データの見えざる手 ウエアラブルセンサが明かす人間・組織・社会の法則」(矢野和男:草思社。これもKINDLE版も出ている。)だ。ついでに初めて取り上げる本だが「科学の眼で人の社会を観る 進化論的世界観」(市川惇信:東京図書出版。これもKINDLE版あり)は、発想は古色蒼然という感じではあるが、その前提でそれなりにピントが合っていると思う。

これからは、経済も、政治も、法律も、「科学」の洗礼を受けなければならない。率直に言って、床屋政談以上の本に巡り合うのはまれだ。でも「科学」が救いとは、あまり楽しくないよね。

私の救い2、3

私の救い2は、夏山だ。ほとんど毎朝、羽田空港でバスからモノレールに乗り換えるが、ザックを背負った登山者を多く見かける。本当にうらやましい。登山と言えば夏山で、登山口からある高度までは、汗だらけになって苦しいが、頂上に近づけば風も吹きわたり、その心地よさは経験者しかわからない。そう朝日岳がおもいだされる。と書いたものの、初心者のころは、ずっと苦しかったな。今も運動不足の極地できっと苦しいだろう。それでも夏山に行きたいが、残念ながら予定はない。

そして私の救い3は、言わずと知れた孫娘えみちゃん。えみちゃんを置いて夏山に行けるだろうか。少なくても2歳になった一番かわいい盛りに。

だから本当の救いは結局えみちゃんと見る山の本と科学本。

私の道はどこに通じているのだろう。