戯れ言日録とは_JOKE・冗句・ぼやき・雑言から繋がる世界

折々の所感

これから折々の所感を、無味乾燥な「日々雑感」という「カテゴリー」から抜けだし、「戯れ言(ざれごと)日録」として記述しようと思う。「戯れ言日録」としただけで心の中で何かが動き出しそうだ。 #何を書いていくか 次のようなことを考えている。 題材は、「山ある日々:残された日々を生きる)」、「本の森:好奇心・知識・問い」のすべてに亘るが、本を読んだり日々経験したりすることから繋がる世界に焦点を当てた「戯れ言仕立て」にしよう。 したがって内容は、Joke・冗句・ぼやき・雑言であることを厭わない。

なぜ雑言なのか

JOKE・冗句・ぼやきは分かるとしてなぜ「雑言」なのか。雑言という言葉は、それだけを取り上げるとピンと来ないが、罵詈雑言、悪口雑言とすると、その意味合いが浮かび上がってくる。といっても私の雑言の対象は人ではなくて、主として「本」だ。 至る所で繰り返さざるを得ないが、本の活字は今や私には読むに小さすぎて、特に縦書きの文庫本はアウトだ。その点電子書籍(Kindle本)がいいのいだが、図解、写真本でもないのに、どうして画像本にするのか。最近一番頭にきたのは「人生の意味の哲学入門」(春秋社)だ。どうしてこのような気恥ずかしい題名を掲げた 分析哲学の本が、縦書き画像本になるのか。内容もツッコミどころ満載だ。 ただ本の内容は、雑言から入ると道を誤る。私がその本行き合って購入したのは、私が抱えている何らかの問題解決に資すると思ったからだ。そういう意味では、どんな本でも前向きのコメントの対象だ。だからといって「雑言」の情動はおさまらない。 ということは、「前向きのコメント」と「雑言」を分離して書き分ければいいのだ。そういう次第で、これからの「本の紹介」は、「前向きのコメント」の後に、必要に応じ「雑言」を書き加えることにしよう。

翻訳本への雑言

翻訳本は多くの場合、雑言の対象となる。私が読むのは、ポピュラーサイエンスの翻訳本が多いのだが、これらは大体、誰が何をした、誰に何が起こった、こんな研究をしたというようなことが前後関係が読み取れないまま無秩序に投げ出されていることが多い。加えて翻訳が日本語としておかしいことも多い。 だが、これについて高田明典さんは、「難解な本を読む技術(光文社新書)」で私の不明を鋭く指摘する。前者は、「開かれた本」だから自分でみつけるのだ、後者は、翻訳はほとんどの場合問題はなく、私が文脈が読めていないだけだ。 なるほど。 だが私は、これらを「前向きのコメント」では受けいれるが、「雑言」で、高田さんの第1章での本読みの分類(「閉じている本」と「開いている本」、「登山型」の本と「ハイキング型」の本、「批判読み」と「同化読み」)はどうなの、読む本の分野が限られているからこんな分類になるのではないのと言いたくなる。それはそれとしてもこの本は、腑に落ちるところが多い。