日々雑感

Warningが占拠したTOPページ

ここ何日か、このWordPressのTOPページにWarningが4つくらい出て、しかも管理画面(ダッシュボード)のアドレスにアクセスしてもそのWarningが表示されるだけで管理画面は表示されなくなってしまった。この間、アクセスしてくれた人には、ウイルス汚染か何かという恐怖を与えてしまったかも知れない。お詫びしたい。
原因は、多分何かの「更新」だろうという推測はできる。Warningの内容は、私がほとんど触らないphpが何とかという表示なので、とりあえずサーバーでphpのバージョンを下げてみたが変わらない。何かのプラグインの問題かなあ、そういえば面倒くさいのでこれをほとんど自動更新にしたのはまずかったなあ、回復したらそんなずぼらはしませんと反省したのだが、目が覚めても現実は変わらない。

でも気持ち悪い表示のままにして置くわけにはいかないので、今日は、あれこれググって対応しようと不退転の決意をもって事務所に出て、これに取り組もうと思ったのだ。

さてあれこれググってもどこかのphpを書き換えろという指示なのですぐには手が付かない。そこで何の「更新」が悪かったのかなあと、最近メールで来たプラグインの更新の通知を見ると、「次のページで、更新を行なって下さい。」とあって、管理画面のアドレスに何かがくっついた表示になっている。エイヤッとクリックしてみると、管理画面の更新画面がでてきた。

そこには、WordPress本体が更新できなかったと出ている。そして更新する前にバックアップをとれだの何だなと書いてある。でもこの状態で何をするのかを理解しバックアップを取るというのは気が遠くなる作業なので、ここでも回復したらそんなずぼらはしませんと反省して更新ボタンをクリックしてみる。経過する時間は長い。

解決!!

結果、元に戻ったのだ。原因は、何かの原因でWordPressが更新できていなかったことだったようだ。
これについて私は最近メールで来たプラグインの更新通知の「次のページで、更新を行なって下さい。」をクリックして管理画面に行き着き、WordPressを更新して回復することができた。ただ他のケースでもこれが通用するかどうかは全く分からない。とりあえずphpの書き換えまで行かなくて良かった。
問題は、WordPressの記事の更新を怠っていたことにもある。その反省と言い訳を次の記事でしよう。

ブログ本の森から山ある日々へ,複雑な問題群,法とルール

序論

内部統制制度は子会社には重荷のことが多い

上場企業と連結計算書類を作成している子会社(の一部)は、親会社が、金融商品取引法(金商法)の内部統制報告書を作成し、監査法人の監査を受けて届け出て、公開するのに対応し、その内部統制制度の整備・運用について、親会社(の主として内部監査室)から評価され、監査法人の監査を受ける。

親会社にとっても負担の重いといわれる金商法の「内部統制制度」について、子会社としてその整備・運用をすることは、親会社と一体となってそのような体制を整備してきた場合は格別、例えば、M&Aによってグループ入りした場合を考えれば分かるように、なかなか大変である。「内部統制報告書」は親会社が作成・報告するものであるから、子会社にとっては、迷惑だというような声さえ、聞こえてくることがあるのである。

弁護士から見た金商法の内部統制制度

会社法では、子会社の統治について、親会社が子会社の株主権を行使すること以上のことはあまり考えられてこなかったが(戦後の会社法は、戦前の財閥の弊害を踏まえた独禁法による持株会社の禁止下に進展してきたこともあるだろう。)、大和銀行第一審判決の衝撃から、会社法上設けられた内部統制システムは、弁護士としての備範囲だとしても、金商法によって企業情報の開示として上場企業に課される内部統制制度については、会計畑のマターとしてあまり深入りすることはなかった。ただ「財務報告に係る内部統制の評価及び監査の基準並びに財務報告に係る内部統制の評価及び監査に関する実施基準の改訂について(意見書)」をはじめ、会計畑の人の議論は、企業集団(グループ)において、子会社サイドに「内部統制制度」についてどのような法的根拠に基づいてどのような義務があるのかについて必ずしも十分な検討がなされていないようにないように伺われる。金商法上の内部統制報告制度の解説書を見ても、直接この点に言及したものはないようである。
会社不祥事の多くは子会社に生じた(利用した)ものといわれ子会社抜きの内部統制報告制度は実効性がないこと(特に持株会社においては、子会社が事業の主体であること)等の状況に於いて子会社の内部統制の必要性が優先され、小規模の子会社にとって重い負担となる金商法上の内部統制報告制度の整備・運用をすることについて、十分説得的な議論がなされてこなかったという経緯もあるように思われる。

子会社から見た内部統制制度

上場して投資家から資金を集め、金融機関からの借入れ等をする親会社に対して、「内部統制」に関して様々な法的規制や義務が課せられることは容易に理解できるが、小規模な子会社からすると、なぜ親会社と同等の面倒な「内部統制制度」を、整備・運用し、評価手続を受忍しなければならないのか、法的根拠は何か等について、疑問が生じる余地があると思われる。そこで、「内部統制制度」について、会社法、金商法等の位置づけを整理し、企業集団の子会社サイドにおいて「内部統制制度」を整備・運用する必要性、及びその根拠について、企業集団各社の共通の理解に資するために、「企業集団における内部統制制度」をまとめることにした。
た。今後の「内部統制制度」の円滑な整備・運用についての参考とされたい。


   

IT・AI・DX,本の森,人の心と行動

ヘーゲルは分からない

ヘーゲルの法哲学、歴史哲学、あるいは論理学等は、読んでいて何を論じているのかが全く分からないわけではない。しかし、「精神現象学」、それも前半部分はお手上げだ。読んでいて、論じている対象が分からない、内容も分からない、言葉遣いが不快だ、等々がごく普通の反応だと思う。
今後、こういう本を手に取ることもないだろうから、もののついでに少しでも理解しようとKindle本で購入していた「精神現象学上下:熊野純彦訳」 、「超解読!はじめてのヘーゲル『精神現象学』:竹田青嗣、西研(講談社新書)」 等々を読み始めてみたが、上記のとおりの結果である。
「精神現象学」は、ヘーゲル37歳のときの発表(1807年)で、いわば「若書き」だが、なぜかやたらと翻訳されている。邪推であるが、先人の翻訳を読んでも分からないので、自分で翻訳すれば分かるだろうと考えた哲「学者」が何人もいたのだろうか。熊野さんは他にやることがいくらでもあると思うが、廣松さんのお弟子筋だろうからその「遺言」で翻訳したのだろうか(ただカント批判三部作も翻訳しているようなので、哲学の本道を歩んだのだろうか。)。熊野さんの翻訳を読んでも分からない。
「超解読!はじめてのヘーゲル『精神現象学』」は、内容を読み込みそれなりに理解しているであろうふたりが、簡潔に要約していると思われるが、それでも何が書いてあるか分からない。
思うに、「精神現象学」は、ヘーゲルがどのような地域、社会制度、組織の中で生き、どのような既存の知的言語空間で、どのような材料に基づき、どのような対象について、何を目的に書いたのかが、お手上げなのである。
ただ、前半は、意識、自己意識、理性という項目だから、どうも知覚・認知についての分析が、一方でカントをにらみ、一方で世界は神の一部だという前提の元に、ヘーゲルが知っているその当時の知的カタログを披露しつつ書かれたもののように思える。でも、「種の起源」の出版は1859年、ヴントやウィリアム・ジェームズにより心理学が成立したのは1870年代、いずれにせよ「意識」について様々な経験的な事実、現象に向き合って論じたものではなく、圧倒的な材料不足のなかで、ごく少数の哲学者の言説に向き合い、自己の観念で整合的に操作・表現したと思われる。ほぼ時代人のマルクスに対象・方法が面白く、後代のメルロ・ポンティーにも小説のように面白かったのだろうが、私が「精神現象学」を正確に理解したとして、それが私に何をもたらすだろうか。

「わかる」とはどういうことか-認知科学への転進

「精神現象学」が「意識の経験の学」だとすると、現代の「精神現象学」は、「認知科学」だろう。「認知科学」は、一方で、脳科学を、一方でコンピュータ科学を見据えて、AIで何が可能か、何が不可能かを解き明かそうとしている。
ただ「認知科学」の議論は、いささかコンピュータ科学におされて錯綜しているように見えるので、その前に、脳神経学者で、失語症を扱う臨床の脳医学者(あるいは引退されたか)の山鳥重さんの「「わかる」とはどういうことか ―認識の脳科学 (ちくま新書)」 を読み込むのがよい。
本書を読んでびっくりしたが、まさに現代の「意識の経験の学」である。著者は先人の医学、神経学分野の業績を踏まえつつ、自分の経験を元に、自分の頭で考え、心の全体像を明らかにしようとしている。著者には、この他にも、少しずつ焦点の当て方が違う「「気づく」とはどういうことか ─こころと神経の科学 (ちくま新書)」、 「言葉と脳と心  失語症とは何か (講談社現代新書)」 、「心は何でできているのか 脳科学から心の哲学へ (角川選書)」 、「ヒトはなぜことばを使えるか 脳と心のふしぎ (講談社現代新書」 等の入手の容易なKindle本があり、これらを読み比べるともっと興味深い。
山鳥さんの所論をごく簡単にまとめれば、脳と心は違うレベルの現象なので、因果関係はない。心には形のない「感情」がある、y形のある「知覚」がある、内外の情報が「心像」に構成される、記憶された「心像」がある、これを照らし合わせて、区別して、同定する。「知覚心像」に記号としての言語がある。外からの「知覚」「言語」等々で構成される状況が、記憶された「知覚」「言語」と照らし合わされることで「わかる」。「わかる」には、『全体像が「わかる」、整理すると「わかる」、筋が通ると「わかる」、空間関係が「わかる」、仕組みが「わかる」、規則に合えば「わかる」』等、いろいろな「分かる」がある。「わかった」と思うのも、『「直感的に「わかる」」、「まとまることで「わかる」」、「ルールを発見することで「わかる」」、「置き換えることで「わかる」』等といろいろある。
これらの心は、「情」、「知」、「意」とまとめることができる。
著者がもっとも力を入れ、また哲学者、言語学者ではカバーできない、脳の障害がもたらす言語使用の変容を踏まえた「言語」論であり、私も言語が共有化され、意味を持つ仕組みに興味があるので、この部分は重要だ。
上記のまとめはまとめとも言えない乱暴なものだが、非常に「分かりやすく」かつ重要なので、今後も言語論も含めて、「まとめ」、考察を充実させていきたい。

イラストで学ぶ 認知科学-「認知科学」の入口


その上で、例えば「イラストで学ぶ 認知科学:北原義典」の項目を見ると、 感覚、知覚・認知、記憶、注意、知識、考えること(問題解決、意思決定、推論)、言語等々、まさにヘーゲルの「精神現象学」が乏しい手掛かりで追及しようとした(だろう)こと、山鳥さんが脳医学を踏まえて追究しようとしたことが網羅されている。この本は、イラストといっても、心的現象と脳の部位との関係図や、論じられている問題について整理されたカラー図表等が掲載されていてとてもわかりやすい。ただ、「意識の経験」を体系的に論じようとしたものではないが、山鳥さんの所論と重ね合わせて読み進めると、面白し、AI論への入口にもなる。

詳細目次

「「わかる」とはどういうことか」と、「「イラストで学ぶ 認知科学」の詳細目次を掲載しておく。