本の森

著者;戸田山和久

とても気になる本だがいったい何が書いてあるのだろう-全体の流れが見えない

「哲学入門」」を最初に紙本(Real本)で買ってから3年以上が経っていると思う(その後、Kindle本も買った。「「哲学入門」を読む 1」という記事も前に作成した。)。この本は、モノだけのこの世界で、生物に「アフォーダンス(オシツオサレツ表象)」が生じ、ヒトがその発展バージョンである言語による信念と欲求を持って様々な行為の帰結を考えて行動するということはどのように生じたのか、更に、自由、自由意思、責任等々と話が進む。

私は、この宇宙にはモノしかないが生命が生まれ、進化し、その流れの中でヒトの言語、心が生まれ、現在に至ったが、ヒトの直感(システム1/著者の表現では「ニーズと知覚情報によるアフォード」)と理性(システム2/目的手段推論)が錯綜していることに加え、IT、AIがこれを劇的に加速し複雑化させることで、現時点の社会(政治、経済、生活)はアップアップしていると考えている。

したがって私は、著者の立場と方向性に異論はないので、この本の議論を、少しでも今の社会を改善するツールとして使いたいのだが、いやあ実に分かりにくい。個々の記述は軽妙な語り口で十分に入り込めるし、著者の押す方向に滑っていくのは快感さえ覚えるのであるのだが、さてそこが全体のどこに位置するのか、各記述の関係はどうかヒトの進化や「直感とと理性」について、他の研究で指摘されていることとの関係はどうか等々を考えはじめると、うっそうとした森の中で泥沼に足を取られたようで動きが取れない。今、今後のアイデアや仕事に活かしたい本が山ほどたまっているが、いつまでもこの本に引っかかっていると、前に行けない。

一番の原因は、著者がミリカンの議論によって他の哲学者の議論を蹴落とし、ミリカンに結論を集約しようとしたことにあるように思う。私も「意味と目的の世界」(Varieties of Meaning)を買ったが、著者がいうように「なかなか議論が入り組んでいて難しい本だ」。

「定義集・要旨集」(チャート)があって、それを頭に入れて読めば、著者の論理、流れがたどれるような気がしたので、その本当のさわりだけでも、チャレンジしてみようと思って少しはじめたのだが、作業の過程でそれをやっている記事を2つ見つけた。「吉田茂生」さん「シノハラユウキ」さんの記事である。

私はこの本のかなり詳細なレジュメである「KnoNの学び部屋」は知っていたのだが、これはできるだけ細部の表現をまとめようとするもので、全体の流れを理解するのは不適だった。しかし、今回、2つの記事を見つけ、これは十分な「定義集・要旨集」になっていると思われたので、私版の作成は止めることにした(この本の詳細目次だけ、末尾に掲げておく。)。この本に関心を持つ人は、こういう作業をしたくなるようだ。

私は、この本の最重要ポイントだけ、掲記しておこう。

この本の最重要ポイント

モノの世界を流れる情報が、原始生命のアフォーダンス(オシツオサレツ表象)を生み、表象は、指向性、間違い可能性を生み、ヒトは、そこから進化した目的手段推論(信念と欲求を組み合わせて、 目的に適った行動を生み出すシステム)という拡張機能付きのオシツオサレツ動物となった(ここから先の自由と自由意思については、「吉田茂生」さん参照)。

八つ当たり的備忘録

前置き

著者がこの本を書くために膨大な時間を費やしたであろうこと、個々の記述に当たって、ああでもない、こうでもないと、苦渋に満ちた推敲を重ねたであろうことは、十分に推測できる。そのことを考えれば、この本の評者がほぼ口を揃え、「今までほとんど誰もやったことのない自然主義の哲学だから」と、分かりにくさを擁護するのことにも理由がある。でも何度目を通しても、分かりにくい。「こんな本、二度と手に取るか」といって済ませられればいいのだが、実際は、折りに触れ、何回も手に取り、「この部分はすこし分かるねネ。」と、喜んでいる。

しかし、考えてみれば私の仕事である弁護士も、決して自陣に有利とも言えない証拠と、往々にして型にはめた結論しか導くことのできない裁判官を前に、結論も、論理も見えないままに、法律書面(準備書面、弁論要旨等)の執筆をはじめ、膨大な時間を費やして苦渋に満ちた推敲を重ねている。しかも私が最善の書面ができたと思っても、それを私が費やしたおそらく100分の1以下の時間で読み流すだけの読者たる裁判官の読解能力は、私のこの本の読解能力と同じようなものだ(本当をいうと、もっと…だ。)。でも誰も著者のようには、擁護してくれない。

この本の分かりにくさのひとつに、この類の与太話が散在していて、ますます論旨が辿りにくいことにもある。

この本はまだ初版だ。この本の内容がもっともっと整理され、分かりやすくなり、読者の主戦場で役立つようになることを多くの人が期待しているだろう。私もそういう方向へ改訂されることを望むが、多分こういう書きぶりの本は改訂されないかな(唐突であるが、随分昔の話になるが、刑事学の故平野龍一さんの「刑事訴訟法」、「刑法総論ⅠⅡ」と似た匂いがする。後者で平野さんは、団藤さんが。「故意は、構成要件にも属するが、その本籍は責任」という議論をしていることを「故意には、本籍も現住所もない」とからかっていて、笑えた。古い笑い話である。)。

そこで私なりに、この本のこの点はどうなのという点について「備忘録」を作っておこう。

ありそでなさそなもの

著者は、意味、機能、表象、目的、価値等々を列記し、これらは共通してモノではなく、「ありそでなさそでやっぱりあるもの」であるとして、意味とは何かから議論を始める。

でも著者の議論は、モノの世界を流れる情報→原始生命のオシツオサレツ表象とアフォーダンス→目的手段推論付きのオシツオサレツ動物であるヒトへの進化という流れを押さえるのが重要で、読者にそれだけで息切れさせる「意味とは本来の機能」の議論をアフォーダンスさながらに行うことが必要かな。まず「本来の機能」の起源論的説明だけをすれば十分では。

代わりに、議論を支える因果関係とか、推論とかについて、言及がないよね。

でも、第1章「意味」の中のチューリング・テスト、サールの中国語の部屋の議論、及び第5章「目的」のロボットが「自分の問題を持たない」という議論は、AIの理解について役立つけれど。

第4章「表象」の、情報→表象の議論は本当に嫌になるが、それから距離を置くとして、事実的な因果関係としてはどう理解すればいいんだろう。

ついでに、第5章「目的」で、本来の機能と目的は表と裏であるが、目的は多義に使用されているので整理するとされているが、整理されているかなあ?

目的手段推論は英語では?無駄な出費をした私

著者は、この本の中で、目的手段推論の意味を自ら定めているが、それについて、David Papineauやミリカンを援用して議論を進める。この二人は、目的手段推論を英語で何とネーミングしているのだろうか(似たような「概念」かもしれないが)。気になった私は、Amazonで、著者が挙げるDavid Papineauの紙本しかない「The Roots of Reason: Philosophical Essays on Rationality, Evolution, And Probability」を買おうと思ったが、一口では言えない手際の悪さで、間違って、高額なKindle本の「Thinking about Consciousness」を買ってしまった。トホホ…加えて、私が上記「The Roots of …」を買おうと思ったのは、著者が、David Papineauが挙げる認知デザインは6段階あるとしながら、4、5段階についてまったく触れないので、それも確かめたかったのだ。それもできなくなってしまった。トホホ…

刑罰論は「カテゴリー錯誤」?

著者は、ヒトは、目的手段推論付きのオシツオサレツ動物であるということから、限定された意味での自由はあるよね、自由意思はどうかなと論じ、最後に、だったら刑罰を科すのはどうなのという議論をする。

でも刑罰というのは、ヒトが、言語を獲得したあとに、農耕が始まり文字を使用し「暴力装置」といわれる国家が形成されて以降に問題になることで、これについて、複雑化される以前の狩猟採集生活+言語獲得レベルのヒトの議論(バクテリアの進化版)をそのまま持ち込むのは、「カテゴリー錯誤」?だと思う。国家を踏まえたヒトに関する議論は、何重にも屈折せざるを得ない。

多分一番イメージしやすいからだろうか、進化論を踏まえた諸学の研究者は、刑罰論に飛びつく。私はどうかと思う。

おまけたっぷり

でもこの本は、やはり楽しい。チューリング・テスト、サールの中国語の部屋、ロボット論、目的論的意味論、分析哲学批判、理論的定義、「本来の機能」の起源論的説明、シャノンの情報論とエントロピー、ドレツキの「Knowledge and the Flow of Information」(このKindle本も買ってしまった。)ミリカンの表象論、スワンプマン、アフォーダンス、デネットの自由論等々。おまけたっぷりだ。

それはそれとして私は、この本の泥沼からいったん抜け出し、頭を切り替えることにする。

追加

今の政治状況は、とても困ったちゃんだと思う。でも、たまたまつん読本の「啓蒙思想2.0」を手にしたところ、「直感」と「理性」の正確な分析とその使い途を踏まえ、「政治・経済・生活を正気に戻すために」どうすればいいのかについて詳細な検討がされていることに気がつき、興味津々、今の「情況」を切り拓く手掛かりになりそうだ、次はこれを紹介しよう。

法とルール

いま弁護士は、そして明日は?

2004年に、日弁連の弁護士業務改革委員会が刊行した「いま弁護士は、そして明日は?」という本に、当時、同委員会の副委員長としてIT部会長であった私は、「ITが弁護士業務にもたらす影響」という論考を執筆している。

ITの世界で13年前というのは随分「昔」だ。2004年のIT関係の情報を見てみると「日本のGoogleで株価や路線、辞書などの特殊検索が可能に」、「Google、1GBの保存容量を持つウェブメールサービス「Gmail」発表」というのが見付かった。まだそういう時代だったんだなという印象だ、

ところで私が上記論考で何を考えていたかだが、当時の状況として「①裁判所は、全ての判例を電子データベースとして公開すべきだ。②裁判所や検察庁における書面の授受を、Eメールを利用し電子情報で行いたいという要望も強い。③裁判所や検察庁の尋問調書、供述調書等を電子情報で交付すべきだという声もある。さらに、④証人尋問を含む法廷でのやりとりや被疑者、被告人との接見を、インターネットを利用したテレビ会議システムを利用して行うようにすることが大切である、と考える弁護士もいる」と指摘し、「②③については、韓国で既に実現されているし、アメリカや他のIT化に積極的な国でも部分的に実現されている。中期的(3年ないし10年程度)には、充分に実現されると思われる」としているが、駄目でしたね。私は①には、今もそうであるが、あまり乗り気でなかった。日本における「判例」の位置づけという問題もあるし、生の情報から、意味ある情報を取り出すのは、とても難しい。

弁護士業務とAI

ところで、上記論考の中で私は、「デジタル化して収集した生情報(注:事実情報)、法情報を、弁護士の頭の替わりに(ないしこれに加えて)パソコンで稼働させるプログラムによって整理、思考、判断し、結論を表現することを可能とするの開発が急務である。例えば、弁護士が全ての証拠を踏まえて論証する書面(弁論要旨や最終準備書面)を作成するとき、必要な証拠部分を探して引用するのには膨大な時間がかかり、しかもなお不十分だと感じることはよくあるのではないだろうか。あるいは供述の変遷を辿ったり、証拠相互の矛盾を網羅的に指摘したいこともある。このような作業(の一部)は、パソコンの得意な分野である。また少なくても、当方と相手方の主張、証拠、関連する判例、文献等をデジタル情報として集約し、これらを常時参照し、コピー&ベイストしながら、書面を作成することは有益であるし、快感さえ伴う。これらの書面作成をいつまでも手作業ですることは質的にも問題であるし、実際これまで弁護士は忸怩たる思いを抱えながらこれらの作業をこなしていたのではなかろうか。目指すは、当面は進化したワードプロセッサー、データプロセッサーのイメージであるが、データ処理自体に対する考え方の「革命的変化」があることも充分にあり得る。これらのの開発には、練達の弁護士の経験知をモデル化する必要があり、弁護士会がすすんで開発に取り組む必要があろう。」と指摘している。

今振り返るとこれこそ、弁護士業務におけるAIの活用そのものである。

さて、これが実現するかどうか、2045年のシンギュラリティでどうだろうか。AIの道、はるかである。

法とルール

AIが喧(かまびす)しい

最近、AIに関する話題が広く喧伝されている。しばらく本屋さんに行かないと、「人工知能」や「ディープラーニング」に関する新しい本が充ち溢れていてびっくりしてしまう(さすがに、Kindle本は、少し遅れる。)。ネット上での情報の氾濫はいうまでもない。

アメリカのクイズ番組でIBMのワトソンというAIが、歴代のチャンピオン2人に勝利したとか、そのワトソンの改良版が日本でも金融機関や医療機関で採用されたとか、AIが将棋のみならず碁でもプロを圧倒したとか、更にはさほど遠くない時期にAIによる自動運転車が実用化されるとか等々を聞くと、AIの能力が人を凌駕することが現実化しつつあるように思われる。

その結果、人の仕事が奪われるとか、2045年にはAIの能力が人を超えて制御できなくなるシンギュラリティ(技術的特異点)が来るということもいわれている。

私はパソコンもITも大好き人間なので、AIが現実化しつつあることにはゾクゾクしてしまうが、一方、昔からなぜか弁護士の仕事は、早々にAIによって淘汰されるともいわれているので、その意味では心穏やかではいられない。

だが、果たしてそうか。

AIの現状はどうか

そこで最近、「人工知能」や「ディープラーニング」、シリコンバレー発の新しい技術やビジネスの本を読み込んでいる。本当に面白く心がわくわくしてくるし(胡散臭い本も多いけれど)、多面的に読むことで、見えてくることも多い。

今AIが、本当の意味での出発点に立ったことだけは、間違いないといえそうだ。それは、コンピュータの処理能力の劇的な進歩、インターネットを通じて流通するデータの爆発的な増加、増加するデータを収納できるクラウド(サーバー)の普及等に加え、画像認識、音声認識等ではあるが、コンピュータ自身が「特徴量」を取得するアルゴリズム(ディープラーニング)の端緒がひらかれたことによる。

ただまだやっと出発点に立ったに過ぎないというのが正しそうで、特に、ディープラーニングが何を切り拓くことができるかはまだまだ予想しがたいので、人の仕事が奪われるというより、どれだけAIやIoT(「センサー+物+インターネット+データ+クラウド+AI」)によって、これまでにはなかった様々な作業が行え、サービス提供できるものが開発できるかということが、現下の課題だろう。

AIの能力が人を超え制御できなくなるなどということは、到底考える段階ではないようだ(もちろん、想像、考察することは興味深いが。)。

いかにAIと対応すべきか

冷静に考えれば、今後順調にAIやIoTといわれるものが世の中に充ち満ちても、人にとっては新しい商品やサービスが提供されるということに過ぎず、開発者を除く大部分の人にとっては、これまでどおり、いかにこれを受け入れ使いこなすか(どうすればつまらないことで時間や費用を浪費せず、生産性を上げることができるか)という問題が生じるだけである。

そして、人とその新商品や新サービスとの接点(「ユーザーインターフェイス」といえよう。)は、これまでもそうであったように、あるいはこれまでにも増して、人々を多くのストレスにさらすであろう。

現に実現しつつある、自動運転車、ワトソンによる医療判断、兵器のいずれも、人とAIのどちらが主体となって(責任をもって)操作するのかが、当面最大の問題であることが指摘されている(「AIが人間を殺す日」(小林雅一著))。

私が向き合うようなAIやIoTはそんな大それたハードやソフトではないが、それでもそのAIやIoTとどう接し、どう使いこなすかが最大の問題である。

これから何をどうすべきか

上述したように、私はパソコンもITも大好き人間で、これまで膨大な費用と時間と手間をこれに投じ(浪費し)、大きな喜びの他には、ごくごくわずかな成果を得ただけであった。冷静に振り返れば、使いこなせば迅速かつ正確で、大きく生産性を上げることができるであろうITなのに、膨大な費用と時間と手間を浪費してきた一番の原因は、私とITの接点(ユーザーインターフェイス)に穴が空いていたことである。

その穴は、私がいつまでもITのハードやソフトをよちよちとその場しのぎでを使うだけの「初心者消費者」に止まり、それ以上に、コンピュータやアルゴリズム、ネットワークの仕組みを継続的に理解して使いこなそうとしなかったことにある(言い訳ではないが、Web作成の労力のかなりの部分をHTMLのバグの補修に当てなければならないことを知ったときの徒労感は大きかった。)。

だからこれからは、AIやIoTの中味に少しでも立ち入ってソフトやハードに触れながら、これを継続して使いこなすのが大事だと思う。傍観し批評する「初心者消費者」から、これを使いこなす「主体的消費者」へ大変身だ。実はそれには、どうしてもその場限りで限りでぶつ切りされてしまう興味を、少し繋ぐ(継続する)ことに留意するだけでいいのだけれど。

弁護士と「AIと法」との関わり

弁護士と「AIと法」との関わりを考えてみよう。

弁護士とAIの関わりは、弁護士が、弁護士業務にいかにAIを活用するかということであるが、これについて上述したように「弁護士の仕事は、早々にAIによって淘汰される」といわれる。しかしこれは連邦国家でかつ判例法の国であるアメリカでは、何が法であるかの探求に大きな労力が割かれるので、そのためにAIが全面で活躍する余地があるのであろう。単一国家で成文法の国である我が国ではその意味でのAIの活躍の余地がなく、弁護士の業務としてもっとも重要なのは、事実の収集、確定なので、当面、AIによって弁護士が淘汰されることはないと思われる(アメリカでは、証拠開示制度があり、それがほとんんど電子データであるので、、その整理にAIが用いられていると聞くが、少なくても我が国はそのような状況にはない。)。

弁護士と「AIと法」との関わりは、怒濤のように進展するであろうAIやIoTの開発、製作、販売、提供、利用等をいかなるルールの上に載せて行うかという、自ずから国際的な規模とならざるを得ない立法、法令適用、契約、情報保護、及び紛争処理等の問題である。我が国での現時点での弁護士の取り組みは、今の法令ではこうなる、こうなりそうだという程度であるが、それでは法的需要は支えきれない。AIに「主体的」に係わり、弁護士としての仕事をしていく必要がある。

私も可能な限り取り組んでみよう。

今後のための「覚書」

まず、「2004年に私が考えていた「ITが弁護士業務にもたらす影響」」を紹介し、今広く読まれている「人工知能は人間を超えるか」(松尾豊著)から検討しよう。

その他、「人工知能」を網羅的に検討している「教科書」的な本、シリコンバレー発の新しい技術やビジネスの本等、参考になりそうなものを紹介しつつ、新しい動きもフォローしよう。

ただ私は、生命→進化・遺伝→(AIとは異なる)人間の知能(認知)→その人間が作る「社会」という流れの中で、「社会」がこれからも存続し、より円滑に機能することを実現させることに最大の興味がある。いくら新しいAIをたたえようと、戦争と極端な経済的格差を廃絶できないようでは、意味がない。それだけは忘れないようにしなければ。