日々雑感

北杜市の魅力を聞きに

2014年11月29日(土)、北杜市の須玉で開かれた「北杜の魅力再発見」という催しを聞きに行った。

内容は、「南アルプスのエコパーク登録と北杜の自然」(輿水達司山梨県立大学特任教授)、「美しい風景を考える~ヨーロッパと日本~」(箕浦一哉山梨県立大学准教授)の各講演、及びパネルディスカッション「考えよう!!パネルが買える北杜の景観」の3本立てと盛りだくさんである。

講演

輿水教授は地質学者という立場から、南アルプスがユネスコエコパークに登録されたこととその紹介をし(因みに、日本のユネスコエコパークは、1980年(昭和55年)に登録された、志賀高原(長野県、群馬県)、白山(石川県、岐阜県、富山県、福井県)、大台ケ原・大峯山(奈良県、三重県)、屋久島(鹿児島県) 及び2012(平成24)年に登録された綾(宮崎県)、2014年6月11日に正式登録承認された福島県只見地域、南アルプスユネスコエコパークを加えた7カ所だそうである(その紹介)、北杜市で、南アルプスを乗せた「ユーラシアプレート」の下に、東方から「北米プレート」が衝突して沈み込み、さらに南方より伊豆半島を乗せた「フィリピン海プレート」が衝突している、地表で「プレートの3重衝突現象」が観察できる世界的にも貴重な景観であること(この説明は、「ほくと市の歩き方」によった。)、糸魚川静岡構造線が見られること(ミニグランドキャニオン)、市全体が八ヶ岳、奥秩父、南アルプスに囲まれた世界に誇れる自然の宝庫(いわば市全体が自然公園であること)等を語った。

ところで私は上記のエコパークのうち綾以外はすべて(山なので)歩いているが、は初耳だった。照葉樹林の美しい森のようだ。

箕浦教授は、環境社会学を専攻している立場から、オランダのフローニンゲン大学で研究をしていたときに撮影されたオランダを始め、ヨーロッパ各地の美しい町並みや郊外、農村の写真を多数紹介して、景観を守るべき社会的な合意のあり方、規制のあり方等の大枠について語られた。

パネルディスカッション

これらを頭に入れた上でのパネルディスカッションであるが、これは北杜市が日照時間日本一ということもあって、太陽光発電施設の建設が殺到し、上述したような美しい北杜市の町並みや景観に大きな影響があるのに(現在既に400が建設されていて4000が認可されているといういささかショッキングな事実も紹介された。)、その建築について住民が関与する余地が全くないという現状に、市民が危機感を抱いているという現状から企画されたものだ。

太陽光発電施設の建築は、国が電気ユーザーの料金を上乗せして高額な買取料金を維持したり税制上優遇したりして積極的に推進している自然エネルギー政策であること、施設が建築される「遊休地」を保有している「地主」にとっては、棚ぼたの話であることから、これを推進しようとする人や企業も多い。しかし経済的な合理性を欠く不自然で人為的な「政策」なので、やがて破綻するのが必至のいつか来た道ではないかとか、誰かが考えた棚ぼたの話にのってうまくいくのだろうかと突っ込みを入れたくなるが、それは政策論、経営論として横に置こう。

ただ太陽光発電施設を建築するにしても、それはこれまで国や自治体が行ってきた「まちづくり」や「景観」から見た審査を受けるのは当然である。

この日のパネルディスカッションのパネラーは何となく大人しくて、太陽光発電施設建築の是非についてはいろいろと意見があるから地域で話し合って合意を形成しようという、それ自体はまともだが、その場はどこかという方向性に欠けていたと思う。しかし最後に会場から、こんなことをしていたら都会の観光客は来なくなるよとか、遊休地を抱えている農民は食べるのさえ困難でこんなことをいうのは都会から来て木を伐採して住んでいる金持ちの戯言だとか、土地を提供する人は何がどうなるかも、地域の人がどう考えるのかも分からず、場合によっては都会の業者の騙されてさえいる、地域の会話が必要だとかの意見が出て、ずっと深みのある「ディスカッション」になった。

問題は「北杜市の行政」である

私は今回北杜市にある何カ所かの太陽光発電施設をみたが(以前、守屋山の登山口に建築されている異様な施設を見たこともあった。)、北杜市内では、建物(別荘)とかの建築について厳しく制限して自然に溢れる「まちづくり」をし、「景観」についても配慮してきたはずなのに、市民の居住地域にさえ、画然と太陽光発電施設が現れるのは、率直にいって不快であった。ただ多くの禁忌施設がある中で、太陽陽光発電施設の危険性や不快性、醜悪性のレベルは高いとまではいえないだろう。実際に建築される地域の状況に応じて、その是非、及び内容が審査されるべきだろう。

ところで、北杜市には「まちづくり条例」もあれば、「景観条例」もある。その方向性を詳細に検討した、「まちづくり計画」も「景観計画」もある。その内容は実に立派なものである。その延長上で市民の意見を聞くという手続を経て必要な審査をすれば、自ずからまちづくりや景観、自然への影響の大きい太陽光発電施設は建築されず、そうでないものは建築されるということになったであろう。

ところが「北杜市の行政」は、法の改正手によって太陽光発電施設は「工作物」ではなくなったので、「まちづくり条例」も「景観条例」も規制が及ばないという実に愚かな議論を振り回して(この点については別に詳述する。)、太陽光発電施設の建築を野放しにして上述したような現実を招いてしまった。

北杜市は、いずれも私が代理人として関与した旧小淵沢町の談合事件や情報公開事件において愚かな主張をしていずれも敗訴したのに、今回はより質の悪い「政策的考慮」に基づいてかかることをしている。仏の顔も三度という言葉もある。このような現状を改め、反省させるために、今度は、市長や市幹部に直接法的手段を執れないか、北杜市民と共に考え、実行していきたい。繰り返すが私が実現したいことは、単に、太陽光発電施設も「工作物」として北杜市の「まちづくり条例」や「景観条例」の対象となるという当たり前のことである。

法とルール

グサリとくる問い

「弁護士は法律の本は余り読まないのですか?」と聞かれたとしよう。多分、答えは、YESに近い。

弁護士の仕事を大きく分ければ、裁判所における主張と立証(裁判)と、その他の場面での法律に関わる問題についての「意見」表明になるだろう。

これらの前提として、問題となっている法律に関する情報を調べるのは当然で、法律の本にも目を通す。でもそれは「本を読む」作業とは少し違う。もう少し、断片的だ。

「でも司法試験に受かるためにはたくさんの本を読まなければならないと聞いていますよ?」。それは民法や刑事訴訟法等々という各法分野の教科書や参考書を熟読してその法律の仕組みや機能を理解し頭に定着させるためで、その法律の概要や問題の所在、解釈に必要な思考法が頭に入って無事実務家になれば、あとは「調べる」ことがあるぐらいというのが実際であろう。

ただ、「各法分野の教科書や参考書を熟読してその法律の仕組みや機能を理解する」というのが相当に苦痛でしんどい作業なので、本ばかり読んでいるというイメージを持たれてしまうのだろう。もっとも最近は、実際問題として法律の抜本的な改正(会社法や金融商品取引法がそうなるだろうか。民法債権法の改正も行われた。)や、新しい法律の制定(個人情報保護法等々)があるので(ここに挙げたのは、後述する観点からは、「悪法」の最たるものである。)、弁護士もこれらの法律を頭に入れるのが苦痛になっているという面もある。でもそれができないとその法分野については素人と同じだ。

ところで法律実務家でない「行政」畑の人は、法律を扱っていても(立法していても)、何かピントが合っていないことがあるのは、このような過程を経ていない人が多いからだろうと思う。もっとも、弁護士は行政の細かい仕組みを知らないまま大風呂敷を広げる傾向があるから優劣はつけがたいかも知れないが(これは冗談だといっておこう。)。

では藤沢周平を読んでいればいいのか

それは違うだろうというのが私の今の考えである。

まず、法律は、国家組織を構成する政治家や役人が「立法者」という立場で、「国民」を言語でコントロールしようとする手段だから、何よりも「国民」がこれを理解してその行動を規律出来るだけのわかりやすさと実質的な合理性を備えていなければならない(いるべきである。)。現時のわが国の法律の大半は、根本的にかかる資質に欠けている。したがって法律実務家は、この点を意識して、わが国の法律の解読とその改革を目指さなければならないだろう。

さらに遡れば、人と人、集団と集団(含む「国家」)の間の、行動(取引、交換)を円滑に進める手段の一つとして「法」というルールがあるとして、現時のグローバル社会の展開の中でアメリカ法(英語文書)を基本とする「法の支配」が世界の規律としてふさわしいのかという根本的な問題がある。実際に「法」がある種の役割を果たしている分野において、世界標準=アメリカ法という現実に対する批判を進めるために読むべき本は多いねという実践的な問題と、そもそも「法」の果たすべき役割を進化生物学に基づいて検討すべきであるという「哲学的」な問題と二つの問題がある。

2、3の予定

このような観点から、「<日本の立法>批判序説と」を書いてから2年が経ってしまったが、とりあえず、「哲学的」な問題を除いて次のような本が読むべき視野に入っている。

  • 「開発法学の基礎理論 よい統治のための法律学」(松尾弘:勁草書房)。これはやはり重要だ。
  • 「法理学講義」(田中成明:有斐閣)。従前の法哲学も頭に入れる必要がある。
  • 「はじめてのアメリカ法」(樋口範雄:有斐閣)。この人はまともなことを考えているなという安心感がある。

ここのリストはおって充実させていこう。なおこれについては「法を問題解決と創造に活かす」で検討を始めている(18/07/12)。

組織・社会。世界

入口

人類史という観点で書かれた様々な本が出されている。

チンパンジーと分岐して二足歩行を始めた初期ヒト属、250万年に分岐したホモ属、20万年前に分岐したホモ・サピエンスという流れは、まだどちたかといえば動物学だろうが、既に石器の使用、肉食、脳の巨大化という問題もあるので、「動物」だといって知らん顔はできない(「ヒトの進化七〇〇万年史」(ちくま新書:河合信和)。

更に5万年前に出アフリカを果たして世界中に分散していったわずかな集団が、1万2000万年前の定住革命やその後の農業革命を経て「文明」に足を踏み入れて以降の歴史は、まさに人類史だ。日本史を勉強していると、4、5世紀でも文字は使用されておらず、集権権力の状態もよくわからないという状態で、「大昔」=歴史以前という感じだが、その感覚は大きな誤りだろう。出アフリカをした人類が、2万年前か1万年前かは知らないが、日本に到達し、生き延びて文化、文明を築いていった過程は、まさに文明史だ。

私は、40億年くらい前に地球に最初に誕生した生命の子孫ですというのは余りリアリティがないが、5万年前に出アフリカを果たして、その後いろいろな人と別れ、ひもじいこと、危ないこともありましたが、とにかく今の私まで命を繋いできましたというのは、新鮮な驚きだ。世界の人とつまらない諍いをしようなどとは全く思わない。

4冊の本

とりあえず「人類史」として4冊の本が目に入っている。

一番最初に「へえっ」と思ったのが、<The Rational Optimist:How prosperity evolves>by<Matt Ridley>(「繁栄 明日を切り拓くための人類10万年史」(早川書房))である。「分業」という観点から人類の「繁栄」を分析した本で、これには率直にいって感銘を受けた。

その前に、名著の誉れ高い<GUNS,CERMS,AND ATEEL:The Fates of Human Societies>by<Jared Diamond>(「銃・病原菌・鉄 1万2000円にわたる「人類史の謎」(草思社))を買って少し目を通していたが、何となく結論は「西洋から見た未開文明」というようなことかなと思いそのままにしていた(「昨日までの世界」はいいなと思っていたのに、なぜかこちらには手が延びなかった。)。今回もう一度読み直すことにした。

出アフリカをした人類が、再び出会い結びつく(ただし、虐殺も含む。)という観点で書いてあるのが<Bound Together:How Traders, Preachers, Adventurers, and Warriors Shaped Globalization>by<Nayan Chanda>(「グローバリゼーション 人類5万年のドラマ」(NTT出版))。集められた事実はおもしろいが、さてこの先どうなるんだろうかがイメージできない。

一番お勧めなのは<THE COMPANY OF STRANGERS:A Natural History of Economic Life>by<Paul Seabright>(「殺人ザルはいかにして経済に目覚めたか?」(みすず書房))である。改訂版だし、序文を「ダニエル・デネット」(余り知らないかな?)が書いていて、事実だけに止まらない「考察」があって、現時点では一番のお勧めかも知れない。

これから

この4冊の本を読んで、ああそうですかと納得するのが、目的ではない。いずれも分業と生産に注目して、人類は何をしてきたのかを論じているのだから、私はそれを転じて何をどうすればいいのかを考え、実行していきたいと思う。もちろんそのためには、ミクロな観点からの「経営学センス」も大事だし、マクロな開発経済学、法学も重要だと思っている。

出アフリカに比べたら、出日本など、何でない(はずだけど)!