法とルール

 

私が担当した「ふたつの事件」として、陸山会事件と並び、私にとって大きな事件だったのが、「旧小淵沢町官製談合住民訴訟事件」がある。社会的知名度はさほどないが、その内容は多少自慢したくなるものである。これについても「業務案内」、「ふたつの事件」、「旧小淵沢町官製談合住民訴訟事件」に掲載したのでそちらを読んで頂きたい。

法とルール

<日本の法律>のありようを変えよう

会社法、金融商品取引法、個人情報保護法、公職選挙法、政治資金規正法等々、私は、これらを含む多くの法律、政令、規則、ガイドライン、マニュアル等に基づいて行われている現在の日本の<法治主義>は窒息寸前であり、日本の多方面での衰退の少なからぬ理由が、これらの法令の内容とその適用のあり方にあると考えている。

個々の法律の内容の政策としての妥当性は、ここでは暫く置くこととする。それ以前にこれらの法律の構成や表現に大きな問題がある。

誰がこれらの<日本の法律>を読んでこれに従って行動するのか

一番の問題は、これらの法律を誰が読んでこれに従って行動するのかということである。

国民、しかもすべての国民。冗談ではないだろう。一度読んでみればいい。

規定されている問題領域に利害関係、関心がある、ある程度の熱意と学力のある関係者。しかしこれらの法律は、長大、複雑、難解であり、例えば高校卒業程度の学力があり熱意があっても、これらの概要を頭に入れて、これに従って行動する行為規範として機能することを期待するのは無理である。これが私の認識である。したがてまず立法について決議する国会議員は、自分らが読んで分からない法律案は、すべて立法担当者に突き返すべきである。それが審議の第一歩であろう。

問題は、これらの長大、複雑、難解な立法を支えるのは、立法担当者の頭の能力、記憶ではなく、外部記憶、要するにパソコンを利用した、コピー&ペースト立法であるという率直な現実である。自分がコピペによることで初めて条文化が可能な法律を、国民は頭に入れて従えというのは、後出しじゃんけんのようなもので、役人が良くやる方法である。

それと、これらの<日本の法律>には、口語化に伴い、日本語としての構文、文法、論理性としておかしいのではないか、立法担当者の含意が社会的に共有化されていないのではないかという問題もある。特に題目語「は」の用法がとても不安定である。

ただ、これだけを、立法改革の道具とするのは、なかなか苦しい。自分の頭に入らない条文は作らない、日本語として分かりやすいものにする、「は」の用法を精査する、これだけでもかなり違うと思うが、いかんせん「理念」、「方法論」がない。

どういう突破口があるのか

これについては、もともと「」立法の平易化―わかりやすい法律のために」という問題意識を持った学者が集まって、上記の本を作ったが、ご説、ごもっともという状況の中で、立法担当の役人に「正確に表現するためにはやむを得ない面がある」というそれ自体は当然の言訳をさせたまま、問題を深めることができずく、それ以上進展しなかった。

「立法の平易化」のために、自分の頭に入らない条文は作らない、日本語として分かりやすいものにする、「は」の用法を精査する、という方針は正しいが、それを支える考え方、方法論はないか。

「法の支配」という視点

この点、長谷部恭男教授が「法とは何か—法思想史入門 (河出ブックス)」で述べる「法の支配」に関する次の指摘は、とても示唆的である。

「法は道徳と無関係ではありません。ある意味では、道徳の1部であるとさえ言うことができます。しかし、法に存在意義があるとすれば、それは、一人一人が自分に当てはまる道徳は何かを考えるよりも、法に従った方が、自分が取るべき行動をよりよくとることができる、という事情があるからです。そのためには、一般的な理由付けとしての道徳とは独立に、法は何かを見分けることができなければなりません。

さて、この問題は、「法の支配」という概念でくくられる一群の要請と深く関係しています。法の支配という概念もいろいろな意味で使われます。ときには、人権の保障や民主主義の実現など、あるべき政治体制が備えるべき徳目の全てを意味する理念として用いられることもありますが、こうした濃厚な意味合いで使ってしまうと、「法の支配」を独立の議論の対象とする意味が失われます。およそ政治体制について良いことはすべて「法の支配」に含まれることになってしまいます。これから議論する「法の支配」は、現在の法哲学者や政治哲学者の多くが標準的に使う意味合い、つまり、人が法に従うことが可能であるために、法が満たしているべき条件、という希薄な意味のそれです。

法の支配は人の支配と対比されます。ある特定の人々の恣意的な支配ではなく、法に則った支配が存在するためには、そこで言う法が人々の従うことの可能な法でなければなりません。そのために法が満たすべき条件として、次のようないくつかの条件が挙げられてきました。

1つは法が公開されていることです。政府の関係者だけが何が法かを理解していて(たとえばラテン語に書かれているとか) 、一般市民には知られていないようでは、一般市民は法に従って生きることはできません。また、法の内容は明確であることが必要です。「正しく生きよ」というだけの法では、どのようにしたらよいかはわかりません。「人をむやみに傷付けるな」とか「道路は右側を歩け」といった分かりやすさが必要です。ただ、明確ではあっても、法の内容が個人ごとに、また、個別の場面に限定されて細かく決まっていて、相互の関連がわからないようでは、やはり困ります。同じ道を運転するにも、Aさんは右側を通り、Bさんは左側を通るべきだということでは、誰もが安心して車を運転できなくなります。これでは、向こうから安心して運転してくるのが右側通行の車なのか左側通行の車なのかがわかりません。

また、たとえ明確で一般的な内容を持っていたとしても、朝令暮改の有様で、昨日通用していたはずの法が今日は別のものに変わっているというなことでも、やはり法に従って生きることは不可能です。状況の変化に応じて法も改正されていかなければなりませんが、それでも、ある程度の安定性が必要となります。そして、複数の法が互いに矛盾・衝突しないことも重要です。ある法によればタクシーの営業の許可はいらないことになっており、別の法によるとやはり許可がいることになっているとなると、許可がいるのかいらないのか判断がつきません。法が前もって定まっていることも肝心です。すでにやってしまった行為を、後から作った法に基づいて罰したりすることも法の支配に反します。行ってしまった後から出来た法に従うことはできるはずがありません。法律学の世界ではこの事を「事後法の禁止」とか「遡及処罰の禁止」という概念で表します。

さらに法が実行不可能なことを要求しないことも、法の支配の要請の1つです。いくら明確に前もって知らされている法であっても、「政府の要求があれば10分以内に役所に出頭せよ」などという法に従うことはできないでしょう。

そして仮に法がが以上のような要請を満たせしているとしても、その法を適用する公務員が法の定める通りに適用することも必要です。そのためには法が適正に運用されるようコントロールする裁判所の役割も重要となります。

こうした、法の公開性、明確性、一般性、安定性、無矛盾性、不遡及性、実行可能性などの要請が、法の支配の要請と言われるものです。法の支配が成り立つために、こうした条件が要請されること自体は、一般的な実践理性の要請です。法の定めがあって初めて要請される事柄ではありません。

法の支配の要請が守られ、政府がどのように行動するかが一般市民に前もってわかっていて予測可能性が保障されていれば、市民の側としても、自分がどのように行動すべきか、合理的に計画することが可能となりますし、人は自分の幸福を実現しようとして行動を計画するものでしょうから、結果的には、社会全体とし見ても、より多くの人が幸福な暮らしを送ることができる、少なくともその条件を備えることできるといえるでしょう。カントは法の役割とは、多様で相衝突する道徳的判断をする人々の自由な行動を互いに両立させることであると考えましたが、そうした法の役割も、法の支配の妖精を守ることで初めて十分に果たすことができるでしょう。」

長谷部教授は、憲法学者であるから、身をもって行政法規の長大、複雑、難解な場面に立ち会っていないのかも知れないが、そのような場面でこそ法の明快性が要求される。「法の支配」というのは、法の平易化を考える場合に、極めて重要な視点である。

「開発法学」の視点

それと全く偶然だが、昨日、「開発法学の基礎理論: 良い統治のための法律学」(松尾弘著:勁草書房)という本を入手した。「 開発法学は社会の開発を促し、人間の幸福を実現する手段として法を捉えている」、「本書は開発法学の対象領域を発展途上国の法整備への協力に限定せず、あらゆる国家における開発のための法制度改革を視野に入れる」、「社会を、個人、組織、制度および規範体系という4つのレベルからなるものと捉え、その統治システムを構築し、維持するための法制度及び法改革のあり方を探求する」という方法論は、私が日本における立法改革のあり方ととして考えることと共通する。まだ、内容は検討していないが、発展途上国の法整備支援の中で守られるべき法のあり方を我が国にも適用するということはとても興味深い。何よりもプラクティカルであることがいい。

「法と経済学」、「正義論」及び「日本語論」の視点

その他、個別の法律の内容の妥当性の検討も重要であり、そのためには「法と経済学」(ただし、私の見るところ、「法と経済学」をいう人は、多くのの仮定に基づいて推論される「結論」に飛びつきすぎる。)及びロールズの「正義論」(私は、殆ど知らないが)の観点から検討するのが良いのであろう。

既に指摘した「日本語論」の観点も重要である。立法担当者は「正確な表現をしている」というのが、一番のよりどころだろうが、従いようのない規制は、規制自体が無意味なものだ。

いずれにせよ、<日本の法律>のありようの改革について、具体的な方法に基づいて具体的な提言をしていかないと、単なる床屋政談、居酒屋放談で終わってしまう。少しずつでも、考えていきたい。

人の心と行動

吉本 隆明
青春出版社
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一口コメント

歳をとって、世界をワンダーランドに変える方法、あるいは向こうから押し寄せてくる情況とは何か。吉本さんの最後の主戦場は、200メートル四方の「上野」だった。

私的感想

私は、10代、20代の頃は、吉本主義者だった。「共同幻想論」、「言語にとって美とは何か」、「心的現象論序説」には軽く目を通しただけで、それがどのくらいの価値があるかはわからないまま、「原理的な問題はすべて解決済みだ」と嘯き、吉本さんの「情況への発言」とか、政治評論、社会評論の口まねをして「自立」を口にしながら、でも実際は、文学や宗教に関する評論、論説だけ一生懸命読んでいた記憶がある。

率直にいって、吉本さんは、文学、宗教の分野以外は、素人だったと思う。しかし、とにかく問題に食らいつき、少ないが良質の材料の中でよく整理して考えた上で、「気力」「気合い」を充実させ、きわめて飛躍の多い、抽象的かつ情緒的な文体で、問題の「本質」を、切り捨て、かつ歌うので、好きな人にはたまらない魅力があった。それが客観的には、問題の「本質」切開とまではいえず、論述のスタイルも多分に非論理的であっても、あまり的を外したことがなかったので、私は個々の主張はともかく、いつまでも嫌いにはならなかった。

ただ、その分、私も若い頃その一員であったように、追随して物まねをする人が多く、とにかく「知の巨人」などといって持ち上げるのにはいい加減うんざりしていた。この本の帯もそうだ。

二つのことを書こう。

吉本さんは、60年安保の時、警官隊とぶつかる中で警視庁に入り込み、逮捕された。それをずいぶん冷やかされていたが、それはともかく、今から50年前、40年前には、「安保闘争」という「政治闘争」が、人々の行動の中で大きな意味を持っていたことに今更ながら驚かされる。とりあえず若い人にはわからないだろうといってみるが、たとえば、私がいっぱしに物事を考え始めたのを15歳としてその50年前は、1919年になるが、その年の主立った出来事を調べてみると、国際連盟創立、「三・一独立運動」、「五・四運動」、ベルサイユ条約締結だそうで、15歳の私にとって、これらははるか大昔に起きたリアリティのない想像もできない出来事であった。同じことだねというより、今は昔の何倍も変化の速度が速いから、まあ60年安保というのは、私が明治維新について持つぐらいのイメージを思い浮かべればいいか。

吉本さんは、伊豆の海でおぼれかけたことがあり、それから体調を崩したと聞いていた(調べると1996年である。)。この本に収められたエッセイの多くは、上野近辺を素材にした事故後のものである。「足腰と眼を殆ど同時期に悪くして(なって)から」とあるのは、この事故のことを指すのだろうか。本書では、吉本さんの事故前のエッセイにあった、「気力」、「気合い」のクッションがなくなり(オーラといってもいい。)、「もの」がそのまま吉本さんにぶつかり、それを身障者だと自称する吉本さんが、あちらこちらを迷走しながらやり過ごすほんの少しのユーモアがとても魅力的である。本書の書き下ろし「自転車哀歓」がその「極北」である(というような表現もよく使った。)。

吉本さんは、今年(2012年)3月に亡くなられた。本書も魅力的だが、「気力」、「気合い」の充実したままの吉本さんをもう少し見てみたかった。ご冥福をお祈りする。

詳細目次の次に、簡単な「要約・抜粋と考察」があります。

詳細目次