裁判
裁判は闘い?
裁判は、普通の弁護士が依頼される「法律事務」のなかでは、もっとも比重の大きいものです。その裁判という「法律事務」を紹介するのに、「裁判は闘い」という切り口は、いささか変かも知れません。裁判について、当事者は一生懸命弁論部のように口角泡を飛ばすが、裁判官はすぐに真実を見抜き、「自動機械」のように「答えを出す」というイメージをお持ちの方もいるかも知れません。あるいは、裁判は、日常的な営みとは隔絶した、堅苦しく、権威的で、難解なもので、最初から結論が決まっている理不尽なものと思われている方もいるでしょう。
でも実際の裁判は、少し違います。裁判は、民事、刑事、行政を問わず、相対立する両当事者がそれぞれ法律に基づいて獲得すべき「結論」を掲げ、その「結論」を獲得するために様々な「主張」をし「証拠」を出し(この当事者の活動は「殴り合い」に近い面もあります。)、ジャッジ(裁判官)を説得すること、一方、その当事者の活動を第三者であるジャッジ(裁判官)が、その主張、立証の論理性、信用性、確実性を評価し、法律を適用して結論を出すことから成り立つ、事実と論理に基づく知的な勝負といえるでしょう。だから裁判は、本質的に「闘い」です。上手に闘った結果、勝敗(結論)が変わるというのは、納得できないという人も多いと思いますが、どんな勝負だってそうですよね。
裁判の難しさ
ただ裁判の最大の問題は、事実と論理に基づく知的な勝負であるにも拘わらず、勝負の時間が終わっても、その結果が必ずしも予想できないところにあります。私も、最近つくづくと裁判というのは難しいなと思っています。なぜ裁判の結果が予想しにくいのかということについては、次のようなことがいえると思います。
- そもそも限られた資料から事実を認定し、それに法を適用して結論を出すという裁判という作業そのものが、本質的に難しいものであること。
- 裁判官はこれまでは学生からすぐキャリアシステムである裁判所に帰属することから他職経験がなく、往々にして世間的な「常識」に欠ける面もあること。
- 多くの裁判官の中に、権威に弱い心性があるように見えること(刑事事件であれば検察官、行政事件であれば行政庁、民事事件であれば大企業、公的機関を正しいと判断すること。もっとも最近は、消費者至上主義的傾向もあります。)。
- 一部の裁判官ですが、当事者の苦しみを理解し、充分に検討して結論を出そうという意欲、誠実さに欠け、通り一遍の結論を出せば足りるとする傾向があること。
- 更に一方当事者の代理人である弁護士は、どうしても一方当事者の見方に「親和性」を持ち全体像が見えなくなってしまうこと
私はこのようなことから冗談で「裁判はむかしの探湯神盟(クガタチ)と変わらない。」ということもあります。
しかし誤解していただきたくないのは、裁判官だけが、「常識」に欠け、権威に弱く、通り一遍の結論を出せば足りるとする傾向があると非難しているのではないということです。これはこの国の社会、文化のあり方そのものだと思っています。誰でも(したがって私も)その立場になれば同じようなことをするだろうということです。更により普遍的に考えれば、カーネマンが分析するように、人間の思考には「システム1」と「システム2」の2つがあり、システム1は直観的な思考を、システム2は合理的な思考を支えているが、システム1は、我々が日々直面する無数の意思決定の場面で、迅速に判断を下すのに役立つが、一方でバイアス(偏見)を生み出し、時に合理的・論理的な思考を妨げてしまう。要するに、誰の思考にもある、そして生きていくために極めて重要な「システム1」について批判的、意識的に理解、検証しないと、裁判における判断も誤ってしまうということです。いくら「要件事実」を整理して共通の判断基準を作っても、人の思考に内在するバイアスを真正面から取り上げない限り、判断の誤りは減少しません。だから、裁判官を非難するのではなく、実際の裁判の中で、あるいは裁判の仕組み自体の改革の中でそれを打ち破っていかなければならないと思っています。
どう闘うべきか
さて裁判にあたって、何をなし、どう闘うべきか について私は、「徹底した事実調査と、最新の法令・判例・文献の分析に基づき、良識ある法律家として考え、表現し、説得すること」ことがとても大切であり、この「基本方針」に基づいて最善を尽くせば、「道は開ける」と思っています。でもそれでもどうしようもないこともあって、弁護士が(そして当然ですが、依頼者の方も)ストレスを抱えるのは宿命でもあるのですが。