組織・社会。世界

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人類史という観点で書かれた様々な本が出されている。

チンパンジーと分岐して二足歩行を始めた初期ヒト属、250万年に分岐したホモ属、20万年前に分岐したホモ・サピエンスという流れは、まだどちたかといえば動物学だろうが、既に石器の使用、肉食、脳の巨大化という問題もあるので、「動物」だといって知らん顔はできない(「ヒトの進化七〇〇万年史」(ちくま新書:河合信和)。

更に5万年前に出アフリカを果たして世界中に分散していったわずかな集団が、1万2000万年前の定住革命やその後の農業革命を経て「文明」に足を踏み入れて以降の歴史は、まさに人類史だ。日本史を勉強していると、4、5世紀でも文字は使用されておらず、集権権力の状態もよくわからないという状態で、「大昔」=歴史以前という感じだが、その感覚は大きな誤りだろう。出アフリカをした人類が、2万年前か1万年前かは知らないが、日本に到達し、生き延びて文化、文明を築いていった過程は、まさに文明史だ。

私は、40億年くらい前に地球に最初に誕生した生命の子孫ですというのは余りリアリティがないが、5万年前に出アフリカを果たして、その後いろいろな人と別れ、ひもじいこと、危ないこともありましたが、とにかく今の私まで命を繋いできましたというのは、新鮮な驚きだ。世界の人とつまらない諍いをしようなどとは全く思わない。

4冊の本

とりあえず「人類史」として4冊の本が目に入っている。

一番最初に「へえっ」と思ったのが、<The Rational Optimist:How prosperity evolves>by<Matt Ridley>(「繁栄 明日を切り拓くための人類10万年史」(早川書房))である。「分業」という観点から人類の「繁栄」を分析した本で、これには率直にいって感銘を受けた。

その前に、名著の誉れ高い<GUNS,CERMS,AND ATEEL:The Fates of Human Societies>by<Jared Diamond>(「銃・病原菌・鉄 1万2000円にわたる「人類史の謎」(草思社))を買って少し目を通していたが、何となく結論は「西洋から見た未開文明」というようなことかなと思いそのままにしていた(「昨日までの世界」はいいなと思っていたのに、なぜかこちらには手が延びなかった。)。今回もう一度読み直すことにした。

出アフリカをした人類が、再び出会い結びつく(ただし、虐殺も含む。)という観点で書いてあるのが<Bound Together:How Traders, Preachers, Adventurers, and Warriors Shaped Globalization>by<Nayan Chanda>(「グローバリゼーション 人類5万年のドラマ」(NTT出版))。集められた事実はおもしろいが、さてこの先どうなるんだろうかがイメージできない。

一番お勧めなのは<THE COMPANY OF STRANGERS:A Natural History of Economic Life>by<Paul Seabright>(「殺人ザルはいかにして経済に目覚めたか?」(みすず書房))である。改訂版だし、序文を「ダニエル・デネット」(余り知らないかな?)が書いていて、事実だけに止まらない「考察」があって、現時点では一番のお勧めかも知れない。

これから

この4冊の本を読んで、ああそうですかと納得するのが、目的ではない。いずれも分業と生産に注目して、人類は何をしてきたのかを論じているのだから、私はそれを転じて何をどうすればいいのかを考え、実行していきたいと思う。もちろんそのためには、ミクロな観点からの「経営学センス」も大事だし、マクロな開発経済学、法学も重要だと思っている。

出アフリカに比べたら、出日本など、何でない(はずだけど)!

組織・社会。世界

遊動論 柳田国男と山人 (文春新書)

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柄谷 行人
文藝春秋
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最初のコメント

柄谷行人さんは、実はあまり読んだことがなかった。英語教師をしている「文芸評論家」という存在とはあまり接点がないし、「マルクスその可能性の中心」といわれてもねということで、視野の外であった。
しかし最近、人類史の大きな流れをとらえたいという思いの延長で、「世界史の構造」関係の本に何冊か目を通し、確かに問題が大きな視座で捉えられているし、「面白い」部分も多いとは思うのだが、読んでいて何だか落ち着かない。
まず柄谷さんの議論を理解するためには、下記の図式が頭に入っていなければならない(「柄谷行人 政治を語る」(図書新聞79頁より)。
アソシエーションを目指すんだって、その交換様式はわからない?それは普遍宗教なの?という、例えば池田信夫さんのような昔の政治青年からの「突っ込み」があり得るだろうが、今の時代、誰もこれからの社会を構想できていないんだから、それはお互い様でしょうね。
しかし問題は私にはこの図式が理解できないことである。イの交換様式は理解できる。しかし、ロ、特にハは何だろう。単純に「A ネーション」が何をさすのかわからないし、「A ネーション」、「B 国家」、「C 資本(市場経済)」は、カテゴリーのレベルがあっていないのではないだろうか(ロも同じだ。)。少なくても、簡単でもいいから「定義」をし、その関係を提示して議論を進めてくれないと、これだけで嫌になってしまう。

基礎的な交換様式(イ)とその歴史的派生形態(ロ、ハ)
※イ B 収奪と再分配     A 贈与の互酬性
C 貨幣による商品交換 D X

ロ B 専制・封建的国家 A 農業共同体
C 都市         D 普遍宗教

ハ B 国家         A ネーション
C 資本(市場経済)   D アソシエーション

※なお「遊動論」(196頁)では、イは、次のようになっている。
B 再分配 A 互酬(贈与と返礼)
(略取と再分配)(強制と安堵)
C 商品交換(貨幣と商品)D X

それと柄谷さんは、「互酬原理は、遊動的な狩猟採集民の段階には存在せず、定住後に形成されたと考える」、「定住以前の狩猟採集社会には、共同寄託(生産物を平等に分け合う)はあるが互酬的交換はなかったと考えるべきである」(「遊動論」179、182頁)とする。私もそうかなと思うけれども、柄谷さんも共同寄託をしていた時期の人類史を視野に入れているのだから、人類史を1万年前の定住革命以後ではなく、5万年ないし20万年前から語り始めること、更には250万年、700万年前からの進化論による人類理解を元にこれらの図式を再構成する方が、抽象的かも知れないが、より問題解明の核心に近づくのではないだろう。マルクスではなく、ダーウィンから始めて分子生物学を友にした方がいいのではないかと思うんですが。

次のコメント

さてこの「遊動論」も「世界史の構造」理解の一環として書かれたものであるが、その要点は、付論として加えられた「二種類の遊動性」を柳田国男に読み込んだものである(「あとがき」(199頁)で、「これを最初に読んでいただきたい」といわれても・・・)。
要は柳田の「遊動性」の民には、定住以前の「山人」(狩猟採集民的遊動性)と、移動農業・狩猟を行う「山民」、および工芸・武芸をふくむ芸能的漂白民がおり、後者は定住民を支配する権力とつながっているが、「国家に抗するタイプの遊動民は、前者である。これは上記のDにつながっている。
これを柳田の生涯、及び作品を取り上げながら、論じている。私は柳田も余り読んでいないので、柄谷さんの論述の正否については判断できないが、この作品は「文芸評論家」らしい生き生きとした表現に充ちているし、柳田を「正解」せず非難する凡百の学者、評論家の言説が如何に誤りかをその内容がわからなくても「説得」されそうになる筆力に充ちている。もちろん、その是非を判断すべき責任は読者にある。

山ある日々

丹沢と箱根

明神ガ岳からの富士山

今年(2014年)の11月22日(土)から24日(月)までは連休だったが、24日に宴席があり「過食」が予想されたので、22日、23日と、近場の山に行くことにした。最近は「さあ明日は山に行こう」というかけ声止まりが多くて、どうしても山行の間が空くので、いつも「リハビリの山」の繰り返しになる。

1日目は、丹沢で、日向薬師から大山に登り、蓑毛越えを経て蓑毛に、2日目は、箱根で、最乗寺から明神が岳、明星が岳を経て、箱根湯本に下るコースだ(縦走ではありません。念のため)。

どちらも初心者ないし初中級のコースではあるが、5時間から6時間は歩くので、そこそこきつい山ともいえる。特に日向薬師から大山は、3時間弱の上りのうち、最初の40分弱は舗装路の上りだが、あとは見晴台を除きほとんどが階段状の登山道を上り詰めなので、山頂付近になるとかなり苦しい。実はこれまでも体調によって見晴台で嫌になって大山に登らずに、阿夫利神社下社を経て、蓑毛や鶴巻温泉まで行くことも多かった。でも今回はちゃんと登った。

両日とも快晴で、大山からも明神が岳からも、まだ少し薄めの雪を被っている富士山が大きくくっきりと見えたこと、一方、山頂から見下ろす下界の街が冬の霧(あるいは靄?)に覆われていて幻想的だったこと、更には、登山道の至る所で紅葉にこころ奪われることが重なり、どちらも本当に気持ちのよい山行であった。

どうして登りが

ただ・・・。どうも登りが思うように進まない。思えば、10年くらい前に始めた登山の、初心者の頃は、下りは本当にきつかったけど、上りは好きだった。毎週のように山に行っていたときは、上りで抜かれるのは、若いセミプロの男性ぐらいだった。でも、今回は、太めのおじさん、父親と小学生、女性を含む3人連れ等々、どんどん抜かれてしまうし、なにより足が上がらない。要するに加齢プラス怠慢による体力の劣化が甚だしいということだ。

こういうとき、昔の栄光のイメージできつい山に行くと、遭難するんだろうなと妙に納得してしまう。

さてどうするか

私の登山は、快楽登山だ。山に登る、そして下山して温泉に入る、そのあと、お酒をいただき、酒肴に酔う。こんな楽しいことはない。快楽の極みである。それで山に行ってもほとんど痩せない。というよりも、結果的に太ってしまうことも多かった。でもそれは私だけではないと思う。女性は知らないが、山好きのおじさん達には、ぽっちゃり系が多い。

でも考えてみると、それはそれができる年齢と体調だったからだろう。お酒を飲みすぎると辛くなり、山に行くと登りも辛いとなると、考え直すしかない。

要するに山に行きこと自体が快楽にプラスして「健康」に役立たないだろうか。

なぜ「山に登る前に読む本」を手に取ったのか

24日、宴席に出かける前に、ふと最近買って本棚に積んでおいた山に登る前に読む本 運動生理学からみた科学的登山術 (ブルーバックス)“>「山に登る前に読む本」(能勢浩著)というブルーバックスをポケットに入れ、行き帰り目を通した。少し山に行く前の「体力作り」を考える必要があるかなと思ったからだ。

そして次の記述に巡り合った。

「(承前)加齢による体力の低下を防止することが、より安全で、充実した登山になることがわかっていただけたと思う。
一方、この体カの低下が中高年の生活習慣病の根本原因であることをご存知であろうか。私たちの体カは10歳代後半をピークとし、30歳以降10歳加齢するごとに5~10%ずつ体力が低下するのだが、これと医療費が見事に相関するのだ。
私たちは松本市を中心に、5400名の中高年者を対象に、「ィンターバル速歩トレーニング」を実施し、5ヶ月間で体カが10%向上すれば、高血圧、高血糖、肥満などの生活習慣病の諸症状が20%の人で改善し、うつ症状、膝痛閲節症の症状がそれぞれ50%の人で改善することを明らかにした。これらの結果は、中高年者の加齢による体力低下こそが、生活習慣病の根本原因であるということを示している。
生活習慣病のメカニズムについては諸説あるが、加齢、運動不足によって体力が低下すると、体全体に慢性炎症が起こり、これが脂肪細胞に起これば糖尿病、免疫細胞に起これば高血圧、脳細胞に起これば認知症、うつ病、がん抑制遺伝子に波及すればがんになる、という説が有力である。慢性炎症とは、風邪を引いたときにのどが痛くなって発熱したり、傷口にばい菌が入ったりすると局所が痛くなって発熱する、といった具合に、外部から体内に微生物などが侵入すると、それを撃退しようとする生体反応である。むろん、体力低下による炎症はこれほど顕著なものではなく、非常に低レベルだが、全身性に起こることに特徴がある。
では、この慢性症はなぜ起こるのか。一言でいえば、筋肉細胞内で筋収縮のための「ガソリン」に相当するATPを産生する「工場」であるミトコンドリアの劣化である。ミトコンドリアが劣化すると、炎症を引き起こすサイトカインというホルモン様物質が筋肉やその他の臓器で産生され、それが血液中に放出され、生活習慣病の諸症状を引き起こすというのだ。非常に単純明快な学説である。
では、どうすればよいか。答えは簡単。運動トレーニングをして、加齢による体力の低下を防げばよい。実際、私たちと共同研究をおこなつているグループは、中高年者を対象に、5ヶ月間、「インターバル速歩トレーニング」を実施し、その前後に、炎症反応関連遺伝子の活性を測定した。その結果、炎症を促進する遺伝子はことごとく不活性化を引き起こし、逆に炎症を抑制する遺伝子はことごとく活性化していること発見した。すなわち、体力アップのための運動は生活習慣病の症状を改善するが、それが遺伝子レべルでも立証されたのだ。」

どうだろうか。これは私にとってとても新鮮であった。

私は山に早く登れるのは、何となくもともと体力がある人が、上ることに慣れるからだという風に思っていた。快楽登山の影響で、山に行った翌日は、アルコールの影響プラス疲れで、余り体調の良さを感じることもなかったから、登山=体力作りとは余り考えなかった。しかもときどき痛風まで起きていたから。

でも冷静に考えればこれはかなりゆがんだ考えで、頻繁に山に行くことによって「体力作り」ができるのは明らかだ。スポーツクラブに行けば体力作りで、それの何倍も時間を費やす登山が疲れるだけで体力作りにならないはずがない。

私は毎週のように山に行くことでそのときは十分な体力を身につけることができたが、100名山を全部登ったことであまり熱心に山に行かなくなり、行く間隔ももだんだん間遠くなることで、すっかり体力が落ちて上りがダメになったというのが事実であろう。普段から著者推奨の「インターバル速歩トレーニング」を取り入れるかどうかはさておいても、頻繁に山に行けば、体力がつき、生活習慣病を追い払うことができるだろう。登山を体力作りに利用しよう。そのためには、下山後の「快楽」を少しひかえればいいだろう。もうそういう年齢だな。

思い出したこと

そういえば、大雄山線の電車、最乗寺までのバスに、80歳で山に行くという「老人」がいた。誰彼なしに話しかけ、とりとめのない話をするので、立派だなとは思いつつ、少し敬遠していた。「明星が岳まで行って今日は早く下りる。」といっていたが大丈夫だったろうか。私が80歳になったときに山に行けるかどうかはわからないが、行けるのであれば余り人にもたれかからないで行きたいと思う。それでふと思い出したのだが、5、6年前になるだろうか、西丹沢の犬越路から大室山、加入道山をぐるっと回ったときのバスの中に同じように話好きの「老人」がいた。詳細は忘れたが、どこかで「やはり無理だから引き返す。」というようなことを聞いたような記憶がある。ひょっとしたら同じ人かも知れない。

とにかく高齢になっても山に行くことは素晴らしいことだが、体力の維持に努めること、ぼけないこと、そして余り人もたれかからないことが大切だろう。自分にしかと言い聞かせよう。