本の森,組織・社会。世界

「動物になって生きてみた」(著者:チャールズ・フォスター)(Amazonにリンク

 

熟読するのは辛いがこの本の世界を這い回るのは楽しい

著者がこの本の中で「生きてみた」動物は、アナグマ、カワウソ、キツネ、アカシカ、アマツバメ!!

著者の文章はペダンチックだがウイットに富んでいて、エッセイとして面白いところも多いが、いかんせん長すぎる。というのは、一体著者が「動物になって生きてみる」ために、具体的に何をしているのかが、この文章、文体では把握しづらく、絶えず長大な哲学的な詩を浴びせかけられている感じだ。

アナグマ、キツネ、アカシカ

著者はアナグマについて、イギリスの荒涼たる原野を、子どもと一緒になって穴を掘り、アナグマ目線で這い回り、食べ物も少しアナグマを真似たようだ。

キツネは、ぼろをまとって透明になり、街中を彷徨する。

アカシカでは、猟犬に追いかけられる体験をしている。

いずれも、殺伐たる生きるための世界だ。ネズミ、モグラが氾濫する世界だ。でも、それ以上に思いが広がらない。

カワウソ、アマツバメ

文句なしに面白いのが、カワウソ。「カワウソの安静時の代謝は、同じくらいの大きさの動物より40パーセント高い。泳いでいるあいだには、なかでも冷たい水で泳げば、それが大幅に上昇する」。その結果、起きている6時間の間に、体重95キロの著者に換算すると、ビッグマック88個分の殺戮をして食物を食べなければならないそうだ。そのため広大な地域を放浪し、侵入者が魚を奪うのを防ぐ。その結果、死んだカワウソを解剖するとほぽ半数以上で直前の争いの跡が見付かる。「傷は非常に不快なものだ。水中で戦うカワウソは相手の下腹部と性器を狙う。腹は裂かれて内臓が飛び出し、睾丸は引きちぎられ、ペニスはへし折られる。それでもまだましなほうで、最悪の傷は私たちの目に入らない」。なんてことだ。

一方、アマツバメは、21歳ぐらいまで生きるが、人間との違いは、「1年に注ぎ込んでいる生きることの量にある。数字にはある種の真実が含まれているから、少し計算をしてみよう。アマツバメは毎年、春と秋に、オックスフォードとコンゴのあいだの約9000キロメートルを移動する。1年あたりでは1万8000キロメートルになる」。これにふだんの暮らしで飛ぶ距離は数えると、1年の合計が、4万8375キロメートル、合計で101万5875キロメートル。これは地球と太陽のあいだの距離のおよそ150分の1、地球と月の間の距離の2.6倍にあたる。」。

日本の自然

この本に描かれているイギリスの自然は、荒涼たるものだ。一方、これに見合う日本の自然に思いいたらない。

服部文祥さんという登山家がいて「サバイバル登山」、「狩猟サバイバル」、「ツンドラ・サバイバル」という一連のサバイバル登山ものの他に、「百年前の山を旅する」という装備を100年前に戻して登山してみるという企ての本もあって、登山好きには憧れのスーパースターである(本を探してみたのだが、事務所移転時に数千冊を寄付した中に入っていたようだ。)。自分でよたよたと登山する人間にとっては、そのすごさがとてもよく分かるのだが、冒険家としてのパフォーマンスが不十分とする「観客」や、その振る舞いが自然を害するいう「文明批評家」もいて、なかなか大変のようだ。

服部さんの営みは、あくまで人間から自然に接近するアプローチだったと思うが、この著者は「動物になって生きてみた」(Being a Beast)というのだから、発想が真逆だ。しかし、率直にいって、服部さんの本の方がはるかに面白い。

なお著者には、Very Short Introductionsシリーズの「Medical Law」という著書もあり、弁護士でもあるようだ。一体どういう人なのだろう。

目次

第1章 野生の生きものになるということ
第2章 土その1―アナグマ
第3章 水―カワウソ
第4章 火―キツネ
第5章 土その2―アカシカ
第6章 風―アマツバメ

法とルール

著者:水野祐

若い世代の意欲的な試み

この本は、少し前に、若い弁護士が書いた法のあり方について論じた珍しい本だと思い、紙本を買ったが、なんせ、文字が小さくてとても読む気にならず、放置していた(私の老眼というより「本のデザイン」の問題である?)。

それとは別に、「ネット時代では、商業活動と各種の共有活動が並置・相補関係にあるハイブリッド経済/文化こそが主流となるため、それを発展させる制度改革」を主張する「REMIX ハイブリッド経済で栄える文化と商業のあり方」(ローレンス・レッシグ著)を読み始め、遡って同じ著者の「コード2.0」「コモンズ」「FREE CULTURE」も読んでみなくちゃと思っていた矢先、関連するKindle本としてこの本があるのを見つけ、早速買ってみた。

この本はレッシグの「思想」を十分に消化し(「早わかりレッシグ」としても使える。)、我が国の現状にぶつけ、更に実践的な解決策を探ろうという意欲的な本であり、いたく感心した。さらに現代の世界の文化を幅広く捉えていて、私は一体何をしていたのだろうという痛切な思いを誘う。

これまで日本の弁護士はどうしても「裁判所」「実務書」の世界に圧倒され、思想として法を考えることが苦手であった。しかし、著者は、レッシグを足場に、軽やかにネットと法の世界を裁断する。その手際は見事である。こういうふうに世界が見えている限り、先頭を走れるだろう。だが…。

「直観」と「理性」の相克する人間が構成する複雑性社会

問題は、レッシグと同じくその出発点となる「人間像」である。どういう一般的な特質を持つ人間が社会を構成し、そのような社会はどのように動くのか。その中で、人間の理性に基づく有用な「法のデザイン」が、どのように国家とそれを誤導する政治家、行政組織を「規制」すれば、図れるのかといういう観点が、希薄、ないし存在しない。だからどうしても平板な議論に終わってしまうような気がする。

だから、今あらゆる研究分野で進展しているように、出発点をもう少し前にして(キャッチフレーズふうにいえば、「「直観」と「理性」の相克する人間が構成する複雑性社会」)議論と仕組みを組み立てたら、どんなに素敵だろうと思う。

著者に難癖をつける前に自分でやれ、そのとおりだ。でもその際、この本がとても役立つのは間違いない(特に第2部は、圧巻だ。)。

詳細目次

 

本の森

著者;戸田山和久

とても気になる本だがいったい何が書いてあるのだろう-全体の流れが見えない

「哲学入門」」を最初に紙本(Real本)で買ってから3年以上が経っていると思う(その後、Kindle本も買った。「「哲学入門」を読む 1」という記事も前に作成した。)。この本は、モノだけのこの世界で、生物に「アフォーダンス(オシツオサレツ表象)」が生じ、ヒトがその発展バージョンである言語による信念と欲求を持って様々な行為の帰結を考えて行動するということはどのように生じたのか、更に、自由、自由意思、責任等々と話が進む。

私は、この宇宙にはモノしかないが生命が生まれ、進化し、その流れの中でヒトの言語、心が生まれ、現在に至ったが、ヒトの直感(システム1/著者の表現では「ニーズと知覚情報によるアフォード」)と理性(システム2/目的手段推論)が錯綜していることに加え、IT、AIがこれを劇的に加速し複雑化させることで、現時点の社会(政治、経済、生活)はアップアップしていると考えている。

したがって私は、著者の立場と方向性に異論はないので、この本の議論を、少しでも今の社会を改善するツールとして使いたいのだが、いやあ実に分かりにくい。個々の記述は軽妙な語り口で十分に入り込めるし、著者の押す方向に滑っていくのは快感さえ覚えるのであるのだが、さてそこが全体のどこに位置するのか、各記述の関係はどうかヒトの進化や「直感とと理性」について、他の研究で指摘されていることとの関係はどうか等々を考えはじめると、うっそうとした森の中で泥沼に足を取られたようで動きが取れない。今、今後のアイデアや仕事に活かしたい本が山ほどたまっているが、いつまでもこの本に引っかかっていると、前に行けない。

一番の原因は、著者がミリカンの議論によって他の哲学者の議論を蹴落とし、ミリカンに結論を集約しようとしたことにあるように思う。私も「意味と目的の世界」(Varieties of Meaning)を買ったが、著者がいうように「なかなか議論が入り組んでいて難しい本だ」。

「定義集・要旨集」(チャート)があって、それを頭に入れて読めば、著者の論理、流れがたどれるような気がしたので、その本当のさわりだけでも、チャレンジしてみようと思って少しはじめたのだが、作業の過程でそれをやっている記事を2つ見つけた。「吉田茂生」さん「シノハラユウキ」さんの記事である。

私はこの本のかなり詳細なレジュメである「KnoNの学び部屋」は知っていたのだが、これはできるだけ細部の表現をまとめようとするもので、全体の流れを理解するのは不適だった。しかし、今回、2つの記事を見つけ、これは十分な「定義集・要旨集」になっていると思われたので、私版の作成は止めることにした(この本の詳細目次だけ、末尾に掲げておく。)。この本に関心を持つ人は、こういう作業をしたくなるようだ。

私は、この本の最重要ポイントだけ、掲記しておこう。

この本の最重要ポイント

モノの世界を流れる情報が、原始生命のアフォーダンス(オシツオサレツ表象)を生み、表象は、指向性、間違い可能性を生み、ヒトは、そこから進化した目的手段推論(信念と欲求を組み合わせて、 目的に適った行動を生み出すシステム)という拡張機能付きのオシツオサレツ動物となった(ここから先の自由と自由意思については、「吉田茂生」さん参照)。

八つ当たり的備忘録

前置き

著者がこの本を書くために膨大な時間を費やしたであろうこと、個々の記述に当たって、ああでもない、こうでもないと、苦渋に満ちた推敲を重ねたであろうことは、十分に推測できる。そのことを考えれば、この本の評者がほぼ口を揃え、「今までほとんど誰もやったことのない自然主義の哲学だから」と、分かりにくさを擁護するのことにも理由がある。でも何度目を通しても、分かりにくい。「こんな本、二度と手に取るか」といって済ませられればいいのだが、実際は、折りに触れ、何回も手に取り、「この部分はすこし分かるねネ。」と、喜んでいる。

しかし、考えてみれば私の仕事である弁護士も、決して自陣に有利とも言えない証拠と、往々にして型にはめた結論しか導くことのできない裁判官を前に、結論も、論理も見えないままに、法律書面(準備書面、弁論要旨等)の執筆をはじめ、膨大な時間を費やして苦渋に満ちた推敲を重ねている。しかも私が最善の書面ができたと思っても、それを私が費やしたおそらく100分の1以下の時間で読み流すだけの読者たる裁判官の読解能力は、私のこの本の読解能力と同じようなものだ(本当をいうと、もっと…だ。)。でも誰も著者のようには、擁護してくれない。

この本の分かりにくさのひとつに、この類の与太話が散在していて、ますます論旨が辿りにくいことにもある。

この本はまだ初版だ。この本の内容がもっともっと整理され、分かりやすくなり、読者の主戦場で役立つようになることを多くの人が期待しているだろう。私もそういう方向へ改訂されることを望むが、多分こういう書きぶりの本は改訂されないかな(唐突であるが、随分昔の話になるが、刑事学の故平野龍一さんの「刑事訴訟法」、「刑法総論ⅠⅡ」と似た匂いがする。後者で平野さんは、団藤さんが。「故意は、構成要件にも属するが、その本籍は責任」という議論をしていることを「故意には、本籍も現住所もない」とからかっていて、笑えた。古い笑い話である。)。

そこで私なりに、この本のこの点はどうなのという点について「備忘録」を作っておこう。

ありそでなさそなもの

著者は、意味、機能、表象、目的、価値等々を列記し、これらは共通してモノではなく、「ありそでなさそでやっぱりあるもの」であるとして、意味とは何かから議論を始める。

でも著者の議論は、モノの世界を流れる情報→原始生命のオシツオサレツ表象とアフォーダンス→目的手段推論付きのオシツオサレツ動物であるヒトへの進化という流れを押さえるのが重要で、読者にそれだけで息切れさせる「意味とは本来の機能」の議論をアフォーダンスさながらに行うことが必要かな。まず「本来の機能」の起源論的説明だけをすれば十分では。

代わりに、議論を支える因果関係とか、推論とかについて、言及がないよね。

でも、第1章「意味」の中のチューリング・テスト、サールの中国語の部屋の議論、及び第5章「目的」のロボットが「自分の問題を持たない」という議論は、AIの理解について役立つけれど。

第4章「表象」の、情報→表象の議論は本当に嫌になるが、それから距離を置くとして、事実的な因果関係としてはどう理解すればいいんだろう。

ついでに、第5章「目的」で、本来の機能と目的は表と裏であるが、目的は多義に使用されているので整理するとされているが、整理されているかなあ?

目的手段推論は英語では?無駄な出費をした私

著者は、この本の中で、目的手段推論の意味を自ら定めているが、それについて、David Papineauやミリカンを援用して議論を進める。この二人は、目的手段推論を英語で何とネーミングしているのだろうか(似たような「概念」かもしれないが)。気になった私は、Amazonで、著者が挙げるDavid Papineauの紙本しかない「The Roots of Reason: Philosophical Essays on Rationality, Evolution, And Probability」を買おうと思ったが、一口では言えない手際の悪さで、間違って、高額なKindle本の「Thinking about Consciousness」を買ってしまった。トホホ…加えて、私が上記「The Roots of …」を買おうと思ったのは、著者が、David Papineauが挙げる認知デザインは6段階あるとしながら、4、5段階についてまったく触れないので、それも確かめたかったのだ。それもできなくなってしまった。トホホ…

刑罰論は「カテゴリー錯誤」?

著者は、ヒトは、目的手段推論付きのオシツオサレツ動物であるということから、限定された意味での自由はあるよね、自由意思はどうかなと論じ、最後に、だったら刑罰を科すのはどうなのという議論をする。

でも刑罰というのは、ヒトが、言語を獲得したあとに、農耕が始まり文字を使用し「暴力装置」といわれる国家が形成されて以降に問題になることで、これについて、複雑化される以前の狩猟採集生活+言語獲得レベルのヒトの議論(バクテリアの進化版)をそのまま持ち込むのは、「カテゴリー錯誤」?だと思う。国家を踏まえたヒトに関する議論は、何重にも屈折せざるを得ない。

多分一番イメージしやすいからだろうか、進化論を踏まえた諸学の研究者は、刑罰論に飛びつく。私はどうかと思う。

おまけたっぷり

でもこの本は、やはり楽しい。チューリング・テスト、サールの中国語の部屋、ロボット論、目的論的意味論、分析哲学批判、理論的定義、「本来の機能」の起源論的説明、シャノンの情報論とエントロピー、ドレツキの「Knowledge and the Flow of Information」(このKindle本も買ってしまった。)ミリカンの表象論、スワンプマン、アフォーダンス、デネットの自由論等々。おまけたっぷりだ。

それはそれとして私は、この本の泥沼からいったん抜け出し、頭を切り替えることにする。

追加

今の政治状況は、とても困ったちゃんだと思う。でも、たまたまつん読本の「啓蒙思想2.0」を手にしたところ、「直感」と「理性」の正確な分析とその使い途を踏まえ、「政治・経済・生活を正気に戻すために」どうすればいいのかについて詳細な検討がされていることに気がつき、興味津々、今の「情況」を切り拓く手掛かりになりそうだ、次はこれを紹介しよう。