法とルール

AIが喧(かまびす)しい

最近、AIに関する話題が広く喧伝されている。しばらく本屋さんに行かないと、「人工知能」や「ディープラーニング」に関する新しい本が充ち溢れていてびっくりしてしまう(さすがに、Kindle本は、少し遅れる。)。ネット上での情報の氾濫はいうまでもない。

アメリカのクイズ番組でIBMのワトソンというAIが、歴代のチャンピオン2人に勝利したとか、そのワトソンの改良版が日本でも金融機関や医療機関で採用されたとか、AIが将棋のみならず碁でもプロを圧倒したとか、更にはさほど遠くない時期にAIによる自動運転車が実用化されるとか等々を聞くと、AIの能力が人を凌駕することが現実化しつつあるように思われる。

その結果、人の仕事が奪われるとか、2045年にはAIの能力が人を超えて制御できなくなるシンギュラリティ(技術的特異点)が来るということもいわれている。

私はパソコンもITも大好き人間なので、AIが現実化しつつあることにはゾクゾクしてしまうが、一方、昔からなぜか弁護士の仕事は、早々にAIによって淘汰されるともいわれているので、その意味では心穏やかではいられない。

だが、果たしてそうか。

AIの現状はどうか

そこで最近、「人工知能」や「ディープラーニング」、シリコンバレー発の新しい技術やビジネスの本を読み込んでいる。本当に面白く心がわくわくしてくるし(胡散臭い本も多いけれど)、多面的に読むことで、見えてくることも多い。

今AIが、本当の意味での出発点に立ったことだけは、間違いないといえそうだ。それは、コンピュータの処理能力の劇的な進歩、インターネットを通じて流通するデータの爆発的な増加、増加するデータを収納できるクラウド(サーバー)の普及等に加え、画像認識、音声認識等ではあるが、コンピュータ自身が「特徴量」を取得するアルゴリズム(ディープラーニング)の端緒がひらかれたことによる。

ただまだやっと出発点に立ったに過ぎないというのが正しそうで、特に、ディープラーニングが何を切り拓くことができるかはまだまだ予想しがたいので、人の仕事が奪われるというより、どれだけAIやIoT(「センサー+物+インターネット+データ+クラウド+AI」)によって、これまでにはなかった様々な作業が行え、サービス提供できるものが開発できるかということが、現下の課題だろう。

AIの能力が人を超え制御できなくなるなどということは、到底考える段階ではないようだ(もちろん、想像、考察することは興味深いが。)。

いかにAIと対応すべきか

冷静に考えれば、今後順調にAIやIoTといわれるものが世の中に充ち満ちても、人にとっては新しい商品やサービスが提供されるということに過ぎず、開発者を除く大部分の人にとっては、これまでどおり、いかにこれを受け入れ使いこなすか(どうすればつまらないことで時間や費用を浪費せず、生産性を上げることができるか)という問題が生じるだけである。

そして、人とその新商品や新サービスとの接点(「ユーザーインターフェイス」といえよう。)は、これまでもそうであったように、あるいはこれまでにも増して、人々を多くのストレスにさらすであろう。

現に実現しつつある、自動運転車、ワトソンによる医療判断、兵器のいずれも、人とAIのどちらが主体となって(責任をもって)操作するのかが、当面最大の問題であることが指摘されている(「AIが人間を殺す日」(小林雅一著))。

私が向き合うようなAIやIoTはそんな大それたハードやソフトではないが、それでもそのAIやIoTとどう接し、どう使いこなすかが最大の問題である。

これから何をどうすべきか

上述したように、私はパソコンもITも大好き人間で、これまで膨大な費用と時間と手間をこれに投じ(浪費し)、大きな喜びの他には、ごくごくわずかな成果を得ただけであった。冷静に振り返れば、使いこなせば迅速かつ正確で、大きく生産性を上げることができるであろうITなのに、膨大な費用と時間と手間を浪費してきた一番の原因は、私とITの接点(ユーザーインターフェイス)に穴が空いていたことである。

その穴は、私がいつまでもITのハードやソフトをよちよちとその場しのぎでを使うだけの「初心者消費者」に止まり、それ以上に、コンピュータやアルゴリズム、ネットワークの仕組みを継続的に理解して使いこなそうとしなかったことにある(言い訳ではないが、Web作成の労力のかなりの部分をHTMLのバグの補修に当てなければならないことを知ったときの徒労感は大きかった。)。

だからこれからは、AIやIoTの中味に少しでも立ち入ってソフトやハードに触れながら、これを継続して使いこなすのが大事だと思う。傍観し批評する「初心者消費者」から、これを使いこなす「主体的消費者」へ大変身だ。実はそれには、どうしてもその場限りで限りでぶつ切りされてしまう興味を、少し繋ぐ(継続する)ことに留意するだけでいいのだけれど。

弁護士と「AIと法」との関わり

弁護士と「AIと法」との関わりを考えてみよう。

弁護士とAIの関わりは、弁護士が、弁護士業務にいかにAIを活用するかということであるが、これについて上述したように「弁護士の仕事は、早々にAIによって淘汰される」といわれる。しかしこれは連邦国家でかつ判例法の国であるアメリカでは、何が法であるかの探求に大きな労力が割かれるので、そのためにAIが全面で活躍する余地があるのであろう。単一国家で成文法の国である我が国ではその意味でのAIの活躍の余地がなく、弁護士の業務としてもっとも重要なのは、事実の収集、確定なので、当面、AIによって弁護士が淘汰されることはないと思われる(アメリカでは、証拠開示制度があり、それがほとんんど電子データであるので、、その整理にAIが用いられていると聞くが、少なくても我が国はそのような状況にはない。)。

弁護士と「AIと法」との関わりは、怒濤のように進展するであろうAIやIoTの開発、製作、販売、提供、利用等をいかなるルールの上に載せて行うかという、自ずから国際的な規模とならざるを得ない立法、法令適用、契約、情報保護、及び紛争処理等の問題である。我が国での現時点での弁護士の取り組みは、今の法令ではこうなる、こうなりそうだという程度であるが、それでは法的需要は支えきれない。AIに「主体的」に係わり、弁護士としての仕事をしていく必要がある。

私も可能な限り取り組んでみよう。

今後のための「覚書」

まず、「2004年に私が考えていた「ITが弁護士業務にもたらす影響」」を紹介し、今広く読まれている「人工知能は人間を超えるか」(松尾豊著)から検討しよう。

その他、「人工知能」を網羅的に検討している「教科書」的な本、シリコンバレー発の新しい技術やビジネスの本等、参考になりそうなものを紹介しつつ、新しい動きもフォローしよう。

ただ私は、生命→進化・遺伝→(AIとは異なる)人間の知能(認知)→その人間が作る「社会」という流れの中で、「社会」がこれからも存続し、より円滑に機能することを実現させることに最大の興味がある。いくら新しいAIをたたえようと、戦争と極端な経済的格差を廃絶できないようでは、意味がない。それだけは忘れないようにしなければ。

日々雑感

 

羽田空港から淡路町への移転の中での「かくも長き不在」

羽田空港の法律事務所を後にしたのが2月末。3月いっぱいは、移転したカクイ法律事務所での片付けと仕事の態勢づくりに追われ、さて4月になったので、これから新しいことに取り組もうと思っていたその第1日目である4月1日、中高時代の友人とイタリアンでこれからの人生について気炎をあげたその帰りの電車で、久しぶりに痛風の発作、しかも今までにない大発作に襲われてしまった。大きな痛みは3週間くらいで収まったものの、足や膝の小さな痛み、違和感は、2ヶ月くらい続いた。そこへ、膨大な時間を要する、某訴訟及び某市の議員サイドから依頼された条例作りの仕事が重なり、動きたくても動けない中での、実に悲惨な4月、5月となってしまった。

それでも少しずつ回復し、スポーツクラブのジャグジー(元は子供用プール)を歩くことから始め、土・日に散発的にしていた超超スロージョギングが再開できたのがつい10日前、でもまだ初心者コースであっても山歩きをする「勇気」はない(途中で、万が一歩けなくなると思うと…)。しかも痛みが取れてからも、思いどおりに動けない日が続いたので、体力そのものが落ちてしまい、筋トレもウォーキングもやる気がしない結果、直近の健康診断で、史上最高の、体重、腹囲を記録してしまった。早くもとの普通のメタボに戻りたい!

しかし徐々に事態は好転しつつある(に違いない。)。仕事は、もう大丈夫だ。山歩きも、もう少ししたらできるだろう。しかも、4歳になったばかりの最愛の孫娘から、最近「じいじは、すごい山に、どんどん登るんだって。」と言われたのだから、「山男大復活」しかない(こういう気負いが、よく「遭難」の原因となる。)。

これが今回のかくも長き不在の理由だ。でもよく考えると、WEB投稿の不在の理由にはならないような気がする

弁護士の仕事をしよう

3年前、羽田空港に法律事務所を設けたときは、以後は、ビジネスジェット機を利用した国際医療搬送事業の立ち上げに注力し、基本的にその範囲内で弁護士業務をしようと思っていたのだが、諸事情により「出発は遂に訪れず」。淡路町への事務所移転を契機に、新しい気持ちで弁護士業務に取り組む意気込みがわいてきたが、痛風で2ヶ月丸々頓挫したのは、上記のとおりである。

さて私が基本として取り組む仕事の分野は、会社法と行政法であり、応用分野として、知財法、IT・AI法、医事法、労働法、税法、環境法(含都市計画、廃棄物処理、FIT等)、航空法等を視野に入れている(もちろん、普通の市民が遭遇する民事事件も、やります。)。

ここで正直に言うと、私はこれまで余り「法律」が好きでなかったので、国際医療搬送事業の立ち上げに関与しようと思ったのだが、この点は、淡路町に来て、大きく「転向」した。

その原因は、ひとつは、「法律」を「命令」というより承認による「ルール」だと考えると、法律自体の改革も視野に入れて、これを有効に利用、活用できるし、すべきだと今さらながら気がついたこと、もう一つは、某市の議員サイドから依頼された条例を一から書いて見て、法令の作成(立法)作業はなかなか面白いし、その適用を考えることは「ゲーム」だなと思ったことである。何と私は、深夜、スマホやタブレットの法令集で、今まで見たことも触ったこともない法令を読んで、その位置づけや意味を解析するのが誠に面白いと思うようになったのである。

要するに「法律」は、「ルール」に基づく「ゲーム」なのだ。

そうすると、今までできが悪くて見るのも嫌だと思っていた「会社法」や、どこに何が書いてあるのだか、膨大な法令の関係に途方に暮れていた「行政法」も、楽しくなってきた。その他の個別法も、解読するのが苦痛でなくなった。

ただ急いで言うと、今現在我が国で起案されつつある法令は、複雑で、非常に分かりにくいという傾向がどんどん加速されている。その原因であるが、ひとつは、「()書きの多用」によって、解読するのが極めて難解になっていること(起案する側からすると、勝手な指示ができる()書きは極めて便利である。)、ふつめは、いくら長文(あるいは長文と短文の羅列)になろうと、「並びに、及び」、「又は、若しくは」を、法令執務に従って正確に表現しようとして日本語として見苦しくなっていること(これは慣れると、係り受け関係が分かりやすくなるが、文章を短くすればいいのである。)、みっつめはもともとスッキリしていた法令に増改築を繰り返した結果、もとも構造が分からなくなってきていること等を指摘できる。

現在の複雑怪奇な法令の作成作業は、パソコンがあるからこそできるのであって、紙に鉛筆で書くのでは、到底できない。しかし、ヒトの「ルール」としては、紙に鉛筆で書いて作成できるぐらいの内容が、ちょうどよい。それ以上複雑になると、「評価」の基準にはなっても、日常生活で「履行」することは難しい。

私は、「ルール」に基づく「ゲーム」を、少しでも市民サイドに押し返すため、法律の平易化の方法を考え、提言していきたい。

これから

ヒトは、「生命」の進化の過程で生まれ、その「認知システム」を作り出したのも進化であり、さらにこれに乗っかっているヒトの特質ともいえる「言語」も同様である。「ルール」に基づく「ゲーム」を、演じているのはそういう(AIと対比される知能=認知システム、言語を有する)ヒトである。

私が4月1日からやろうとしていたのは、まさにそういう位置づけを持つヒトの「社会」の解析作業であったが、最近、「決断科学のすすめ」という本を入手した。これはまさに私がやろうとしていた作業の基礎的な部分のまとめを実に要領よくやってくれていて、びっくりだ。その内容の紹介は、別途するが、とにかく書名を上げておく。

もうひとつ、このようにかくも長き不在の後に言うのも何であるが、このWEBの「抜本的改革」をすることにした。要するに、Wordpress,comをWordpress,orgに移転しようと思うのだ。今後は多分、サーバーから始まって、愚痴の集積をお目にかけることになろう。できるかなあ。

 

日々雑感

年賀の挨拶の次が、残暑見舞いというのは、時候の挨拶としては間違いではないだろうが、ブログではないですね。それはともかく、近況報告をしておきます。

会社の近況

私は、羽田空港におけるビジネスジェットの格納庫事業の「再生」「再建」に関与しているが、その将来像がきちんと固まれば、状況をきちんと報告しようと思っていたが、その機会がないまま時間だけが過ぎてしまった。少なくてもこの4月には何とかなるだろうと思っていたが、当局の不可解な対応によって事態はかえって悪化してしまった。今後の我が国のビジネスにとって不可欠な国際交流の重要な一翼を担うはずの羽田空港における格納庫事業は、残念ながらその将来が見通せない状況にある。その原因について、現段階で私的に分析、情報発信するのは、まだ時期尚早と思うので、今しばらく現状打開に努力したい。このままでは、これまでこの事業に期待し、力を貸してくれた多くの人に、迷惑だけをかけてしまうことになるのが心苦しい。

私の近況

科学へ

格納庫事業が上述したような状況なので、気持ちは何となくさえないのだが、冷静に考えれば私がなすべき課題は多い。

まず年初に掲げた「ここ最近の文字どおりの科学のビッグバンによって、少しずつ「真実」が明らかになってきていると予感させられる」との思いは、ますます強くなっている。

その主たる対象は「物質、宇宙、生命、意識」等々の「自然」であり、その中核は人を生物の遺伝、進化の流れの中で理解するということであるが、「自然科学」以外に、人の共同性である社会を「人の交流(関係)」と見て、その交流のビッグデータの解析、意味づけによって新たな知見を得ようとする「社会科学」もその緒に就いたと言えるであろう。

私はこれらの生物の遺伝、進化を中心とする最新科学を、何とか人の生活・仕事に生かせないかと考えている。

ただ私は科学を絶賛し、その提灯持ちをしたいのではない。科学と、人が通常行っている、生活・仕事の領域での活動は、その対象も、認識・認知方法も区別されるものであり(カーネマン「ファスト&スロー」の、システム1(速い思考)、システム2(遅い思考)を念頭に置いてもいいであろう。)、科学は今まで主として「工学技術」という形で後者に関与してきたが、それ以上に科学を生活・仕事に生かすべき方法は確立されていない。科学者が後者について発言しても、それは「科学的」ではない。科学者の行動も「科学的」ではない。

これとは別に、科学は、そのほとんどが「仮説」であるということも重要である。私は、10年前、20年前には分からなかったことが分かってきたとする最新科学の紹介がゾクゾクするほど大好きだが(アプリのnatureダイジェストを愛読している。)、よく考えれば最新科学は、今そうであるように、10年、20年経って振り返れば、全く古びたものになっているし、その何割かはそれ自体、間違いであったとされるだろう。だから、「仮説」という感覚もとても重要である。

生活・仕事、共同性へ

そのような科学を人の生活・仕事に生かすといっても、生活や仕事は誰もがやっていることであって、大事なのは、システム1(速い思考)によって動かされる生活・仕事の流れやその固有の価値観を相対化し、遺伝・進化の中で遠望する「智慧」だろう。そこから何が生み出せるだろうか、歩き始めた以上、やるしかない。。

更に人の共同性が国家という組織を構成することは、現在ではそれなりに理由があるが、とても残念なことだが、今国家を介して人が激しく対立し、国家内でも、人の自由や協調性に反する動きが目立っている。国家は「仮説」の最たるもので実体はなく人の交流(関係)があるだけだという、当たり前の事実から思考することは、実はとても難しい。これをどのように科学によって切開できるか。

仕事へ

といっても、素人「科学者」、「哲学者」としての興味は興味として、私の仕事は弁護士だから、これらの感覚を生かすため、国家が定立する法が、人の共同性のルール(規範)として、合理的、効率的で、必要最小限のものであるよう、司法、執行の面で関わる必要がある。また立法提言もしていこう。

孫娘と山

孫娘は3歳を超えて、ますます活発になってきた。私は折に触れて孫娘の写真を撮るが、その大半は、後ろからの、ぼけた写真である。一番いいシーンは、見ほれてしまって写真どころではないから。

やっと歩くことにも慣れてきたようなので、そろそろ山にも行けるかな。9月の休みには、入笠山に行くゴンドラに乗って、うろうろすることも計画している。

最後に

長々と近況報告をしてきたが、やはり観念を頭の中で転がしていても雲散霧消してしまう。本を読んだり考えたりしたら、できるだけ報告した方がいい。今のところの第1候補は「ヒトの起源を探して」(Masters of the planet )である。

読み返してみると抽象的で分かりにくい文章でした。