本の森

「本の森」はなかなか増えていかないので、カテゴリーの見直しを契機に、各カテゴリーのお薦めの本を、適宜2、3、ピックアップしておきます。暫定的なものです。

 

Ⅰ 宇宙と科学…エネルギー・物質・情報・宇宙・地球

「情報と秩序」「宇宙からいかにヒトは生まれたか」

Ⅱ 生命と知能…生命・進化・遺伝・知能・言語・自然

「なぜ生物は誕生したのか」「生命、エネルギー、進化」

Ⅲ 人体・医療・健康…Ⅱから取り出したもの

「ジエンド・オブ・イルネス」「人体600万年史」

Ⅳ 人類と社会…人類・集団・社会・文化・政治・経済

「啓蒙思想2.0」「決断科学のすすめ」「繁栄」

Ⅴ 経営・アイデア・技術…Ⅳから取り出したもの

「経済的価値と社会的価値を同時実現する 共通価値の戦略」「創造はシステムである」

Ⅵ 国家と法制度…Ⅳから取り出したもの

「法と社会科学をつなぐ」「法哲学」「数理法務のすすめ」

Ⅶ 論理とIT…論理・数学・計算・データ・PC・IT・AI

「哲学入門」「インフォメーション」「<インターネット>の次にくるもの」

Ⅷ 文芸・登山・その他

「Born to Run」、「芭蕉連句集」

Ⅸ まとめ読み

 

法とルール

AIが喧(かまびす)しい

最近、AIに関する話題が広く喧伝されている。しばらく本屋さんに行かないと、「人工知能」や「ディープラーニング」に関する新しい本が充ち溢れていてびっくりしてしまう(さすがに、Kindle本は、少し遅れる。)。ネット上での情報の氾濫はいうまでもない。

アメリカのクイズ番組でIBMのワトソンというAIが、歴代のチャンピオン2人に勝利したとか、そのワトソンの改良版が日本でも金融機関や医療機関で採用されたとか、AIが将棋のみならず碁でもプロを圧倒したとか、更にはさほど遠くない時期にAIによる自動運転車が実用化されるとか等々を聞くと、AIの能力が人を凌駕することが現実化しつつあるように思われる。

その結果、人の仕事が奪われるとか、2045年にはAIの能力が人を超えて制御できなくなるシンギュラリティ(技術的特異点)が来るということもいわれている。

私はパソコンもITも大好き人間なので、AIが現実化しつつあることにはゾクゾクしてしまうが、一方、昔からなぜか弁護士の仕事は、早々にAIによって淘汰されるともいわれているので、その意味では心穏やかではいられない。

だが、果たしてそうか。

AIの現状はどうか

そこで最近、「人工知能」や「ディープラーニング」、シリコンバレー発の新しい技術やビジネスの本を読み込んでいる。本当に面白く心がわくわくしてくるし(胡散臭い本も多いけれど)、多面的に読むことで、見えてくることも多い。

今AIが、本当の意味での出発点に立ったことだけは、間違いないといえそうだ。それは、コンピュータの処理能力の劇的な進歩、インターネットを通じて流通するデータの爆発的な増加、増加するデータを収納できるクラウド(サーバー)の普及等に加え、画像認識、音声認識等ではあるが、コンピュータ自身が「特徴量」を取得するアルゴリズム(ディープラーニング)の端緒がひらかれたことによる。

ただまだやっと出発点に立ったに過ぎないというのが正しそうで、特に、ディープラーニングが何を切り拓くことができるかはまだまだ予想しがたいので、人の仕事が奪われるというより、どれだけAIやIoT(「センサー+物+インターネット+データ+クラウド+AI」)によって、これまでにはなかった様々な作業が行え、サービス提供できるものが開発できるかということが、現下の課題だろう。

AIの能力が人を超え制御できなくなるなどということは、到底考える段階ではないようだ(もちろん、想像、考察することは興味深いが。)。

いかにAIと対応すべきか

冷静に考えれば、今後順調にAIやIoTといわれるものが世の中に充ち満ちても、人にとっては新しい商品やサービスが提供されるということに過ぎず、開発者を除く大部分の人にとっては、これまでどおり、いかにこれを受け入れ使いこなすか(どうすればつまらないことで時間や費用を浪費せず、生産性を上げることができるか)という問題が生じるだけである。

そして、人とその新商品や新サービスとの接点(「ユーザーインターフェイス」といえよう。)は、これまでもそうであったように、あるいはこれまでにも増して、人々を多くのストレスにさらすであろう。

現に実現しつつある、自動運転車、ワトソンによる医療判断、兵器のいずれも、人とAIのどちらが主体となって(責任をもって)操作するのかが、当面最大の問題であることが指摘されている(「AIが人間を殺す日」(小林雅一著))。

私が向き合うようなAIやIoTはそんな大それたハードやソフトではないが、それでもそのAIやIoTとどう接し、どう使いこなすかが最大の問題である。

これから何をどうすべきか

上述したように、私はパソコンもITも大好き人間で、これまで膨大な費用と時間と手間をこれに投じ(浪費し)、大きな喜びの他には、ごくごくわずかな成果を得ただけであった。冷静に振り返れば、使いこなせば迅速かつ正確で、大きく生産性を上げることができるであろうITなのに、膨大な費用と時間と手間を浪費してきた一番の原因は、私とITの接点(ユーザーインターフェイス)に穴が空いていたことである。

その穴は、私がいつまでもITのハードやソフトをよちよちとその場しのぎでを使うだけの「初心者消費者」に止まり、それ以上に、コンピュータやアルゴリズム、ネットワークの仕組みを継続的に理解して使いこなそうとしなかったことにある(言い訳ではないが、Web作成の労力のかなりの部分をHTMLのバグの補修に当てなければならないことを知ったときの徒労感は大きかった。)。

だからこれからは、AIやIoTの中味に少しでも立ち入ってソフトやハードに触れながら、これを継続して使いこなすのが大事だと思う。傍観し批評する「初心者消費者」から、これを使いこなす「主体的消費者」へ大変身だ。実はそれには、どうしてもその場限りで限りでぶつ切りされてしまう興味を、少し繋ぐ(継続する)ことに留意するだけでいいのだけれど。

弁護士と「AIと法」との関わり

弁護士と「AIと法」との関わりを考えてみよう。

弁護士とAIの関わりは、弁護士が、弁護士業務にいかにAIを活用するかということであるが、これについて上述したように「弁護士の仕事は、早々にAIによって淘汰される」といわれる。しかしこれは連邦国家でかつ判例法の国であるアメリカでは、何が法であるかの探求に大きな労力が割かれるので、そのためにAIが全面で活躍する余地があるのであろう。単一国家で成文法の国である我が国ではその意味でのAIの活躍の余地がなく、弁護士の業務としてもっとも重要なのは、事実の収集、確定なので、当面、AIによって弁護士が淘汰されることはないと思われる(アメリカでは、証拠開示制度があり、それがほとんんど電子データであるので、、その整理にAIが用いられていると聞くが、少なくても我が国はそのような状況にはない。)。

弁護士と「AIと法」との関わりは、怒濤のように進展するであろうAIやIoTの開発、製作、販売、提供、利用等をいかなるルールの上に載せて行うかという、自ずから国際的な規模とならざるを得ない立法、法令適用、契約、情報保護、及び紛争処理等の問題である。我が国での現時点での弁護士の取り組みは、今の法令ではこうなる、こうなりそうだという程度であるが、それでは法的需要は支えきれない。AIに「主体的」に係わり、弁護士としての仕事をしていく必要がある。

私も可能な限り取り組んでみよう。

今後のための「覚書」

まず、「2004年に私が考えていた「ITが弁護士業務にもたらす影響」」を紹介し、今広く読まれている「人工知能は人間を超えるか」(松尾豊著)から検討しよう。

その他、「人工知能」を網羅的に検討している「教科書」的な本、シリコンバレー発の新しい技術やビジネスの本等、参考になりそうなものを紹介しつつ、新しい動きもフォローしよう。

ただ私は、生命→進化・遺伝→(AIとは異なる)人間の知能(認知)→その人間が作る「社会」という流れの中で、「社会」がこれからも存続し、より円滑に機能することを実現させることに最大の興味がある。いくら新しいAIをたたえようと、戦争と極端な経済的格差を廃絶できないようでは、意味がない。それだけは忘れないようにしなければ。

日々雑感

 

羽田空港から淡路町への移転の中での「かくも長き不在」

羽田空港の法律事務所を後にしたのが2月末。3月いっぱいは、移転したカクイ法律事務所での片付けと仕事の態勢づくりに追われ、さて4月になったので、これから新しいことに取り組もうと思っていたその第1日目である4月1日、中高時代の友人とイタリアンでこれからの人生について気炎をあげたその帰りの電車で、久しぶりに痛風の発作、しかも今までにない大発作に襲われてしまった。大きな痛みは3週間くらいで収まったものの、足や膝の小さな痛み、違和感は、2ヶ月くらい続いた。そこへ、膨大な時間を要する、某訴訟及び某市の議員サイドから依頼された条例作りの仕事が重なり、動きたくても動けない中での、実に悲惨な4月、5月となってしまった。

それでも少しずつ回復し、スポーツクラブのジャグジー(元は子供用プール)を歩くことから始め、土・日に散発的にしていた超超スロージョギングが再開できたのがつい10日前、でもまだ初心者コースであっても山歩きをする「勇気」はない(途中で、万が一歩けなくなると思うと…)。しかも痛みが取れてからも、思いどおりに動けない日が続いたので、体力そのものが落ちてしまい、筋トレもウォーキングもやる気がしない結果、直近の健康診断で、史上最高の、体重、腹囲を記録してしまった。早くもとの普通のメタボに戻りたい!

しかし徐々に事態は好転しつつある(に違いない。)。仕事は、もう大丈夫だ。山歩きも、もう少ししたらできるだろう。しかも、4歳になったばかりの最愛の孫娘から、最近「じいじは、すごい山に、どんどん登るんだって。」と言われたのだから、「山男大復活」しかない(こういう気負いが、よく「遭難」の原因となる。)。

これが今回のかくも長き不在の理由だ。でもよく考えると、WEB投稿の不在の理由にはならないような気がする

弁護士の仕事をしよう

3年前、羽田空港に法律事務所を設けたときは、以後は、ビジネスジェット機を利用した国際医療搬送事業の立ち上げに注力し、基本的にその範囲内で弁護士業務をしようと思っていたのだが、諸事情により「出発は遂に訪れず」。淡路町への事務所移転を契機に、新しい気持ちで弁護士業務に取り組む意気込みがわいてきたが、痛風で2ヶ月丸々頓挫したのは、上記のとおりである。

さて私が基本として取り組む仕事の分野は、会社法と行政法であり、応用分野として、知財法、IT・AI法、医事法、労働法、税法、環境法(含都市計画、廃棄物処理、FIT等)、航空法等を視野に入れている(もちろん、普通の市民が遭遇する民事事件も、やります。)。

ここで正直に言うと、私はこれまで余り「法律」が好きでなかったので、国際医療搬送事業の立ち上げに関与しようと思ったのだが、この点は、淡路町に来て、大きく「転向」した。

その原因は、ひとつは、「法律」を「命令」というより承認による「ルール」だと考えると、法律自体の改革も視野に入れて、これを有効に利用、活用できるし、すべきだと今さらながら気がついたこと、もう一つは、某市の議員サイドから依頼された条例を一から書いて見て、法令の作成(立法)作業はなかなか面白いし、その適用を考えることは「ゲーム」だなと思ったことである。何と私は、深夜、スマホやタブレットの法令集で、今まで見たことも触ったこともない法令を読んで、その位置づけや意味を解析するのが誠に面白いと思うようになったのである。

要するに「法律」は、「ルール」に基づく「ゲーム」なのだ。

そうすると、今までできが悪くて見るのも嫌だと思っていた「会社法」や、どこに何が書いてあるのだか、膨大な法令の関係に途方に暮れていた「行政法」も、楽しくなってきた。その他の個別法も、解読するのが苦痛でなくなった。

ただ急いで言うと、今現在我が国で起案されつつある法令は、複雑で、非常に分かりにくいという傾向がどんどん加速されている。その原因であるが、ひとつは、「()書きの多用」によって、解読するのが極めて難解になっていること(起案する側からすると、勝手な指示ができる()書きは極めて便利である。)、ふつめは、いくら長文(あるいは長文と短文の羅列)になろうと、「並びに、及び」、「又は、若しくは」を、法令執務に従って正確に表現しようとして日本語として見苦しくなっていること(これは慣れると、係り受け関係が分かりやすくなるが、文章を短くすればいいのである。)、みっつめはもともとスッキリしていた法令に増改築を繰り返した結果、もとも構造が分からなくなってきていること等を指摘できる。

現在の複雑怪奇な法令の作成作業は、パソコンがあるからこそできるのであって、紙に鉛筆で書くのでは、到底できない。しかし、ヒトの「ルール」としては、紙に鉛筆で書いて作成できるぐらいの内容が、ちょうどよい。それ以上複雑になると、「評価」の基準にはなっても、日常生活で「履行」することは難しい。

私は、「ルール」に基づく「ゲーム」を、少しでも市民サイドに押し返すため、法律の平易化の方法を考え、提言していきたい。

これから

ヒトは、「生命」の進化の過程で生まれ、その「認知システム」を作り出したのも進化であり、さらにこれに乗っかっているヒトの特質ともいえる「言語」も同様である。「ルール」に基づく「ゲーム」を、演じているのはそういう(AIと対比される知能=認知システム、言語を有する)ヒトである。

私が4月1日からやろうとしていたのは、まさにそういう位置づけを持つヒトの「社会」の解析作業であったが、最近、「決断科学のすすめ」という本を入手した。これはまさに私がやろうとしていた作業の基礎的な部分のまとめを実に要領よくやってくれていて、びっくりだ。その内容の紹介は、別途するが、とにかく書名を上げておく。

もうひとつ、このようにかくも長き不在の後に言うのも何であるが、このWEBの「抜本的改革」をすることにした。要するに、Wordpress,comをWordpress,orgに移転しようと思うのだ。今後は多分、サーバーから始まって、愚痴の集積をお目にかけることになろう。できるかなあ。