おじいさんのため息
私がまだ大学生だった頃、この本の著者の、当時は最先端だった計量経済学に関する本を購入し、その「数学を利用し科学となった経済学」にため息をついた記憶がある。
時は移り、著者は、「数学の僕」と化した経済学を批判し、内外を問わず経済学者の知のあり方を批判し、経済政策や大学制度に関する、政治家、日銀、役人、経済人、更には審議会入りしているコンサルタントや経済学者、その他諸々の言動を批判する。
この本に書かれていることは、世代的にも実によく分かるし、批判の内容はほとんど賛成できる。でも私は、批判の対象とする事象にほとんど興味がわかない。「モラル・サイエンスとしての経済学のリバイバル」もどうだろう。なんだか、おじいさんの「ため息」を聞いているようだ。
「大学人の経済学者」が見る世界
大学の先生は、給与をもらって、「研究」と教育にいそしむ立場にある。その置かれた「下部構造」が「上部構造」である「意見」を規定する(ことが多い。)。
著者が、数学に堪能で、豊富な在米研究の経験を有し、経済学のみならず科学哲学、歴史等を研究し、「人文知と批判精神」を評価していても、どうも著者の批判は、「給与をもらって「研究」と教育にいそしむ」という固有の安全な立場、器から出ていないので、余り面白くないし、核心をそれているような気がする。「研究」の有り様は自ら打ち壊していけばいいし、有効な経済政策があると思うのなら、そのような立場に飛び込めばいいと思うのである。
今、大部分の人が住む世界は、もう少し、ビビッドで危ういと思う。
またこの本は、大学制度や入試制度の話題が多くを占めているが、私は大学にはほとんど行っていないので(卒業証書は、1年遅れてもらいに行きましたが…)、大学制度や入試制度は勝手にすればといいたくなる。もちろん大学で「制度化された専門的な分野」について「集中」的な訓練を受け、ある種の技能を身につけることはとても大切である。自学自習で何かを身につけるのはとても難しい。自分の息子や娘が大学で何かを学び身につけた形跡があるのはとてもうらやましい。私も大学に行きたかった!
だから結局、そのような場が確保できればいいだけだ。「学ぶ」ことはそんなに変わりようがないので、生半可な理解で現状や外国の制度に飛びつき、制度をいじればいじるほど事態は悪くなるだろう。歴史的な経験(寺小屋は、大学ではないなあ。藩校?)に学んだ方がいいだろうな。
結論
著者は思考力・判断力・表現力を身につけるには、「言語リテラシー」、「数学リテラシー」、「データリテラシー」が不可欠だという。「データリテラシー」は、IT+統計学であろう。実に正しい。でもそのためには「経済学」がいいというのは本当かな。
とにかく、高校卒業程度の(できれば大学の専門課程で使用するに足りる)数学(含統計学)と英語は何が何でも身に付けよう(何十年もいい続けているような気がするが。)。それができれば、「大学コンプレックス」は払拭されるし、「数学バカ」、「英語バカ」に盲従し、騙されることもなくなる。
さらには、著者の勧める「人文知と批判精神」に、進化論と自然科学、更にはIT・AIを身につけ、自由奔放にアイデアを組み立ってて行ければどんなに楽しいだろう。「そういうものにわたしはなりたい」。間に合うかなあ。
著者が紹介する「米国の大学の授業でよく使われている文献トップ100」にリンクさせておく。